ご機嫌取りに眷恋
 事の発端はビー玉だった。  太宰のとばっちりで怪我を負った国木田の治療を終え、凶器、もとい治療具の手入れと片づけを終えて医務室に戻ると、蛍光灯を反射するビー玉がデスクの端にぽつりと鎮座していた。覚えのない代物である。与謝野はそれを手に取ると一度灯りにかざしてみて、角度を変えるごとに細かい光がちらちら瞬くことを発見するとおやと破顔し、おそらく持ち主が自慢しようと医務室を訪れたものの与謝野の多忙に諦めて忘れていったのだろうとあたりをつけた。平和なことだ。  もともと珈琲を淹れるつもりだったのでついでに返してやろうとビー玉を手の平に転がして医務室を出る。事務所では絡む太宰をあしらう気力もない国木田がデスクに沈んでおり、調子はどうだいと声を掛けるとあからさまに背筋を伸ばすので笑ってしまった。 「そんなに怯えるくらいなら怪我なんてしてくるンじゃないよ」 「怯えてません」 「どうかなあ、国木田くんてば案外小心者だし」 「アンタもむやみに他人を巻き込むんじゃない」  そんな人聞きの悪い、と太宰はへらへら笑っている。言うだけ無駄である。与謝野は無視を決め込んだ。  珈琲なら私がと声を掛けてくれた春野にマグを渡して、もうひとつの用件を済ませるべく首を巡らせる。デスクにもソファにも彼の姿はなく、どうやら名探偵は不在のようであった。定時を過ぎた時刻からして帰った可能性もあるが、デスクには彼のインバネスコートが放られている。どこかで寝ているのだろうか。せめて畳んでおいてやろうとコートを広げると、不自然に糸の出た釦が取れかけていた。なるほど帰ったなと与謝野は判断する。 「乱歩さんはもう帰ったのかい」 「ええ、帰りそびれる前に帰るとかで」 「帰りそびれる?」  意味わかるかい、と今日一日乱歩と行動を共にしていた敦と鏡花に話を振ると、ふたりは揃って首を横に振った。私にもちょっとと太宰が首を傾けているので与謝野は考えることを諦める。どうせわかりっこない。  春野からマグを受け取り、ビー玉を置いて戻ろうとした矢先に敦の報告書を覗きこんでいた鏡花がそそくさと寄ってきた。そのビー玉、と切り出すのでこれかいとビー玉の乗った手のひらを広げる。 「それ、与謝野さんにあげるって」 「妾に? 乱歩さんが云ってたのかい?」 「そう。忘れ物だと思って返しにくるだろうから、伝えておいてって」  成る程と与謝野は笑った。綺麗なビー玉を自慢するのではなくくれると言うのだ。そこまで読んでいるのなら待ってくれてもいいのにね、と笑いながら鏡花に愚痴る。 「待つと気を遣わせるって云ってた。国木田さんの治療のせいで書類仕事が片付いてないって」 「手伝うって発送がないあたりが乱歩さんらしいね」 「与謝野さん」  鏡花がくいと与謝野の袖を引く。なんだいと問うと少女はなにやら神妙な面持ちで、何か言いかけたかと思うと目を伏せて口を閉ざしてしまった。おやおやと与謝野は彼女の表情に少しだけ心当たりがあって身を屈ませる。今一度どうしたんだいと鏡花を促すと、少女はすこし逡巡したのち周囲を窺いながら声をひそませた。   「ラムネ、私も飲んで、ビー玉を敦にあげた」 「ああ、成る程」 「綺麗だねって、敦が云ったから」 「うん」 「……与謝野さん、ビー玉、嬉しかった?」  だめだ、と思ったときには既に笑っていた。肩を震わせながら、妾は嬉しかったけどと少女を真似て声をひそめる。 「敦のことは判らないねェ。奴はどんな顔してたんだい」 「驚いてた。笑ってた」 「有り難うって云われただろ」 「……うん。嬉しかった」  じゃあそれで良いんだよと立ち上がる。擽ったくて笑いが止まらない。首を傾ける少女の頭をぽんと撫でて、珈琲とビー玉とささやかな至福を手に与謝野は医務室へ戻る。 ***  乱歩さんそろそろ、と肩を揺さぶられて目が覚めた。  うめきながら身を起こしてソファに座り直し、時計を見やる。一時間ほど寝ていたらしい。もう出るの、と愚痴ると国木田のうしろで谷崎が列車事故の影響で時間がどうこうと苦笑している。 「なんか……気が乗らない」 「そう云わずに」  重たい目元をこすり、だってさあ、とソファにに深くもたれる。正直もう一度寝転がりたいくらいである。国木田と谷崎がわりと余裕で乱歩の機嫌をとっているあたり、この時間を見越して自分を起こしたのだろう。そう思うと余計に気が滅入った。 「太宰でいいじゃない、僕ほどじゃないけど奴の頭もそこそこ使えるよ」 「——太宰」 「あ、乱歩さん、今太宰さんの名前出しちゃあ」  両手を広げる谷崎の勧告は完全に遅く、すでに国木田がぴしりと音を立てていた。こめかみに筋が立っている。件の自殺嗜好者より余程早死にしそう、と乱歩は思ったが面倒なので黙っておいた。 「あんな奴は可燃ゴミと間違えて捨てられて犬に懐かれればいい」 「か、可燃でいいのか……、あの、犬……?」 「ああそうだ谷崎、来月から可燃ゴミが火曜に変更されるそうだ」 「え、あ、そうなンですね、ナオミにも云っておきます」  そのくだりは果たして今必要なのか。二人のやりとりを眺めながら乱歩の体は徐々に傾いていき、二時半くらいの角度まできたところでそんなわけでと国木田が軌道修正に入った。乱歩さんしかいないんです、彼の口調からすると軌道が逸れていた自覚もないようで、乱歩は眼前の後輩が少し不憫に思えた。 「お願いします、乱歩さん」 「えー、聞いたところそんなに面白そうな事件でもないし、列車も面倒だし、コートの釦もさあ」 「面白いかはともかく奇想天外ではありますよ」 「乱歩さんの力が必要なんです」 「んー」 「あ、ナオミが、現場の近くに美味しいたい焼きのお店があるッて」 「たい焼きかあ……」  二人がかりの説得を聞きながら乱歩は欠伸をひとつ噛みしめる。そうは言っても気は乗らないし眠たいし、強いて言うなら喉が渇いたのでラムネが飲みたい。ふと自身のデスクを見て乱歩はあれと瞬いた。机の上に覚えのない山がある。勢いをつけてソファから下り、不思議そうな顔をしている二人の脇を抜けて山の正体を確認すると、馴染みのインバネスコートが丁寧に畳まれていた。  乱歩はそれを両手で広げてみる。頼りなさげにぶら下がっていたはずの釦は、定位置にきっちりと縫いとめられていた。 「乱歩さん?」 「ねえ、与謝野さんは?」 「与謝野先生? ですか?」 「与謝野女医なら近くの大学病院から応援の要請があったのでそちらに行っています。明日か明後日までは此処を空けると」 「ふうん」  なぜ彼女の名前が、と乱歩の真意を測りかねている二人に見えぬ角度で、乱歩は少しだけわらった。だってこんなの彼女に違いない。メモも何も残さないのが彼女らしくてそれが可笑しかった。乱歩はコートを羽織るとそれを大仰に翻し、しょうがないなあ、といつもの通りに笑う。 「与謝野さんがいないんじゃあ話し相手もいないし、どうせ退屈なら事件のひとつでも解決してやろうじゃないか」  ほっとした様子の二人はどうやら乱歩の気変わりをただの気まぐれと処理したらしい。構いやしなかった。自分と彼女が知っていればいいのだ。さあ善は急げだと乱歩は上機嫌にコートの釦をいじる。 ***  兄を庇ったナオミが大怪我を負ったとの連絡を受けて与謝野は慌てて探偵社へ戻った。昨日は名探偵がひとつ事件を解決した程度の平和な一日だったと聞いていたのに翌日には怪我人ときた。相変わらず落ち着きのない探偵社である。  医務室に入るとすでに血のにおいが充満していた。すぐさまナオミを奥に運び込むよう指示して、取り乱す兄だけは国木田に引きずり出してもらった。何か手伝えることはとやかましい社員たちを追い出して異能を発動する。狭い部屋に蝶が舞う。生きろ、と柄にもなく弱気に願ったのは昨日から詰めている病院での光景のせいだ。列車事故の被害者が次々運び込まれてくる。こぼれ落ちていく命も少なくはなかった。外から聞こえる谷崎の声が遺族の慟哭と重なる。歯を食いしばって無力感に堪えた、その感触を此処で味わうわけにはいかないのだ。  ナオミの顔が徐々に血の気と生気を取り戻してゆく。  与謝野は柄にもなくほうとしてしまった。 「ナオミ!」  はっとして現実に戻ってきた時にはナオミは元気に谷崎に抱きついていた。大事に至らず何よりであるがなにやら一息に疲れた。まだ検査があるんだと骨をきしませる兄をひっぺがして医務室から追いやり、すっかり血色のよくなった口をとがらせるナオミを座らせる。 「アンタが度を越したブラコンだってことは理解してるけどね、若い娘がむやみに傷を負うモンじゃないよ」 「先生だってまだお若いですわ」 「そういう話をしてるんじゃない」  眼前にライトをかざして瞳孔の正常を確認する。簡単な触診と問診を終えて異常なしと与謝野は告げた。お世話になりましたとしかつめらしく頭を下げたナオミが、顔を上げ様にデスクに目をとめてくすと微笑んだ。 「それ、乱歩さんからですわね」 「うん?」  彼女の視線を追うと洒落た千代紙の包みが鎮座していた。いつの間に、いや、おそらく医務室に飛び込んだ時から存在していたのだろうが、人騒がせな兄妹のおかげで残念ながら気にする余裕などなかった。  彼女の口から乱歩の名が出て来るあたり中身も知っているのだろう、包みを手に取ってなんだいこれはと訊いてみる。 「たい焼きですよ、きっと」 「たい焼き?」 「ええ、昨日、乱歩さんが依頼されていた事件現場の近くにおいしいお店があるって、兄にねだっておいたんですの」  へえ、と丁寧に千代紙を開いてみると、なるほど小さなたい焼きがころころと透明な袋に包まれて転がってきた。美味しいという情報もそっちのけで、随分かわいらしいじゃないか、と与謝野は相好を崩す。食べるのがもったいないですねとナオミもかわいらしい言い方で同意する。 「ああ、きっとそうだ、乱歩さんだねェ」 「おふたり仲がよろしいですものね」 「いいや、一寸したお遊びさ」  首を傾けるナオミに与謝野はつまり仲が良いんだよと笑った。ナオミがつられて笑う。彼女が立ち上がり際、お茶を淹れましょうかと気を遣ってくれたので一息入れることにした。本来なら病院へ取って返すところだが、千代紙とたい焼きのいじらしさが彼を思わせて諦めた。彼ならきっと働き詰めでは効率がどうこうと理屈を並べ立てて与謝野を休ませるに違いないのだ。  唯一、乱歩の在社を尋ねたところ別の依頼で出ているという話で、彼に有り難うと言えないことが残念だった。 ***  賢治が持ち込んだのは迷子探しの依頼であった。  先の列車事故の影響で駅周辺はいまだに混乱している。駅関係者から軍警、地域関係者に医療関係、報道関係と入り乱れる人込みの中で母親とはぐれた幼い少女は、結論から言うと隣町の交番で保護されていた。途方に暮れる母親を探偵社へ案内したのは賢治だったが、協力に乗り出したのは半分寝てはいたものの大方の事情を耳に入れていた乱歩で、地図見せてと起き上がった際には探偵社中の人間が一分ほど動きを止めることとなった。  大変に遺憾である。  成り行きで隣町まで同行する羽目になったことには流石に辟易したが、賢治とふたり、警官に饅頭を奢ってもらっていくらか気分は持ち直した。 「でも意外でした」  帰る頃にはすっかり日が傾いていた。都会の夕暮れはやはり狭いですねと笑う賢治が、そのままの調子で乱歩に笑いかける。 「迷子探しに乱歩さんが協力してくれるだなんて」 「うーん、みんな驚きすぎだよね」 「たしかに。でも僕も乱歩さんは殺人事件にしか興味がないものだと思っていました」  どちらかといえばそうだけど、と乱歩は否定はしない。事件や謎が大きければ大きいほど自身の頭脳は意味を持つ。ではどうして、と賢治が純粋な疑問を投げかけてきたので、どうしてだろうねえ、と乱歩は笑った。 「家出人の捜索とかだったら仕様もなさすぎて僕の出番じゃないけれどね」 「そうですね、僕らの出番です」 「力ずくかあ」  探偵社が見えてきた。うずまきで一息という誘惑にかられたけれど、饅頭も食べたことだし今回は通り過ぎることにした。彼女が戻ってきているかもしれない、という淡い期待もある。思えば何日も顔を見ていない。 「帰る場所があって、帰りたがっているなら、早く帰らせてあげたいって思うでしょ」  本当は少し羨ましかった。おうちにかえると泣きじゃくるこども、帰ろうと抱きとめる母親、遠い記憶をそこに重ねた。絶対と呼べる場所を持つ彼女たちの姿は、それを既にになくした乱歩には少々息苦しい光景であった。  軽やかに階段を上がっていた賢治が、ふと乱歩を振り向いてにこりと笑った。何、と乱歩はあまり後味のよくない思考を振り払って少年を見上げる。 「与謝野先生が云っていました、乱歩さんは淡白で薄情で傍若無人に見えて実は情の解る人だって」 「それ九割くらい悪口だよね」 「僕も依頼が終わるといつも早く探偵社に帰ろうって思います。今日乱歩さんがいてくれてほんとうによかった」  なぜか依頼を受けた彼から頭を下げられて乱歩は気が抜けた。まだ心の奥底では小さな感傷がくすぶっていたけれど、きっとすぐに忘れるだろうという確信もあった。探偵社はすぐそこである。  一段とばしに階段を上がり、賢治とともにただいまと勢いよく扉を開ける。おかえりなさい、とほうぼうから上がる声の中に期待していた人のそれはなかった。 「おかえりなさい、差し入れの羊羹がありますよ」 「わあ!」 「んー、僕はいいや」  羊羹に食いつく賢治を置いてデスクに戻る。帽子を脱いで椅子を引いたところで、自身のデスクにはおよそ似合わぬ色合いが目についた。  乱雑なデスクの中央にちょこんと見覚えのある千代紙が鎮座している。自分の知っているそれはたしかたい焼きをを包んでいたはずだったが、目下、千代紙は小さな蛙の姿を模している。  乱歩は思わず笑った。  指先で折り目をおさえて離す。ぴょこんと跳ねる。しばらく蛙と戯れているうちに堪らなくなった。せわしなく資料を抱えている国木田を呼び止める。 「ねえ、与謝野さんまだいないの?」 「戻られてますよ。医務室にいると思いますが」  望んでいた答えはあっさり寄越された。ああそう、と乱歩はさっさと踵を返して医務室へ向かう。 ***  は、と目を覚ますとえらく静かだった。  枕代わりになっていた腕がじんと痺れる。デスク上の時計を見て与謝野は今いちど突っ伏すところであった。定時などとうに過ぎている。探偵社にあるまじき静寂からして社員たちも全員帰ったのだろう。げんなりした。  うたた寝などしてしまった自分が悪い。きっと明日には彼の顔も見られるだろう。帰ろう、と気合いを入れ直したところで缶珈琲の存在に気がついた。乱歩だ、と直感する。缶でくるあたり絶対に彼だ。手を伸ばそうと身じろいだところで、肩に覚えのないコートが掛けられていることにも気付く。  乱歩のコート。缶珈琲はすっかり冷めている。  ああ畜生、と与謝野は乱歩のコートを握りしめてデスクに沈んだ。  起こしてくれたらよかった。そうすれば顔を見られたのに。  意外にも彼は女性に対して紳士的に振る舞える一面をも持っている。与謝野は彼のそういうところも好きだが今回ばかりはそれが恨めしい。  はあとひとつ息を吐いて、与謝野はのろのろ立ち上がった。全部明日にしよう、と匙を投げる。仕事も缶珈琲のお礼も、彼を恋しがることも。  医務室を閉じて事務所へ向かう。電気はすべて消えていた。響くヒールの音が無性にさびしい。乱歩のデスクにコートを置いてぐるりと無人の事務所を見渡し、ソファにひとつ塊を見つけ、思わず二度見した。人間である。 「……乱歩さん?」  ソファに横になり、盛大に口をあけて寝る乱歩がいた。んあ、とその口から腑抜けた声を発し、彼はしばらく呻いたあとにぱちりと目を開ける。 「あれ……、与謝野さんだ」 「風邪をひくよ。というか、みんな帰ったんだろう? 何してるんだい」 「ああ、そう、国木田が戸締まり宜しくって」 「うん」  それは別にどうでもいい。  泊まりかいと訊くとまさかと突っ返された。彼と会えない数日に焦れていたはずだが、会ったら会ったで別段大きな感動もなく、こんなものか、と与謝野は可笑しい。長らく顔を合わせないことが非日常だっただけだ。ずいぶん長い非日常であった。  ところで彼がこんな時間まで居残りをしていた謎が解けていない。帰らないのかい、と与謝野は乱歩に改めて訊いた。 「帰るよ。というか起きてこなかったのは与謝野さんじゃないか」 「妾?」 「そう。ねえ、僕、結構長いこと君の声を聞いてなかった気がするんだけど」  え、と与謝野は声を取りこぼす。彼はいまだ寝転がったままであるが、翡翠の瞳がまっすぐに与謝野を捉えていて帰る気があるのかないのかわからない。聞き分けのないこどものような瞳を見下ろしながら、意外と、と与謝野は思った。意外と彼も淋しがってくれていたのかもしれない。  ゆると持ち上げられた手が与謝野のそれを絡め取る。寝起きのためか少し熱い。控えめに握り返すと満足したのか、切れ長の目元が緩んだので与謝野も頬を緩ませた。 「乱歩さん、ビー玉有り難うね」 「僕も、釦なおしてくれて有り難う」 「たい焼き美味しかったよ」 「蛙も可愛かった」 「珈琲は冷めちまったけど……ああ、しまった、何も持ってない」 「え? あるじゃない」  ぐいと腕を引かれて変な声が出た。慌ててソファに手をついたものの巻きついた乱歩の手も強く、不安定な体勢もあって結局彼の上に倒れこんだ。間近に覗く満足げな双眸に、一応、危ないじゃないかと文句を垂れる。 「明日、僕のデスクにラムネ置いておくつもりだった?」 「うわ」 「やっぱり。そうしたら振り出しに戻るしね、僕与謝野さんのそういうところ好きだよ」 「趣旨変わってるじゃないか。当てたら面白くないだろう」  いいんだよもうおしまい、と乱歩が笑う。与謝野は少し面白くない。これでは自分ばかりがもらいっぱなしだ。 「妾が乱歩さんに返しておしまいってほうが綺麗なんじゃないのかい」 「だから貰ったって」 「へ?」 「与謝野さんの顔が見れた」  この男は時折とんでもなく気障な台詞を平気で口にしたりする。  面食らった与謝野はぱちりと瞬いてから、それじゃおあいこだよと笑い出した。 「妾だって乱歩さんの声が聞けた」 「じゃあいいじゃない」 「そうだねェ」  与謝野はこぼれた髪を耳にかけて、不安定に抱き締められた体勢のまま彼に唇を寄せた。かさついた唇に触れ、ああ口紅が落ちてしまうと離れるともう帰るだけでしょと彼の手が後ろ頭をおさえる。それもそうだ。心置きなく唇を重ねた。 「ん……」  唾液の交じるキスをする。職場で何をと糾弾する理性も残ってはいたが、髪をくしけずる彼の指先がここちよくてどうでもよくなってしまった。熱い舌にじんと身体が熱を持つ。秒針の音がやけに遠くに聞こえる。内側にくぐもる熱と水音のせいで現実味がない。  ああまったく、何をしているのだろう。なんだか可笑しくなってしまった。 「……何?」 「いや……、妾らもまだ若いね、こんなところで何してるんだか」 「与謝野さんのお返し。ついでに僕からのお返し受け取る気ない?」 「帰ってからにしようかね」  流石に歯止めの利く自信がない。いいよと解放された体を起こし、力の抜けそうな足を叱咤して現実に戻る。口元を拭いながら起き上がる乱歩を横目に鞄から口紅を取り出し、さて鏡をという矢先にリップブラシごと掠め取られて驚いた。直してあげると大変に上機嫌な名探偵に顎を掬われ、与謝野ははいはいと大人しく彼に向き直る。 「全然会えないのに色々あってさ、いや逆か、色々あったから会えなくって……、まあ、どっちでもいいんだけど」  乱歩は存外器用な手つきで与謝野のくちびるを彩る。くすぐったくて笑うと動かないでと念を押される。無茶な話だ。うっかり相槌を打ってしまいたくなるので出来れば黙っていてほしいが、今は彼の話を聞いていたくて我慢する。  少しはみ出した紅を指先で掬い、いいよ上出来、と乱歩は与謝野を解放した。噛みつきたいくらい、といらぬ自画自賛までする。 「話したいことがたくさんあるんだよね、ああ、でも与謝野さんの話も聞きたいし」 「気障ったらしい看護師に口説かれた話に興味がなけりゃ乱歩さんの話を聞かせておくれ」 「いやそれはそれで詳しく聞かせてくれる?」  乱歩に手を取られ、窓と電気の確認をして施錠、事務所をあとにする。夕飯について食べたいものと面倒でないものとの妥協点を二人で繰り広げながら、塗ってもらった紅を思い、そういえば結局こちらが返す番ではと与謝野は思い至る。  彼の食べたいものを優先する。話をたっぷり聞いてやる。あれこれ考えてから面倒になって、帰ったらうんとサービスをしよう、という大雑把な結論に落ち着いた。なかなか決まらぬ夕飯について不毛なやり合いをもう少し楽しむことにした。
(2018/02/17)

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