深層のクックロビン
 どうして、と連なる声が心臓を揺さぶる。どうして、どうして、重なる声には幾つもの感情が籠ってうぞうぞと与謝野の良心を取り囲む。憎悪か。無念か。後悔か。生を望んだはずの彼らは行き場のない声で与謝野をなじる。  どうしてだなんて。自分のほうこそ知りたいのに。  やめてくれと与謝野は叫んだ。どうしてと声は続く。生きぬ彼らに生ける自分の声は届かない。どうして自分だけは生きているのだろう。  救える手を持っていながらいくつもの命を取りこぼした。届かぬひとたちを死なせてそのくせ与謝野は死に目に死なぬからだを持っている。  こたえのない問いを重ねる声の中に聞き覚えのあるそれが聞こえた。先生、与謝野女医。どうして。  どうして、与謝野さん。  突きつけられたそれは有り得るいつかの声だった。彼らを救えぬ時もきっとひとりで生きている。与謝野は声にならぬ悲鳴を上げた。 ***  飛び起きたからだにじんと嫌な熱が纏わりつく。口元を押さえる手が震えていた。  与謝野は覚束ない呼吸を懸命に整える。かちりと歯が鳴った。体はこんなにも熱を持っているというのに寒くてたまらない。ううと呻いて頼りない両手で自身を抱き締めた。悪夢の残滓に心が押し潰されそうで、いいや、あれは夢などではなかった、きっと誰かの慟哭だった。泣いていないことがせめてもの救いだ。  ふと隣を見やる。  与謝野が飛び起きた気配に起きる様子もなく、乱歩は穏やかに寝息を立てている。  知らず手を伸ばした。震える手を視界に認めて、与謝野は触れる寸でのところでその手を握り締める。  勝手にすぎる。自身の罪業に魘されて、自身の弱さに怯えて、彼に縋ろうだなんて。  はあと深い溜息をついて手を引かせた。寝てしまおう、とかぶりを振る。その矢先に引かせた筈の手を掴まれて、驚いた与謝野は声も出なかった。 「おきてるよ」 「──乱歩さん」  ごめん、と思わず口をついて出たのは謝罪のそれである。飛び起きた瞬間か、手を伸ばして逡巡した時間か、いずれにせよ彼を起こしたことに違いはない。  緩慢に身を起こした乱歩が与謝野の手を握りしめる。包み込む手が温かく、その体温でようやく、与謝野は自分の手がすっかり冷えていることに気が付いた。 「起こしなよ。なんで苦しいの我慢するの」 「我慢というか、これは」 「なんで泣かないわけ」  与謝野は言葉を飲み込んだ。  なぜだなんて、だって自分に泣く資格などないのだ。きっと彼だってわかっているだろうに。 「乱歩さんならわかるだろう、どんな夢だったかなんて」 「まあね、僕には理解できないけど。だって相手は死んでいるんだろう、存在しないじゃないか」 「アンタのそういうところ本当に羨ましいけどね」  与謝野は苦笑してそう単純じゃないんだよと言った。乱歩は不満そうに口を曲げて、そう言うと思った、と与謝野のほつれた髪を直す。 「夢は夢だ、そんなに深く考えることないんじゃない」 「夢じゃないんだよ、残念ながら、だって妾の救えなかったひとたちは現実に沢山いるンだ」 「それがみんな君を恨んでいるって?」 「さてねェ」  わからない。わからないからきっと悪夢に怯えているのだろう。弱い心を知られぬよう張り付けていた微笑みが急に心許なくなって、与謝野は不自然を承知でうつむいた。妾も知りたいよ、呟いた声は自分にしてはずいぶん投げやりだった。 「……名探偵ならわかるかい、届かなったひとたちが、医者としての妾を恨んでいるのか、異能者としての妾を恨んでいるのか」 「与謝野さん」 「どっちの妾なら許してもらえるんだい」  そうして与謝野は奥歯を噛む。口にするべきではなかった。内側で曇っていた感情が言葉にしたことでたしかな形を成していく。自分の内でくすぶる不安や恐怖を目の当たりにしてしまって、後悔とともに目元がじんわりと熱くなった。  触れていた乱歩の手が微かな躊躇を見せる。どうしてそんなことを訊くの、と、彼にしては珍しく悲しげな声だった。 「そんなの知らない、知りたくもないね」  だけどさ、と紡ぐ乱歩の声は突き放すようでいて優しい。その言葉と同じ、荒いようでやさしい彼の手が、ぐしぐしと与謝野の頭を撫でた。 「君は君に誇りを持ちなよ」 「誇り」 「そう。医者としての君と異能者としての君にさ」  君はそうやってひとを救ってきたでしょう。乱歩の言葉が不安がる与謝野の心に寄り添う。  ふつりと膨れあがった涙が、小さな音を立てて布団に落ちた。  そうだ、と与謝野は目をつむる。医者であることもこの力を持つことも与謝野の誇りだった。それを恨めとなじる、彼らの声がただかなしかったのだ。 「与謝野さん、君はきっと耳を傾けるほうを間違えているよ。与謝野さんが救った命は確かにある」 「うん」 「こんなの悪夢だって言っていいんだ、誰も君を責めたりはしないよ。こわい夢をみたって泣いて、誰かに抱きしめてもらえばいい」  奴らは幻影だ。そう言い切る彼の言葉が安堵をくれた。  誰か、と与謝野は聞き返す。誰か、と乱歩が繰り返すので与謝野は笑った。そうだね例えば、と彼は与謝野の髪をいじりながら身近な人間を挙げていく。 「まあでも、社長はきっと女性の涙に取り乱すタイプだからやめたほうがいい。国木田も同じだろうね、太宰は絶対弱みにつけこむ。谷崎は面倒事になるし敦も頼りにならない。賢治くんはおにぎりとかくれそうだけど」 「ふふ、困ったね、乱歩さんしかいないじゃないか」 「そうさ、その通り、僕しかいない」  高らかに告げた乱歩が与謝野の腕を引いて布団に沈んだ。ぎゅうと抱き込まれる。その力はいつもより少し強くて、どこにも行かなくていいと言ってくれているようで安心した。 「たくさん泣いてそのまま眠るといいよ。泣き疲れてきっとぐっすり眠れる、夢なんて見ないくらいにね」 「乱歩さん」 「大丈夫だよ、僕が云うんだから絶対だ。全部大丈夫だよ、与謝野さん」  じわりと滲んだ涙が彼の衣服に染み込む。見えもしない幻影の声が再び聞こえてくることが少し怖かったけれど、彼が大丈夫だというので大丈夫に違いなかった。包み込む体温が温かい。目を覚ましたら乱歩はきっとよく眠れたかと訊いてくれるのだ。その時こそ有り難うと笑いたくて、与謝野は涙に冷えた瞼を閉ざした。
(2018/05/12)

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