蒼色逃避行
 本来なら彼女と一緒に帰る予定だった。何処かで食べて帰るか、食材を調達して家で食べるか、それすら決まっていなくて帰り際に夕飯どうしようかと二人でだらだら繰り広げる、そのあたりも含めて乱歩は楽しみにしていたのだがその期待もあえなく立ち消えた。  夕方五時頃である。与謝野に依頼が入った。緊急の患者が入ったとやらで近くの病院から連絡が入り、それがよりにもよって政府のお偉方ときたものだから断るにしたって厄介な案件だ。もとより彼女は貸しをつくっておいて損はないと断る気などないようだったが。  済まないね乱歩さん、と与謝野は眉尻を下げた。夕方五時。病院まで三十分。到底定時までにで終わるはずがない。けれど依頼ひとつで彼女との時間をまるごと奪われるのも癪で、乱歩はいいよ別に、と暇つぶしを考える。 「先約は僕だ。僕は今日与謝野さんと帰るって決めてる。だから待ってる」  与謝野は目を丸くした。そんなに意外がらなくたっていい。  何時になるかわからないよ、と彼女は念を押す。お腹空いてるだろう、と気を遣う。たしかに空腹ではある。けれど宣言した通り、彼女の時間を先に押さえていたのは乱歩だ。 「さっさと切り上げてさっさと戻ってきなよ」  口を尖らせるとそれもそうかと彼女は笑った。有り難うねと言って、乱歩に鍵を手渡す。 「飽きたら先に先に帰っていていいよ。その時は連絡しとくれ」 「別に此処だろうが与謝野さんの部屋だろうが暇なものは暇だよ」 「本くらいならあるさ」 「伝記ものばかりじゃない」  悪いかいと言いながら彼女は出る支度をする。いつもの治療鞄。念のためそのまま帰れるように医務室も閉じる。終わったら連絡するよと乱歩に告げ、直帰になるかもしれない旨を国木田に伝えて彼女は事務所を出ていった。  乱歩はソファに寝そべって欠伸をする。たぶん遅くなるだろう、とわかってはいたが満更ではなかった。渡された鍵を眺めて上機嫌に笑う。目敏い太宰が何の鍵ですかと絡んできたが教えてやらないとあしらった。彼女と自分だけが知っていればいいのだ。 ***  彼女が帰ってきたのは九時を過ぎた頃だった。  病院側の飲み会につかまったと与謝野から連絡があったのは六時半頃である。乱歩との約束を無下にしてまで酒に釣られるはずもなく、外づらのいい彼女のことだ、その言葉の通りつかまったのだろうと少なからず同情していた。付き合いで顔を出す飲みの場は酒が不味くてかなわないと以前に愚痴っていたのを覚えている。  帰宅した彼女は乱歩の顔を見るなり悪かったねと苦笑した。夕飯は食べたかい、そういえば乱歩さんの飲めるものがない、何か買ってくればよかったね、と矢継ぎ早に乱歩の世話を焼こうとする。待たせてしまった乱歩のご機嫌取りでないことくらいはわかる。彼女の性分だ。 「いらない」  ソファから立ち上がり、外套を脱いだ与謝野の腕を捕まえる。驚いた彼女はどうしたんだいと首を傾けた。少々色づいた頬が一応アルコールを口にしたことを示している。そのくせ酔ったように見えないことが気の毒だった。 「甘やかしてもらいたくて与謝野さんを待ってたんじゃないよ。遅くなるのもわかってたし」 「おや、さすがは名探偵」 「だからそういうのいいって云ってるの」  基本的に与謝野は乱歩といると甘やかす側になる。乱歩だけでない、探偵社にしたって周りは後輩ばかりで、年長として振る舞っているうちに彼女はおそらくそういう感情の露出に鈍くなった。 「おつかれ」  彼女がきょとんとする。そういえばそういう感情があった、という顔である。  ああ、と溜息のような相槌のような中途半端な声をこぼして、与謝野はそのまま、とんと乱歩の肩に頭を預けた。 「……そうだね、つかれた」 「行きたくない飲み会くらい断ったら」 「大人の世界にはね、付き合いってモンがあるんだよ」  大人ぶって笑う彼女の声はそのくせ疲弊の色を隠しきれていない。ふうん、と乱歩は不満がって鼻を鳴らす。仕事柄伝手や人脈というものが割合大きな意味を持つことは理解しているが、そのためにこうして消耗しきった彼女を見るのも本意ではない。 「……大人なんて曖昧な定義だよ。無理することないのに」 「残念ながら大人なんだよ、無理だってしてないさ」  顔を上げた与謝野がひらりと乱歩から離れ、乱歩さんだって一応大人だ、と笑いながらソファに腰掛ける。無理なんてしてない、と今いちど繰り返す。まるで自身に言い聞かせているようにも聞こえた。 「収穫だってあった、貸しの二つ三つ、いざとなればゆすれる」 「過激だなあ」 「女に生まれた甲斐があったよ」  吐き捨てられた皮肉に乱歩は眉を顰めた。何かされたの、反吐の出そうなことを聞きながら彼女の隣に腰掛ける。与謝野は深く、内側の濁ったものを吐き出すように溜息をついて、乱歩の肩にもたれかかった。 「何もないよ。いつものことさ、今さらつっかかることじゃない」 「そんなことを聞いてるんじゃないんだけど」 「多少のセクハラも下世話な話題も奴らにとっちゃ当たり前なんだ、笑って受け流すことなんてわけない。場合によっちゃぶッ飛ばすけどね」  どちらかというとそちらのほうが見慣れている。うん、と相槌を打ちながら乱歩はその光景に思いを馳せた。女を舐めると痛い目に遭うとよく聞くが彼女の場合それは物理でくる。女性としての矜持を確かに持ち、それを無下にしようものなら容赦はしない、その強さを乱歩は素直に格好良いと思うのだが、こういう局面ではそれすら通用しないのだから世知辛い。 「受け流したんだ?」 「ぎりぎりね」 「与謝野さんの愛想笑いって僕からするとむしろ怖い」 「上手いことやってるさ。大人だからね」  繰り返すその言葉に、ただ、と彼女の力のない声が続いた。もぞと肩口に顔を埋める。鼻孔をくすぐるのは甘やかな彼女の香りと、少しのアルコールのにおい。 「ただ、大人って、つかれるねェ……」  乱歩はその頭をわしわしと撫でてやった。  今や互いに古参社員と呼ばれ、若手が増える一方の職場では年長の立場にある。日頃治療だなんだと身内には好き勝手に振る舞っている彼女だが、結局のところ誰彼構わず不遜に振る舞える乱歩とは違い、外で必要とされる処世術は身につけざるを得なかったのだろう。なんだか自分の分まで矢面に立ってもらっているようで少し後ろめたくもあった。力なくもたれかかった彼女の頭に頬を寄せて労う。 「なんだからしくないね、与謝野さん」 「神経すり減るンだよ、こういうのは」 「大人になんてなりたくない」 「妖精の粉が必要だね。だけど乱歩さんだって今日は大人だったじゃないか」  視線を上げた与謝野が肩口で笑う。なに、と問うと彼女の手がそろと乱歩のそれに伸びて、遠慮がちに触れてくるので乱歩は遠慮なく握り返した。 「約束を反故にしちまッて、帰りも遅くなったのに待っててくれただろう」 「僕だってそこまで子供じゃない。というか待つって云ったの僕だし」 「うん。お疲れって云ってくれて嬉しかったンだ」  安心した。破顔する彼女はいつになく素直で可愛い。一方でそれほどまでに諸々の葛藤を溜め込んで帰ってきたのかと思うと少々痛ましくもあった。男女平等を叫ぶ彼女であるが立場や建前が絡むと難儀なものである。 「……女性って大変だねって云ったら怒る?」 「怒りやしないさ。それに悪いことばかりじゃないよ」 「ふうん?」  たとえば、と問うと与謝野が訊くのかいと笑いながら乱歩の頬に触れる。乱歩は誘われるがまま顔を寄せた。触れたくちびるは少し熱っぽい。ぬるい口づけを重ねながら、ほつれた髪に指を通すと彼女は気持ちよさそうに吐息を漏らした。  ずるずると彼女ごとソファに沈む。髪をよけて額に口付けると与謝野はもっとと口づけをせがんだ。さすがに酔っているな、と乱歩は口内に残るわずかなアルコールの香りにすこし嫉妬する。 「疲れてるんじゃないの」 「野暮なひとだね」 「いいよ、がんばった君のために今日の僕は紳士的だから」  するりとタイを緩める。何がほしい、と問うと彼女は小腹がすいたとうそぶいた。つかれたから甘いもの、与謝野の腕が乱歩の首に絡む。乱歩は笑いながら紳士的とはほど遠い、けれど彼女の望む通りのくちづけをした。
(2018/04/13)
タイトルがいにしえの二次創作みたい。いにしえの二次創作なんですけど。

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