夢喰い
 朝から途方に暮れていた。  起こした半身が朝の空気にひやりと冷え、できうることなら今いちど布団に潜り直したかったがすでに覚醒しきった理性がそれを是としなかった。怠惰を責める声ではない。出社までの時間が迫っていたわけでもない。むしろ余裕がありすぎて持て余すくらいだが、何よりも持て余しているのは隣で寝息を立てるひとりの女性である。  福沢は頭を押さえた。  眠る与謝野、同じ布団、夢よりもはっきりと残っている記憶。    到底潜り直せるはずがなかった。 (……なんたることだ)  ことの発端はなんだったか。酒を飲んだ。酔ってはいた。事情を辿ったところで酒の勢いという悲惨な結論にしか至らず、ちがう、と福沢はかぶりを振る。嗚呼。頭が痛い。 (——夢を)  ゆめを見るのだと。彼女は言った。  酒に強い彼女が酒の場で珍しく見せた弱い顔だった。目を覚ますとそこはいつかの地獄で、いくら目を閉ざそうと血の色が消えず、いくら耳をふさごうと呪いの声が滑り込んでくる。死なせた人間。死なせてやれなかった人間。彼女はまだ彼女を許せていない。  遣る瀬なくなって手を伸ばしたのだ。  すこしでも彼女の気が紛れたらと。夢に囚われなくて済むようにと。——けれど本当にそうか。 「う、ん……」  もぞと傍らで与謝野が身じろいだ。起きるか、と福沢は我知らず息を凝らす。  重たそうな瞼が震えた。まだ半分ほど微睡みに沈んだ薄紫が、ぼんやりと福沢をとらえる。起き抜けのあどけなさは少女の頃といくらも変わらない。 「——しゃ」  ちょう、と呼びきる前に彼女が目を瞬かせて、ぱちりと覚醒した。三秒ほどの沈黙。そうして、ああそうだ、そうだった、と天井を仰ぐ。気持ちはわかる。 「……おぼえてるかい」 「残念ながらな」 「ぜんぶ?」 「全部」  恥じらうでもなく彼女は息を吐いた。そうだ、残念ながら、覚えている。すがる彼女の指先も、熱に浮かされた瞳も、濡れたくちびるも声も何もかも。彼女のからだは見た目以上に華奢でそのくせやわらかくて正直こわかった。壊してしまいそうだ、と思わず呟いたのもおそらく夢ではない。彼女はくすぐったそうにわらっていた。 「——選択肢は、いくつかあるけれど」  与謝野がゆっくりと身を起こす。掛け布が揺れて白い肌が晒された。ゆうべの暗がりでは実感がわかなかった、彼女の肌はこんなにも美しかったのか。  朝の空気に身を震わせた与謝野が掛け布を引き寄せて、どうしたい、と福沢を見上げた。 「妾ももう聞き分けのないこどもじゃない、忘れろと云うなら忘れる」 「なかったことにしろと?」 「そうするべきならね」  軽やかに笑う、彼女の仕草はけれど少しぎこちなかった。懇願の色が見える。そうするべきだと、忘れろと、そう言ってくれと。  本音と建前に気づかぬ程度の付き合いではない。かと言って見て見ぬふりをしてやれるほど無頓着でもいられない。それは、と福沢はつっかえた言葉をひとつずつ手繰り寄せる。 「それはまるで、間違いだったと云われているようだ」  与謝野はゆっくりと瞬きをした。違うのかい、と慎重に微笑む。 「顔中に書いてあるよ、やらかしたってね」 「俺は」  たしかにそうだ。間違えた。彼女との距離も踏みとどまるべき一線も手順も、注意を払わなければならぬとわかっていながら迂闊にも酒に流された。彼女も自分も酔っているとわかっていながら手を取ったのだ。人はたしかにそれを間違いと呼ぶのかもしれない。  けれど。 「たしかに酔っていた。お前も酔っていた。大事な部下に——それも俺より二回り近くも若い女性を相手に、何をしているのだとも思う。恥ずべきことなのかもしれない。だが」 「福沢さん」 「悔いてはいないと、なかったことにしたくないと、そう縋ることはみっともないだろうか」  彼女の手にぎゅうと力が籠るのが見えた。らしくないねと笑おうとして、失敗した。  与謝野が唇を噛んで顔を伏せる。らしくない、と再度聞こえたそれは、ひどく心許なく聞こえた。 「なんで——どうしたんだい、福沢さん、だって忘れろッって云うほうがずっと簡単だ」 「同じことを云わせる気か」 「やめとくれよ、福沢さんはいつもそうだ、迷子も捨て犬も野良猫も放っておけやしない」 「猫は別の話だろう」 「同情だったならそう云っておくれ」  同情、と福沢はその言葉を取りこぼした。ひとつ呼吸をした与謝野が顔を上げて、そうだろう、と首をかたむける。細い髪が揺れて、剥き出しの肩にかかった。 「こんなことまでしてくれなくたっていいよ、福沢さんが妾を娘のように思ってくれてることは知ってる。ほんとうに良くしてもらった。恩人で、家族だ」 「ああ」 「父親と慕うべきだった、わかってるンだ。みっとものないのは妾のほうさ、こんな——浅ましい」  吐露される思いはまるで彼女自身を傷つけているかのようで、そうとわかっていながらひとつひとつ感情を噛み締める彼女の声はどこか痛ましかった。もういいと肩に触れた手に、与謝野のそれが重なる。  絡んだ視線。ついと目を伏せてから、見たこともないほど、与謝野はきれいに微笑んだ。 「——お慕いしていました、福沢さん」  あどけない少女の声と、たおやかな女性の声が、まじわう。  共に過ごした年月、彼女はひとつずつ感情を取り戻して、強さを身にまとって、そうして美しくなった。少女はいつの間にかみずみずしい女性へ。果たしてそれを父として見守っていただろうか。彼女の笑顔に、声に、涙に胸を焦がした、一体それはいつからだっただろう。  そうだ。彼女に何がわかるというのだ。  触れた肩を引き倒して彼女ごと布団に沈む。  同情なものかとやっとのことで絞り出して、唇を触れさせた。 「……いくら酒が入っていようと、いっときの情に流されるような男と思われているなら心外だ」 「だって」 「たしかに同情のつもりだった、少しでもお前の気が楽になったらと。だがそんなものは言い訳だ。俺はただお前がほしかった」  家族とも娘とも思ってやれない。父親と慕うべきと葛藤した彼女への、これはきっと裏切りになるのだろう。裏切りなら裏切りで背負うつもりだった。瑣末なことだ。彼女にこんな顔をさせずに済むのなら。 「——ほんとうに?」  今にも決壊しそうな双眸が。少しでも動けば溢れてしまうとこわがるように、じっと息を凝らして福沢を見上げる。  本当だと、福沢はひどく単純なこたえを口にした。 「同情などではない、昔も、今だって」 「福沢さん」 「浅ましいというなら俺のほうがそうだ。みっともないと訊いたな、お前もそう云った。だが——だが、最初から」  頬にかかる髪を払う。かすかに震える睫毛の陰影が美しかった。 「最初から、手放すつもりなんてなかった」  瞬いた彼女の眦から、つと涙が溢れた。ゆっくりとこめかみを伝って布団に落ちる。ほんとう、と確かめる与謝野の声は、無垢な幼子のそれを思わせた。 「本当だ」 「同情じゃなくて、なかったことにもならなくて、覚えてていいんだね」 「ああ」 「父親としてじゃなくても、娘になれなくても」 「ああ、そうだ」  大丈夫だ。囁くと彼女の腕がたどたどしく福沢にすがって、福沢はこたえるように与謝野を抱きしめた。体温が近い。鼓動が近い。いい年をした男女が朝からすることではないな、と流石にすこし情けなくて、かと言ってようやく触れた体温を手放すわけにもいかない。何も言わぬ、何も求めぬ与謝野がいじらしくて、寄り添うだけの時間だって間違いなく覚えておこうと福沢は目を閉じた。
かつて別名義で書いた代物ですがどう考えても置く場所がないのでこちらに。蓮見が書いた感を極力消したつもりだったんですけど読み返すと全然蓮見ですね。

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