空しらぬ子守歌
 普段通りにおはようと出社したもののおはようございますと応じる社員の表情は芳しくなかった。  与謝野にも自覚はある。今の顔色は最悪であろう。先週まで大きな密輸組織の掃討で治療に荒事にと非常に忙しく、休みに入ったと思った矢先に複合商業施設で爆発テロが発生、怪我人が大量に出たため馴染みの大学病院から応援要請があり実質休みなどなかった。かいつまんで現在の体調を述べると寝不足の一言に尽きる。  あの、と恐る恐るの体で声をかけてきた敦に与謝野は綺麗な笑顔で応じた。綺麗、とはつまり治療の時間だと鉈を抜く瞬間のそれを綺麗に再現した、という意味である。 「なんだい、怪我でもしたかい」 「い、いえあの、——なんでもありません」  怯えきって退散する敦の肩を谷崎が叩いている。無言のままじっと見上げてくる鏡花には何でもないよと微笑んだ。聡い少女である。 「悪いけど今日は此処を空けるよ、アンタたちの耳にも入ってると思うけど先のテロのおかげで病院の人手が足りてないンだ」 「与謝野女医——」 「国木田、悪いが社長にも伝えといておくれ。何かあれば直接連絡くれて構わないから」 「しかし」 「頼むよ」  直接会ってはおそらく止められる。  不憫な少年と同じく物言いたげにしていた国木田は、さすがに長い付き合いだけあって諦めたように口を閉ざした。太宰は端から触れる気はない様子である。それじゃよろしくねと心置きなく踵を返した矢先、できれば会わずに済ませたかった男の賑やかしい声が聞こえた。 「おはよう諸君! 休みも挟んだことだし何か面白い事件起きてない? ちなみにテロは僕の趣味じゃな——うわ、与謝野さん顔色悪っ! おはよう!」 「おはよう乱歩さん」  社内が一瞬ぴりついた。締めがおはようで済んだためいくらか空気も緩和されていたが、おおむねの社員の頭を過ぎったのは言っちゃった、というそれである。彼の前に地雷なんてものは存在しない。  乱歩はずかずかと与謝野の目の前までくると、与謝野の顔をじっと見つめて翠の双眸を薄く開いた。先までの調子とは裏腹にしかつめらしい声で顔ひどいよと繰り返す。 「それじゃどっちが患者だかわかりやしないよ」 「どんな顔していようとこの通り体は元気さ。心配無用だよ」 「ふうん? あ、社長、おはよう」  げ、と与謝野はかろうじてその声を飲み込んだ。乱歩に続いて福沢まで出てきてしまっては分の悪い一方である。他の社員たちの言葉ならいくらでも流せる自信はあるがこの二人が相手ではそうもいかない。  おはようと応じた福沢がふと与謝野に目を止めてやはり何か言いたげな顔をした。先手を打ったほうが早い。与謝野は口を開く。 「社長、今日は一日医務室を空けるよ。応援を頼まれてる」 「……今のお前の顔を見て何も言わずに見送るほど私の老眼も進んでいない」 「眼科は専門じゃないがそれくらいは知ってるよ」 「まず休め」 「そんな暇は……、乱歩さん?」  突如眼前に乱歩の手のひらが突き出され、与謝野はぱちりと瞬いた。さしもの福沢も意表をつかれた様子である。何だい、と訊くと、乱歩は五秒、と無駄のない言葉を突きつける。無駄がなさすぎてわけがわからない。 「五秒?」 「そう。五秒目を瞑ってみて」 「はあ」  思えば彼の突拍子のない言動は今に始まったことではない。時間を気にしつつ、ついでに無関心を装いながら好奇の空気が見てとれる社員たちの視線も気にしながら、与謝野は言われるがまま目を閉じる。  いーち、と乱歩の声が聞こえる。合わせて与謝野も暗いまぶたの裏で数をかぞえる。にーい、間延びした声につられて瞼が重くなり、三で意識がぐんと沈む気がした。まずい。四で重心を見失わぬよう足で堪え、五を数えた乱歩にはい目開けてと言われて慌てて目を開く。  引き上げられた意識が揺れて平衡感覚を失った。ほらねと乱歩に腕を引かれて自身の体が後方にふらついたことを知る。しくじった。 「ところで与謝野さん、医者の不養生って言葉知ってる?」 「……意地が悪いね」 「自業自得だ。てことで今日は与謝野さん休業、いいでしょ社長」 「ああ、医者が倒れては元も子もない」 「きゃ」  気が付くと福沢に抱き上げられていた。驚いて身を捩るがそれすら危なげなく抑える彼の腕は力強い。福沢は綽々とした声でおとなしくしていろと言うが無理な話で、かと言って下ろせとむやみに噛みつける相手でもない。体調不良を暴かれた上にこの体たらく、と与謝野はいたたまれなくなって結局押し黙る。言われた通りおとなしくさせられている現状に知らず顔が熱くなった。 「乱歩」 「えー、僕番号なんて知らないよ。国木田、病院の連絡先わかる?」 「は——ええ、一応、手帳に」 「じゃあ電話しておいて、与謝野さん今日行けないって」 「病院側に人手の不足も確認しておけ。人員をそちらへ割いて構わん」 「承知しました」  結局すべてを国木田に丸投げする形となった。本人はそんなこと気にも留めないだろうが、与謝野にしてみれば自身の不始末をすべて押し付けているようなものだ。なんて不甲斐ない。言いそびれた謝罪もあとで伝えなくては、と目を閉じる。  配慮を忘れぬ福沢がゆっくり歩いてくれているのがわかる。当然のようについてくる乱歩の足音。包み込む腕は大きくてどこか懐かしい。一度瞼を閉じた時点で結末は決まっていた。医務室にたどり着くより早く、福沢の腕の中で与謝野は眠ってしまった。 ***  一時間程度のつもりだったが視界に入った時計を見る限り三時間は寝ていたらしい。一度目をつむってから再び時計を見たが変わらぬ現実がそこにあった。くらりと目眩がする。仮にも職場で、いくらなんでも寝過ぎだ。  気が滅入ったついでに視線を巡らせると寝台の傍ら、椅子に腰掛けた乱歩がうたた寝をしていた。腕を組んだ体勢で器用に寝ている。寝台の端に纏められた原稿はおそらくポオの新作であろう。退屈を何よりも嫌う彼がどれほど長いこと付き添ってくれたのだろう、と少し申し訳なくもあった。  慎重に体を起こす。乱れた髪を手櫛でなおすと髪飾りがないことに気が付き、枕元や掛け布の上、目で探せる場所を一通り見回したが見つからない。もういい今ではないと捜索の優先順位を下げて与謝野はゆっくりと寝台から足を下ろした。極力音と気配を殺して、起きてくれるなと様子を窺った乱歩の手中に見慣れた髪飾りを発見して動きが止まった。  え、と与謝野は逡巡する。え、どうする。  その一瞬が命取りであった。 「残念」 「うわ!」  ぱちりと目を開いた乱歩が躊躇う与謝野の腕を掴み、身を引かせる暇もくれずに寝台にもつれ込んだ。勢いごと二人分の体重を受けた寝台が耳障りな音を立てる。あわや打ち付けるかと思った背中には乱歩の手がぬかりなく差し入れられ、かわりに寝台の縁にぶつけた足が少々痛い。 「乱歩さん!」  覆い被さる乱歩を見上げて与謝野は文句を飲み込んだ。てっきり悪戯の成功に満足げに笑っているものと思っていたのだ。その影は一切もなく、日頃より自分の欲求と感情に素直な彼は不機嫌な顔を隠そうともしない。穏やかでない眼光が与謝野を射抜く。 「逃げられると思った? 与謝野さんってそういうところほんと甘いよね」 「乱歩さんはこういうところが本当に卑怯だ」 「卑怯なのは君のほう。一度病院に顔を出してしまえばこっちも無理に連れ戻せないからね」  完全に読まれている。こういう時ばかりは彼の頭脳が実に厄介である。 「それほどの事態だって判ってるンじゃないか。さっさと退いておくれ」 「そんな白い顔で何が出来るって云うのさ」 「治療だね。妾は医者だ」 「医者は与謝野さんだけじゃない、君ひとりいなくたって変わりやしないよ」  与謝野はぴくと眉を顰めた。  確かに大きな病院である。優秀な医者も多くいる。いざという時の伝手も後ろ盾も充実しているに違いないけれど、それでも手が足りないのが現状だ。医者として、異能者として、怪我人が待っているであろう事実を思うと乱歩の言葉は聞き捨てならない。 「乱歩さんに決めつけられる筋合いはないよ。ひとり多ければその分ひとり多く診てやれるだろう」 「ひとり多く呼べばいいだけだ。君は患者を診るより自分を見たほうがいい」  鏡持ってるでしょ、と乱歩が空とぼける。笑ってやれる余裕は今の与謝野にはなかった。 「そのひとりは妾じゃない、今まさに妾の力でしか救えない命があったら」 「僕を押し退けて駆けつける? それでまた倒れるわけ」 「妾が倒れようと妾の勝手だ。この力は妾のものだ」 「そういうところだよ!」  引き攣れた声に与謝野は口を噤んだ。きんと耳が鳴る。  乱歩が怒っている。その感情が他でもない自分に向けられている。与謝野にとっては衝撃的な事実だった。無茶な治療や痛飲をちくりと咎められたことは何度かあるけれど、彼の露骨な怒りをじかにぶつけられることはおそらく初めてだ。  正面から受けて立ってもよかった。どうしたって譲れぬ道だ。  けれど今回それができなかったのは、そういうところだと呟く乱歩の表情があまりに苦しそうだったためである。 「乱歩さん?」 「君のそういうところが凄くきらいだよ」 「そういう、って……」  つきりと胸の奥が痛んだ。嫌いだなんて言わないでほしい。絞り出したような乱歩の言葉が心臓に食い込んで、けれどどういうわけか彼のほうが辛そうにしていて、そんな顔をしてまで言わなくともいいのに、と与謝野はなんだか遣る瀬ない。 「勝手だなんてどうして云うの、与謝野さんはいつもそうやってひとりで背負い込む」 「背負い込んじゃいない、妾が医者で異能者である限り妾の仕事だ」 「自己犠牲が仕事? ああ最低だ、反吐が出るね」 「大袈裟だよ」 「大袈裟なものか!」  は、と与謝野は息を呑んだ。 「そうやって君は一度死んだじゃないか」  ぱたりと音がする。綺麗な翠の瞳から、綺麗な滴が落ちて寝台に滲む。  江戸川乱歩が泣いている。  夢でも見ているのか、と与謝野は本気で現実を疑った。もしかするとまだ寝ているのではないのか。だって福沢の腕はあまりに心地よかったから、いやこんなことを言ってはきっと彼はやきもちを妬いてしまう。  もちろん心当たりはある。けれどあの推理遊戯の出来事はその後特に触れられることもなく、終わりよければすべて良しの方向で処理されたものと思っていたのだ。だって過去の事件を引き摺るなど彼らしくもない。まったく彼らしくないではないか。つまり彼は長らく、与謝野の死に対する自責や呵責をひとり押し殺していたことになる。  そうか、と与謝野はようやく彼の涙を受け止めた。  それはずいぶん苦しかっただろう。 「ごめん」  泣き慣れぬ乱歩の嗚咽が胸を締め付ける。  与謝野は彼の頭を抱き寄せた。 「ごめん、乱歩さん」  苦しそうだった乱歩の表情の意味がようやくわかった。彼は怒っていたのではない。こわがっていたのだ。彼の内に棲む感情としてはおおよそ珍しい種類のそれで、きっと乱歩自身も正体がわからず持て余していたのだろう。苛立ちでも癇癪でもない、ただ与謝野が傷付くことをこわがっていただけだ。 「与謝野さんが倒れるところも傷つくところも見たくないよ。治るからとか関係ない。異能も医者も関係ない。どうしてわからないんだ」 「悪かったって。妾が無神経だったよ」 「ぜったいわかってない」 「うーん」  難しいところである。与謝野は目を伏せる。  わかったと言ってやることは容易い。けれど与謝野がこの力を持つ限り、医者でいる限り、優先すべきはどうしたって患者だ。もしかすると彼の思いよりも優先することとなる。できればその事実を後ろ手に隠してやりたいが、どんなに綺麗に取り繕ったところできっとそれは嘘になってしまうのだ。傍目には与謝野を押し倒しているような体勢で、その実母の首に縋り付くこどものような乱歩を見ていると、それはやはり不実な気がした。 「医者として、約束はできないよ。きっと妾はこれからも同じことをするからね」 「しってる」 「だから代わりと云っちゃなんだけど、同僚として、無茶はやらないよう努力するって約束じゃ駄目かい」  努力、と乱歩がつぶやくので、努力、と与謝野も繰り返す。譲歩と呼べるほどの譲歩でないことは与謝野にもわかってはいるが、いかんせん譲れぬ道だ。どうせ乱歩もわかっているのだろう。  彼は少し黙したのち、はあと息をついて脱力した。重い。 「……同僚として?」 「一応職場だからねェ」 「努力って」 「乱歩さんを泣かせない努力」 「社長の腕で寝ない努力もしてくれる」 「おや、やっぱり妬いてたかい」  まあねと応じるが彼の場合どちらに対するものなのかが難しい。一応訊いてみると両方とあっさり返された。ずいぶん忙しい身である。  乱歩の手がもぞもぞと背中に回され、そのままごろりと横になる。抱きしめる腕がふいに強くなって少し息苦しい。ごめん、と与謝野はもう一度、慰めるように言った。 「約束するなら今日は休んでよ。同僚として添い寝してあげるから」 「同僚と添い寝ってのは微妙な線だ」 「同僚以上の真似なんてしたらそれこそ治療される羽目になる」  休めなくなるでしょうと乱歩が真面目くさって言う。そっちか、と与謝野は笑ってしまった。 「与謝野さん」 「なんだい」  人肌のぬくもりがゆるゆると思考をほぐす。髪を遊ぶ乱歩の指先が心地よくて知らぬうちに目を閉じていた。職場だと言った手前少々気が引けたが、添い寝と言い張るのは乱歩のほうだと居直って彼の肩口に擦り寄る。 「きらいって云ってごめん」  うん、と応じた声は思ったよりも輪郭がぼやけていた。乱歩がすこし笑いを含んだ声でおやすみと言う。おそらく与謝野もおやすみと返したはずである。欠伸をする乱歩に、本日この男が仕事に戻ることはないのだろうと国木田に同情したあたりで意識は沈んでいた。与謝野はあきらめて乱歩と睡魔に身をゆだねる。  余談ではあるがその後、様子を見に来た太宰が仲良く眠る二人を無言で携帯に収め、国木田すら黙って保存した写真が福沢の手元にまで届いたところで、完全にとばっちりを食った形の敦が肩慣らしという名目のもと解体されるに至る地味な騒動を引き起こすこととなる。
(2018/03/10)
これ本来は与謝野が泣く話だったんですが行き詰って書き直した結果なぜか乱歩が泣く話になりました。
後日リベンジした与謝野が泣く話→身をしる小夜曲(前半同じ文章)

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