甘口の残滓
 あと一頁、あと一文、と往生際悪く読み進めていた文献にふと影がさして、おやと怪我人を期待して顔を上げると福沢が与謝野を見下ろしていた。  帰る気はあるか、と腕を組んでいる。時計を見ると二十時を回っていて、医務室のむこう、事務所からは物音のひとつもしない。どうやらほとんどの社員は帰ったようである。 「ああ……、帰るよ、ちょうどきりがよかった」 「そうか? 放っておけば頁を捲っていたように見えたが」 「社長こそ帰らないのかい」 「先方からの電話を待っていてな」 「なンだ」  急ぐ必要なかったじゃないか、と閉じかけていた本を再び開く。言外に帰れと言われたことはわかっているが空とぼけることにした。  福沢があからさまに渋い顔をする。 「ああ、その顔はまずいね、物騒だ」 「誰のせいだと——」 「あと少しだけ」  まるで夜更かしをねだっている気分だ。ほんのちょっと、と子供じみた言い分まで添えて、押し黙る福沢が見るからにほだされているので与謝野は可笑しい。たまらず笑いだすと彼は口を引き結んで、少しだけだ、と自らの羽織を与謝野に掛けた。 「おや優しい」 「いつまでも子供扱いしてると怒られるからな」 「そっちじゃないよ、社長に風邪ひかれるほうが妾は困るンだけどね」 「そこまでやわに見えるか?」  見えません、と与謝野は両手を広げる。落ちそうになった羽織を押さえるとふわと彼の香りが間近に漂って、与謝野は思わず鼻先を寄せた。途端に福沢がぴくりと眉を寄せる。 「……におうか」 「ふっ」  勘弁してほしい。与謝野は肩を震わせながら、心配いらない、とどうにか取り繕った。 「福沢さんのにおいって落ち着くンだ」 「それは光栄だが」  あまり嬉しくはない。難儀な本音を溢した彼に、与謝野は含むように笑んで立ち上がった。  キ、とデスクチェアがかすかな音を立てる。身を引きかけた福沢の肩に手を添えて、与謝野は掠めるだけのくちづけをした。 「ご不満かい?」 「……どこでこんな一手を覚えてくるんだ」 「父親みたいなことを云わないでおくれ」  不自然に黙する彼の表情はずいぶん剣呑だが、そのくせ与謝野の髪に触れる指先は無骨なりに優しい。冗談だよと首を傾けると福沢がついと目を眇めた。 (おや)  物言いたげというより物足りなかったか。  油断するとずり落ちてしまいそうな羽織を直して、福沢がそろりと与謝野の肩に触れた。細められた双眸に確かな熱がともる。わかりやすいほどのそれに与謝野が笑ったのが先か、あるいはその唇を福沢がふさいだのが先か。徐々に深まる口づけの一方で彼の手は肩を押さえたままで、与謝野も縋ることはしなかった。 「——ん……」  なまぬるい粘膜の接触。吐息を潜める互いの理性がいっそう情欲を煽り、絡んだ視線の先、しずかに燃ゆる彼の元来の瞳の色を見た。 「……ふくざわさん」  なんだと福沢が声をひそめる。彼の唇にうつった紅を指の腹で拭いながら、電話、と与謝野は囁いた。 「電話鳴ってるよ」 「……ああ」  聞こえている、と彼の口ぶりに与謝野は危うく吹きだすところだった。  おそらく彼が待っていたという電話で間違いない。鳴り続ける電話がふつりと止んで、しばらくしてから内線の音がした。苦い顔をしている福沢を横目に与謝野はデスクの受話器を取る。  福沢はいないかと事務職員に問われて、いるよと素直に応じた。その時にはすでに彼は背を向けていて、改めるかと窺う声に否と伝える。 「すぐ戻るッてさ、保留のままでいいよ」  とんだとばっちりであろう。取り次いだ事務職員に同情しながら、けれど受話器を置いた頃には我慢できずに笑い出していた。すぐに戻ると言ったというのに彼の足取りは重い。 「ばれてるじゃないか」 「医務室の明かりがついているから様子を見てくると云っておいただけだ」 「それはそれは」  どうぞ深読みしてくださいと言っているようなものだ。  ちらと肩越しに振り向いた福沢が、きりをつけておけとデスクに放置されたままの文献を示した。与謝野は羽織を押さえながら肩を竦める。電話が済んだら帰る、帰りに羽織を取りにくる、それまでに支度をしておけ。そっちこそ子供扱いではないか、と医務室をあとにする背中に小さく舌を出す。  羽織から彼の香りがする。  口付けの時のそれとずいぶん違って思えて、与謝野は今いちど彼の羽織に鼻先を寄せた。まるで何事もなかったかのようだ。自分のそれも馴染んでしまえばいいのに、とどうせ長引かぬ電話を思って本を閉じた。

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