フェルマータ
 彼の身じろぐ気配で目を覚ました。  ひんやりと静かな部屋はまだ暗く、カーテンのむこうにも朝の気配はない。寝返りをうった彼の寝息がすぐ近くに聞こえ、こちら向きか、と与謝野はいささか緊張を帯びる。そうでなくとも彼を起こさぬよう布団から抜けるのは意外と難しい。  ひとまず時間を把握する必要がある。携帯、何なら乱歩の携帯でもいい、枕元にあったようななかったような、寝入る前の記憶がぐずぐずすぎてあてにならない。そろと手だけ布団から伸ばして探ってみたがそれらしき感触はなかった。どうせならと慎重に体勢を変えて彼に背を向け、背後に変わらぬ彼の寝息を確認し、これはいけるとそのまま布団から出ようとした矢先にがっちり抱き込まれて布団に沈んだ。 「おはよう、よさのさん」 「……起きてたのかい」  んん、と半分ほど寝ているような声で乱歩が応じる。往生際悪く身じろぐ体を難なく引き寄せ、与謝野の髪に鼻先をうずめたところで彼は落ち着いたらしい。くすぐったい、と頭を引かせたものの巻きついた腕の力が強くなっただけだった。 「まだ四時だけど」 「ああ、それくらいだろうね」 「出社までだいぶある」 「寝直したらどうだい、遅刻はするんじゃないよ」 「与謝野さんは」  きた、と与謝野は目をつむる。ここからが難関である。彼と二度寝などという、甘美で強大な誘惑に打ち勝つには相当の自制心が必要なのだ。しかも呼び止めにかかる乱歩の声は寝起きで少々かすれている。強敵である。 「妾は始発で一度帰る」 「なんで。別にいいでしょ、一緒に行けば」 「目敏いのがいるだろう、着替えないと。乱歩さんのおかげでブラウスも草臥れてる」 「うわ、言いがかりだ。昨日ちゃんとしておけばよかったのに」 「そんな暇もくれなかったのは乱歩さんだろ」  何をそんなにがっついていたんだい、と問うと乱歩は別にと言って首のあたりに懐いてくる。もとより気まぐれな性質の持ち主である。彼なりの理屈があったか、もしくは単純にそういう気分だったのだろうと深くまで訊くつもりもなかった。  見た目よりも力のある腕は目下与謝野を離してくれそうにない。背中に感じる少し高めの体温が心地よく、このままではほんとうに二度寝に誘い込まれそうで与謝野は自戒する。 「乱歩さん、離して」 「つめたい」 「妾だってこのまま寝てしまいたいよ」 「そういうくせに絆されてくれないんだもの、与謝野さん」  おやと与謝野は瞬いた。拗ねた口ぶりで思いがけない角度からの台詞である。確かに幾度もこうして乱歩に絡まれ、与謝野は毎度強い誘惑にかられながらも大人の理性でもって彼の腕から抜けている。もう少し若ければ職場が何だと彼の腕にくるまれて密度の強い二度寝に走っていたであろう。  そのあたりしがらみのない彼が羨ましくもあった。周囲の視線が気になるのは結局のところ与謝野のほうである。 「僕さあ」 「うん?」  手遊びで腹をなぞる手をやんわり抑え、振りむこうとしたが肩口にへばりつく頭のせいで無駄な動作に終わった。意外にやわらかい彼の髪が肌をくすぐる。 「いつも結局ここで与謝野さん見送ってるけど。ていうか気づいたらいなかったこともあるけど」 「それがなかなか難しくてね」 「そのあと、ほんとうに嫌なんだよね」  そのあと、と与謝野は首をひねる。一人寝が嫌だということか。それとも目覚めた時の話か。見当をつけかねる与謝野であったが、たしかに、その後顔を合わせた際に乱歩の機嫌が芳しくないことのほうが多い。 「与謝野さん、帰ってからシャワー浴び直すでしょう」 「へ? ああ、まあ、そうだね」 「服を着替えて、僕の部屋のにおいも落として、化粧し直して、いつも通りの与謝野さんになって探偵社でおはようって僕に云う」 「そのために帰ってるんだよ」 「なかったことにしてるみたい」  ああ、という納得の声と、いや、という否定の声とが混ざって妙な返答になってしまった。てっきり彼の我が儘を無下にしてしまうことに臍を曲げているのだと思っていたのだ。彼がそんなところまで頓着しているという事実も意外と言えば意外である。 「そういうつもりじゃあ……、いや、積極的に否定はできないけれどね」 「ひどい、僕とのことなんて遊びだったんだ」 「楽しいかい、乱歩さん」 「云ってみたかっただけ」  ああそうと彼の頭を撫でる。思いがけず難しいところの話になってしまい、果たして帰れるかと与謝野は時間を案じる。 「僕って意外と君のこと好きなんだけど」 「意外とって」 「君が思ってる以上にってこと。与謝野さんはそのことわかってないからあっさり帰っちゃうんじゃないかって」 「ああ……、名探偵もこの手の話になると形無しだねェ」  ともあれ彼がゆうべ妙に性急だった理由がやっとわかった。今の乱歩の理屈でいくと、つまりわからせてくれようとしたのだろうが、残念ながら与謝野は日頃の疲労も相俟ってわりと一杯一杯で、彼に縋り付くばかりで正直それどころではなかった。 「乱歩さんこそ妾がどれだけ苦労してここを出るかわかっているかい?」 「そりゃ僕は聞き分けが悪いけど」 「そうじゃない。このまま乱歩さんと二度寝できたらと思うと、うっかりすると仕事も体裁も全部放り出したくなる」  ふうん、と彼は気のない返事をして足を絡める。じかに触れる体温が熱い。先よりも熱い。一応言いたいことは伝わったらしい、と与謝野はその温度から答えを見出した。彼が納得するかは別として。 「いいじゃない、放り出しちゃえば」  案の定である。 「世界中の鴉が死のうが構いやしない」 「鴉が死ぬような誓いをよその男に立てた覚えはないよ、ひとりで手一杯だ」  誰のこと、と乱歩の手が脇腹をなぞり、与謝野のからだがひくと震える。まずい。強行手段に出た。  無理に腕から逃れようとするとうなじに歯を立てられ、喉元から情けない悲鳴がこぼれた。弱い声でやめてと訴える。彼は聞き入れずに与謝野をさらに引き寄せた。首筋を辿る唇に耳まで食まれて肌が粟立つ。本当にまずい。 「だ、め……、乱歩さ」 「いいよ、僕も大人だ、我慢する」 「云ってることとやってることが」 「判ってるよ、これ以上はしないからあまり動かないでくれる」  たちそう、と言われて与謝野は黙った。大人しくするほかない。 「萎えそうな話でもしようか」 「萎える程度で済む話ならね」 「先日賢治の実家の牛が——」 「もういい」  早々に察した乱歩が与謝野を解放する。ようやく自由がきいて彼を振り向くと、待ち構えていた彼に唇を吸われた。軽やかなリップ音。 「萎えたかい?」 「それ逆に煽られるからやめてくれる」  もう一度唇を合わせて与謝野はようやく身を起こした。あーあと乱歩が声を漏らす。名残惜しいのはこちらだって同じだ。  一度携帯を確認してから散らかる衣服を回収し、下着をつけているとじっと此方を見つめる乱歩に気付いて見るなと布団を被せた。彼はそのままもぞもぞと背を向けて二度寝の方向へ舵を取る。与謝野は邪魔にならぬよう洗面所へ向かって手早く身支度を済ませた。  蝶の髪飾りをつけて鏡を見やる。最低限でも化粧をしてしまえば気持ちは外へと向かう。先までの乱歩との睦言がやはり現実味を失い、好きだのなんだのと言ってもらっただけ何だかむなしい。  あのまま二度寝したところで後悔することなど目に見えている。  仕事もあるのだ。嗚呼、気が滅入る。  戻って携帯を回収し、布団の傍らに膝をついて手を伸ばすか考える。頭をなでたい。でも寝ていたら申し訳ない。もう少し考えて、けれど先の空虚感があとを引いていて、結局手を伸ばした。やわらかい髪に手をすべらせる。 「もう行くの」  乱歩は振り向かずに問う。やめろと言われないことをいいことに、与謝野は彼の髪をいじりながらうんと応じる。 「与謝野さん」 「ん?」 「僕ちゃんと君のこと好きだから」 「妾もだよ。どうしたんだい」 「君だけじゃないからね」  寂しいの。  彼はもぞもぞと背を丸める。触れる手は拒絶されない。ああ、と与謝野はようやく腑に落ちた。そうだ。この感情は寂しいと呼ぶのだ。 「……そうだね。有り難う、乱歩さん」 「年甲斐もない?」 「まだ若いだろ」  思わず彼の頭をぐしゃぐしゃとやると流石にやめてと手を払われた。与謝野は笑って手を引っ込める。 「それじゃあね、乱歩さん」 「うん、また後で」  寝坊はするんじゃないよと最後に釘を刺して彼の部屋をあとにする。  開けたドアのむこうは思ったよりも眩しい。目を細めて合鍵を探る。錠のかかる軽やかな音、そうして早朝の静けさにヒールを響かせながら、与謝野はひとつくしゃみをした。
(2018/02/24)
自分が眩しくてくしゃみ出る人種のためこういうオチになったんですがフォロワーいわくほぼ伝わらないらしいです。二度と使わねえ。

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