過不足の言いまえ
 九時を過ぎた。  だらだらとニュースを漁っていた携帯を閉じて、乱歩はちらと寝室を見やる。彼女はまだ起きてこない。正確には起きてはいるようだが布団から出てこない。三十分ほど前に様子を見に行った際には喉が乾いたと布団に沈んだまま訴えるので、仕方なく水を注いだグラスを枕元に供えておいた。下手に触れなかったのは掠れた声が少々不機嫌に聞こえたためである。  心当たりはある。というか心当たりしかない。最中に聞くいやだという彼女の言葉は本音の時と建前の時があって、ゆうべのそれはどう考えても本音のほうだった。わかっていながら自身の欲望を押し付けたのは乱歩だ。彼女が起きてきたら朝食の用意を買って出て機嫌を取るつもりで、けれど起きてこないとなるとそれもままならない。  別の策を講じようとした乱歩は、けれどすぐさま、やめた、と立ち上がった。  謝ろう。自分にしては殊勝な結論を弾き出して寝室へ向かう。  グラスは空になっていた。やはり起きてはいるらしい。  布団に潜り込んで黒髪しか視認できぬ彼女の傍らに膝をつき、ほつれて尚手触りのよさそうな髪に手が伸びかけて、今は違うとさすがに我慢する。 「与謝野さん」  応答はない。 「与謝野さん、ごめんね」  質素な部屋にぽつりと情けない言葉が落ちる。一体何をやっているのだ。勝手に不安がって無理をさせて、挙げ句彼女を不機嫌にさせて布団に謝っている。男が思っている以上に女のからだには負担がかかるのだと医者であり女である彼女から忠告されたことがある。わかってるよと軽率に応じたかつての自分を抓りたい。どうせなので頭の中で一応抓っておいた。 「嫌だって云うのに付き合わせてごめん。痕つけちゃってごめん。覚えてないけど痛がってたらごめん。調子乗って縛ろうとしたのもごめん。でもまあ実際縛ってないわけだし、いや違う、あとはなんだっけ」  思い当たるところが次々と出てきてかなしい。もしかして焦らした件も謝らないといけないのか、と心が折れかけたところで、もぞりと布団の山が動いて黒髪の合間から菫色が覗いた。布団から出てきた彼女の手が乱歩のそれに触れる。彼女らしからぬ辿々しい手つきである。 「……許してくれる?」 「珍しく弱気じゃないか」  三十分前と変わらず掠れた声であったが、彼女の瞳は困ったように笑っていてどうやら先刻も不機嫌ではなかったらしいと知る。乱歩は彼女の手を握りながら、そりゃあ悪かったとは思ってるし、ともごもご告げる。 「乱歩さんが心配するほど怒ってはいないよ」 「ほどって」 「反省はしてもらおうと思ってね」 「してるよ。でも怒ってないなら縛ればよかった」 「されてたら今ごろ口きいてないってわかってるかい」  いってみただけ、と乱歩は取りなす。 「本当にごめん。ちゃんと反省する。だから朝ごはん食べよう」 「要するにお腹が空いたんだね」 「それもあるし。というか怒ってないなら布団より僕の相手してくれない」  退屈なんだけどとついいつもの調子で愚痴ると、彼女もいつもの調子でそれは悪かったねと応じた。苦笑している。反省しているのは本当で、できれば自分なりに彼女を甘やかすつもりでいたのに結局甘やかされている。こういう性分なのだろう、と自分と彼女のそれをまとめて落胆した。 「朝ごはんなら先に食べてていいよ、退屈なのは申し訳ないけれど」 「やだよ、ひとりで食べるなんて味気ない。というか起きないの」 「ああ、まあ、起きるよ。そっとしといてくれ」 「え、まさか二度寝?」  与謝野が首を振る。彼女はそのまま枕に顔を埋めてしまって、唯一の接触となった華奢な手を弄ぶ。何気なく指先を見て爪の長さを確認してしまうあたりまだ昨夜の熱を引きずっているのかもしれない。短くても食い込むと痛いものだな、と埒のない、どちらかというと不埒なことを考えていると、ふいに彼女が、足が、と声をくぐもらせた。 「足が、立たないんだよ」  力が入らない。彼女の声もずいぶん力ない。  ああそういう、と乱歩のほうまで力が抜けた。伸ばされた手が辿々しく見えたのも気怠さの名残りであろう。こういうのって本当にあるのだな、と少し感心すらしていた。いや笑ってはいけない。笑っては流石にまずいと顔を伏せるが結局堪えきれずに肩が震えていた。 「……本当に反省してンのかい」 「してるよ。ほんと反省してる。ほんとかわいい」 「してないじゃないか」  今度こそ不機嫌に聞こえる声が余計に可笑しい。乱歩は一頻り喉元で笑ってから、笑ってないよと完全に意味の成さぬ弁明をする。 「着替え手伝おうか。何なら抱えて運んであげる」 「乱歩さん、女の体って箸より重いんだよ」 「その話まだする?」  腕力だの体力だのに関してはゆうべ散々展開させたはずである。言われて思い至ったらしい彼女が呻いて布団に潜ってしまった。よもや笑いを取り繕えていない声で、与謝野さん、と乱歩は呼びかける。 「一緒に朝ごはん食べようよ」 「わかったから一時間放っといてくれ。九時には起きる」  いよいよ乱歩は吹き出した。今九時だけど、と震える声で告げると乱歩の手元から離れた彼女の手が携帯を探り、時間を確認するなり無言で背を向けてしまう。本当に勘弁してほしい。 「わかった、十時まで待つから」  空腹を我慢するなど自分にとっては有り得ないことだ。彼女だってわかっているだろう。それにしても腹が痛い、と乱歩はひそかに深呼吸をする。 「一緒に寝ていい?」  ばつの悪そうな間を空けてから、すきにしなよ、と彼女は言った。そう言ってくれると思っていた。乱歩は遠慮なく布団に潜り込む。素肌のままの彼女が精神上あまりよろしくないのでさっさと二度寝してしまうことにして、次に起きた時こそおはようと言うこともついでに決めて、乱歩は柔らかい体を抱き寄せた。

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