愚直の息の根
 与謝野はその日上機嫌で探偵社に戻った。  買い出した食材類の片付けをナオミが引き受けてくれたので甘えることにして、出際にお八つが切れたと臍を曲げていた乱歩のデスクに駄菓子の詰め合わせを放り投げ、医務室に戻ろうとしたところを太宰に捕まった。彼は堂々とソファに横たわっている。 「何かありましたか、女医?」 「そう見えるかい?」 「ええ、鼻歌でも聞こえてきそうですよ。社員たちは震え上がりそうですけど」  減らず口、とその頭を叩く。太宰はふわふわ笑いながら怪我人でも拾ってきましたかとまだ絡んでくる。与謝野は溜め息をついて、残念ながらと手中の紙袋を示した。 「ずっと探していた本が手に入ったンだよ、絶版と聞いていたから諦めていたんだけどねェ」 「それはそれは。女医の脅嚇って効果覿面ですからね」 「毎度アンタを解体できないのが残念でならないよ」  先までの上機嫌が現時点ですでに萎えている。少し話しただけで機嫌を引きずり下ろすこの自殺マニアの引きは一体、と与謝野は国木田とついでに敵でありながら嘗て彼の相棒をつとめていたという男に同情した。 「よく行く本屋の馴染みが色々当たってくれたらしくてね」 「成る程」 「アンタみたいに根性ねじ曲がってる奴もいれば良い人もいるもんだよ」  ここで太宰が笑い出した。どことなく癇に障る笑い方で、なんだい、と与謝野は腕を組む。根性なんて今さら、とそういう類いの笑いかと思った。けれど太宰は、良い人、とその言葉を転がして楽しそうにしている。良い人を良い人と評して何が悪い。 「嗚呼、女医のそういうところ、本当に素敵だ」  馬鹿にしている。というか、彼の性格上本心から言っているのだろうが、それが余計に馬鹿にされている様で腹が立つ。これ以上この男に付き合っていると鉈を取り出す事態になりかねないと冷静に判断した与謝野は踵を返し、余程の怪我人が出ない限り邪魔するんじゃないよと言い置いて医務室へ向かった。 ***  太宰の配慮とは思いたくないがその後依頼も怪我人もなく、気が付くと定時をとうに過ぎていた。おやこんな時間と本に付箋を噛ませ、デスクから立ち上がったところでお疲れと声をかけられて流石に飛び上がる。振り向くと患者用の寝台に腰掛けて名探偵がえらくつまらなそうにしていた。 「乱歩さん! 何時から居たんだい」 「定時のすぐあと。与謝野さん、何度声かけても返事しないんだもの」 「ああ、それは悪かったね。何か用でもあったのかい、乱歩さん」 「……駄菓子」  有り難う、と云われて与謝野は瞬いた。有り難うだなんて。傍若無人を地で行く彼がわざわざ人を待ってまで言う言葉ではない。何より乱歩の声が有り難うと言っていない。むしろ逆である。 「何だい乱歩さん、なにか不機嫌だ」 「与謝野さんは上機嫌だったって?」  とんと寝台から下りた乱歩が与謝野を見ずに言う。誰に、と訊きかけたが訊くまでもなく思い当たる男が脳裏に現れたのでやめた。代わりにまあねと話を合わせてみる。 「なんで」 「なんでッて……」  彼の洞察力がなくとも答えなど目の前に転がっているようなものだ。デスクにはいまだ文献が鎮座している。 「乱歩さんなら全部お見通しだろう」 「与謝野さん、そんなに嬉しかった?」 「え、ああ、そりゃ」  嬉しかったよ、と素直に告げると、乱歩が途端に口を曲げて与謝野に詰め寄った。どうしてと訊く彼の表情は普段では見たことがないほど剣呑で、気圧された与謝野は思わず後退る。訊きたいのはこっちだ。どうしたというのだ。 「乱歩さん?」 「どうして? そんな姑息な手段、ていうか与謝野さんそんなのでいい訳? いい筈ないだろ、与謝野さんが良くても僕が納得いかない!」 「ちょ、ちょっと待っとくれよ乱歩さん、何の話だかわからないよ」  後退っただけさらに踏み込んでくる乱歩を押し返しながら、与謝野は混乱を極める頭で懸命に考える。自分が納得して彼が納得しないこと。そんなこと、いやごまんとあるが、それにしたってこんな剣幕で迫られるほどの事態は記憶にない。何の話だろう。ひょっとしてこの本は正規の流通で手に入れられたものではないのだろうか。それなら与謝野だって探偵社の一員だ、少しくらいは鼻が利く。気付かないはずがない。  結局わからなかった。 「乱歩さん」  気が付いたら乱歩の抱擁を受け止めていた。彼の両腕は他の調査員ほど腕力はないが、それでも鉈を振り回す与謝野の腕よりよっぽど力強い。いよいよ事態についていけなくなった与謝野は、本当にわからないよ、何の話なんだい、と抱きしめられたまま彼に問うた。 「……それ」 「それ? 本がどうしたって云うのさ」 「違う! 手紙!」 「手紙?」  余計にわからなくなった。 「なんだい手紙ッて」 「え」  挙げ句乱歩まで絶句する始末でいよいよわけがわからない。  与謝野の首に懐いていた乱歩が顔を上げ、与謝野を抱き締めたまま、というよりその体勢を忘れているのだろうが、両目をぱっちり開いて与謝野を見つめた。 「嘘だろ、与謝野さん、本気で云ってる?」 「いい加減種明かしをお願いしたいよ」 「うわ、本気だ。すごい。太宰も云ってたけどこれは」  にぶい。  噛みしめるような言葉に今度は与謝野が機嫌を損ねる番であった。 「——乱歩さん。馬鹿にすること以外に妾に云いたいことはないかい」 「ああ、うーん、謝ってもいいけど、与謝野さんのほうがひどいと思うよ」 「は?」  あっさりと与謝野から離れた乱歩がデスクから件の文献を手に取り、ひっくり返して裏表紙を開く。彼がカバーの隙間に指を差し込んだかと思うとそこから淡い色合いの封筒が落ちてきた。本気か。文字通り目を疑う与謝野である。 「……随分手の込んだ手品じゃないか」 「勘弁してよ、あんな取り乱しておいて僕だって恥ずかしいのに」 「まさかとは思うけど妾宛て……」 「他に誰がいるって云うのさ」  はあやれやれと大仰に首を振る乱歩が封筒を摘み上げた。本気か、と与謝野はまだ信じられない。 「で、どうするのこれ」 「え?」 「燃やす?」 「物騒なことお云いでないよ」  乱歩の手からそれを奪い取り、与謝野は封筒を引っくり返してみる。宛名も差出人もない。新手のテロでは、と疑ってしまうあたりはおそらく職業病であろう。与謝野の躊躇を汲んだ乱歩がテロならむしろそんな怪しまれることしない、と的確な台詞を吐いて、再び与謝野から手紙を奪ってしまう。 「こら、乱歩さん!」 「何僕の前で開けようとしてる訳? 納得いかないって僕云ったじゃないか」 「乱歩さんには関係な」  い、という言葉は彼に飲み込まれた。触れたくちびる。手紙を奪われたまま先刻よりきつく抱き締められ、折角いつもの冷静を取り戻した与謝野の頭は再び混乱に陥る。何故。彼が、こんなにも近い。 「関係あるよ。僕のほうがずっと長く与謝野さんのこと見てるのに、そんな本一冊探してきた程度の奴に奪られてちゃたまらない」 「乱歩さん、ちょっと、待……」 「大体なんだよ手紙って。要するに直接云う根性もない奴ってことだろ、そんな男が与謝野さんの隣に居ていい訳? 相応しいと思ってる訳? 駄目だね、僕はそんなの認めないし許さないしあと与謝野さんあげるつもりないから」  捲し立てる乱歩の勢いが凄くて与謝野はひとつの突っ込みも挟めない。何か色々、というかほぼ一件だが、土台にあるはずの案件が綺麗にすっ飛ばされている気がする。よもやどのタイミングで突っ込むべきかとその間合いばかり見計らっている与謝野は途中から乱歩の言い分を聞いていなかった。そういえば開けずに話が進んでいるが手紙は本当に恋文の類いなのか、と思考が逸れてすらいる。 「だから与謝野さん」 「へ」  従って、だからと言われても何の話がどう巡ってだからに繋がったのか、与謝野には見当もつかない。がっしりと肩を掴まれて間近に覗く彼の瞳は真っ直ぐで、少なくとも彼は彼なりに本気の言葉をくれているのだろうとそれしかわからなかった。 「僕を選んでよ。僕は君がいい」  息がとまる。  ようやく与謝野は現状に似つかわしい反応を示した。はからずも彼の真剣な双眸を間近にし、日頃子供じみて周囲など無頓着な江戸川乱歩の真摯な言葉を一息に浴び、柄にもなく与謝野の頬がじわじわと熱を持つ。熱い。思わず顔を伏せると聞いてるの与謝野さんと乱歩が追い打ちをかけてくる。きいてる、きいてるよと、与謝野はかろうじて首肯した。 「……乱歩さん、アンタすごいね」 「僕だって吃驚してる。こんな台詞云ったの初めてだ」 「おや、それは光栄だ」 「照れ隠しできてないよ、与謝野さん」  耳真っ赤、と指摘されて解ってるよと撥ね付ける。そもそも顔を上げられずにいる時点で格好などついていない。はやく、と与謝野は自分がもどかしい。早く平静を取り戻して、いつも通り笑って、有り難う嬉しい、と彼に伝えたいのに。  熱が一向に引かない。 「……ねえ与謝野さん、迷惑だったらそう云ってよ」 「まさか」  あの乱歩の口から迷惑などという言葉が出てきた。与謝野が慌てて顔を上げると、殊勝な台詞を裏切りにっこり笑う乱歩がいた。  嵌められた。 「嗚呼、やっと顔を見せてくれた」 「姑息なのは乱歩さんのほうじゃないか」 「なんとでも云いなよ。ああでも、僕の待ってる言葉が先に欲しいかな」 「嬉しいよ有り難う」 「棒読みじゃなくて」  笑う乱歩はずいぶんと余裕で、なけなしの余裕で余裕ぶって見せてどうせそれも彼に見抜かれているであろう自分を思うとどう考えても勝ち目はなかった。はあと降参の溜息をついて、与謝野は彼の肩にとんと頭をぶつける。 「……妾もアンタがいいよ、乱歩さん」  すでに心臓を吐きそうなこの台詞を日頃の調子で言い放つあたり彼はやはりすごい。嬉しいよ有り難う、と先刻の与謝野の台詞よりずっと感情のこもった声で告げ、乱歩は遠慮なく与謝野を抱き締めた。これでは逃げられない、というか、最初から逃げ道などなかったような気がする。どうせ手紙も与謝野の手に戻ってくることはないのだろう。  本屋に顔出しづらくなっちまった、愚痴ると乱歩が僕が一緒に行くよと高らかに応じた。勘弁してほしい。あけすけな独占欲が擽ったくて到底彼の顔など見れず、しばらく肩に懐いたままの与謝野を抱き締めながら、乱歩は気長に笑っていた。
(2017/12/30)

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