ピチカート・ポルカ
春野に頼まれ、土産の八ツ橋を並べた皿を持って事務所に戻った敦は、差し入れいただきましたよと声を掛けることも忘れて事務所のソファを二度見した。
探偵社、ひいては横浜が誇る我らが名探偵が寝そべっている。それはいい。いつものことだ。問題は彼が頭を置いている場所で、場所というより人物で、膝に常人より何倍も優秀な頭を乗せているのはこちらも探偵社になくてはならぬ異能と度胸をあわせ持つ専属女医である。あれ、と敦は思わず考え込む。あれ、ここはどこだ。職場で当然のように膝枕の光景を描く二人は涼しい顔でそれぞれ新聞を広げている。
「あれ、敦くん、突っ立ってどうかしたの、というか美味しそうなもの持ってるね」
「こら貴様、菓子に目移りしてないで先に仕事を片付けろ」
ひょこりと現れた太宰に声をかけられて敦ははっとした。追いかけてきた国木田が文句を言いながらも皿に目を留める。敦は件のふたりから視線を引き剥がして皿を持ち直した。夢かもしれない、と多少の期待をこめてちらりとソファを見直したが残念ながらその光景は変わらない。
「社長からだそうです。先週の出張のお土産とのことで」
「ふむ、社長のご厚意か。では遠慮なく頂こう」
「いいよねえ京都」
「貴様が云うと禍々しく聞こえるからやめろ」
ひどい国木田くん、と被害者ぶる太宰が八ツ橋を齧りながら、それで、と敦に向き直った。国木田の心労の原因はおおよそこれであろうが、敦はいまだに太宰の切り替わりについていけない。
それでと言われても。
何をどう説明したものか、何度見ても変わらぬ光景に思わず目をやって、その視線をたどった太宰がああという顔をした。
「女医の膝枕がうらやましいって?」
「違います!」
いや違うといえば嘘になる。騒々しい探偵社にありながらも泰然と社員を見守る彼女の膝はおそらく居心地がいいだろう。けれど幾度となく狂気的な笑みをもって解体されている敦には到底気が休まらぬことは明白で、というか、今はそんな話はどうでもいい。
「……その、あのおふたりって、あんな感じでしたっけ」
「ああ、そういう話? 敦くんって案外野暮だね」
「いやでもあれは……」
どう処理しろというのだ。
完全に消化不良を起こしている敦をよそに、で、どうなの、と太宰は国木田へ振る。
「知らん」
「だよねえ」
揃って涼しい顔で肩を竦めている。そういうものだと処理するほかないと突きつけられているようで、敦はなんだか頭が痛くなってきた。
「というかあのお二人に突っ込める猛者がいないってのが現状なんだよね。谷崎くんとナオミちゃんの件にだれも触れないのと同じ」
「ちょっと違う気がします」
「ならお前がいってこい、小僧」
「え゛」
とんだ流れ弾である。それも太宰ではなく国木田だ。太宰であればいくら絡まれようと最終的には冗談として流せるだろうが、国木田となると本気としか思えない。というか本気なのだろう。むりです無理無理、と頭痛も忘れて首をぶんぶん振っていると、根っからの引きの悪さがここでも遺憾なく発揮された。
「こら敦! いつまで僕に八ツ橋待たせる気なんだ!」
「うあああ」
「ほらチャンス! 敦くん!」
「えっ、僕ひとり、っていうか本当に無理です!」
勝手にピンチをチャンスにしないでほしい。
不毛なやり取りの間にも乱歩は早く来いと手を振っていて、もちろん彼らの描く絵面はひとつも変わっていない。新聞を畳んだ与謝野がお茶がほしいねと言うので国木田がすぐさま引き受けた。逃げやがった。
ほらほらと太宰が敦の背中を押す。押し出されながらも敦は決して太宰の腕を離さなかった。死なばもろともの体である。
「乱歩さん、個別に土産貰ったんじゃないのかい」
「もらったよ、生八ツ橋。焼き八ツ橋は食べてない!」
「成る程」
「あ、あの、お待たせしてすみません」
悪いねと微笑んだ与謝野が差し出した皿から八ツ橋を摘んだ。一方の乱歩は呼びつけたわりに起きる気配はなく、女医の太腿に頭を乗せたままびしりと敦に人差し指を突きつける。
「知ってるぞ! 先刻僕の悪口云ってただろう」
「へ!?」
「乱歩さん、人を指差すモンじゃないよ」
「陰口だってよくない」
「いやあの陰口ではなくて」
どさくさに紛れて八ツ橋を摘んだ太宰がそのまま通り過ぎようとする。ご丁寧に口笛まで鳴らす白々しさである。敦はすぐさま彼の袖を掴んだ。
「敦くんはお二人に聞きたいことがあったんですよ」
「うわあちょっと太宰さん!」
「ただそれが失礼にあたるのではと前もって確認していた次第で」
確保したかと思えばどんなフォローだ。こんなことなら下手な口笛ごと流せばよかった、と敦の後悔は尽きない。こういう時に限って国木田の茶も遅い。
ふうん、と応じた乱歩の口に与謝野が八ツ橋を運んだ。喉に詰まるよという与謝野の忠告もそんな間抜けはしないと取り合わず、乱歩はふたつめを催促する。
「で、聞きたいことって?」
「二人ってことは妾もかい」
今まさにその光景である。
敦はすでに心が折れそうだった。
「あの、乱歩さんと与謝野さんって、その、どういう——ご関係で」
ぶは、と盛大な音が聞こえた。口元を押さえた太宰が敦を支えにして堪えている。どう見ても失礼なのは彼のほうである。
視界から消えた太宰のかわりに、ようやく湯呑を持った国木田が現れた。
「与謝野女医、お茶が入りました」
「ああ、悪いねェ」
「乱歩さんの分もありますが」
「いらない。国木田の淹れたお茶って渋いんだよね」
む、と国木田が唸る。湯呑をひとつを与謝野に手渡して、残ったほうを自身で確かめながら首を傾けていた。好みの問題であってわかりやしないのでは、と敦は出来ればこのまま話が逸れてくれることを願う。
「それで、僕と与謝野さんがなんだって」
駄目だった。
「いえあのほんと深い意味はないっていうかただちょっとあれって思っただけでして、でも思い返してみると確かにお二人とも仲良いですし、付き合っていらっしゃるのかなとか別にそういうのが当たり前なのかなとか」
「落ち着け小僧」
「って聞いてこいって国木田さんが!」
「貴様!」
間違ったことは言っていない。実際に聞いてこいと言ったのは国木田である。撃沈していたはずの太宰がそうそう言ってたとここへきてようやくそれらしい援護射撃を見せた。
掴み掛からんばかりの勢いの国木田を八ツ橋で牽制し、そのうちに食べ物のそばで騒ぐなと与謝野に注意されてようやく彼は身を引かせる。
「乱歩さんとそんな関係になった覚えはないよ。付き合いの長い同僚さ」
「というか何その根拠のない憶測? どこから出てくるわけ」
「えっと、そういう、膝を貸したり、ただの同僚でするものなのかなって……」
関係性を否定されて逆に混乱を極める敦である。そういう仲だと言ってくれたほうがまだ消化も容易かっただろう。当然のように膝を貸す様も借りる様も、八ツ橋を食べさせる所作も。
問題の二人はきょとんと仲良く顔を見合わせる。
「するよね」
「するねェ」
しない。
敦は完全に言葉を見失った。
「お二人にはお二人なりの関係性があるということですね」
「さあね、考えたことないや」
「なんだ、それなら与謝野女医、気兼ねなく私と心中を」
「生憎だけど妾の力じゃアンタだけ死ぬことになるんじゃないかい」
外傷でなければ云々と太宰が心中の手法を並べ立てる。それに対して乱歩と与謝野が可能だとか不可能だとかそれは外傷の括りだとか返して、何事もなかったかのように続けられる会話が敦には理解できない。口元を引き攣らせながら、あははと愛想笑いをするのがせいぜいである。
「ああ、でも与謝野さんは結構僕のこと好きだけどね」
「おや、乱歩さんだって人のことは云えないだろ」
「うたたねしてる君の髪に接吻した話?」
「そんなことしてたのかい」
考えるな、と敦は強く自分に言い聞かせた。深く考えてはいけない。二人なりの関係性があると国木田が先に言ったばかりではないか。思えばずいぶんと便利な言葉である。
「妾が太宰を昼食に誘った時えらく不機嫌だっただろう」
「そりゃあ気に入らないし。与謝野さんこそ僕が手引く時ちょっと握り返してくるでしょ」
「細かいことに気付くモンだねェ」
与謝野さんのことだもの、端からすると大層な口説き文句であるが寝そべったまま不遜に告げられるとそう見えないのが不思議だ。しかし与謝野も与謝野でまるきり頓着せず、そうかい光栄だと長閑である。
白昼夢かもしれない。敦は目をつむってみる。
「……あ、の、結局、そういう関係ではないんですよね?」
「先刻も云っただろう、ないよ。そんなにそれっぽく見えるかい」
「えっと、一応、とても」
敦が神妙な面持ちで頷くと、はからずも太宰の行動と重なった。ただし彼の表情は完全に笑いを噛み殺している。国木田は黙ったままだったが、彼の性質上的外れであれば何を失礼なことをと首根っこを掴まれているはずである。言外にも三人の回答は一致したこととなる。
ふたり揃ってぱちりと目を瞬かせたのち、乱歩が満場一致、と笑いながら与謝野を見上げた。
「だってさ、どうする、結婚する?」
「そうだねェ、悪くないけど旦那がひとりで列車に乗れないッてのもね」
「それ云っちゃうかあ」
けらけら交わされる会話に敦は思わず遠くを見る。結局何がどうなってどういう関係なのだ。敦の後悔を見かねた太宰がほらねと囁いたが、敦は二人の関係について立ち入る猛者がいないと聞いただけで、立ち入って尚正解がわからないなど聞いていない。軽率に首を突っ込んだ自分を呪った。
ふいに事務所の扉が開いた。振り向くと福沢が佇んでおり、彼は室内の微妙な空気と五人の様子を見渡してから、はあと盛大な溜息をつく。
「ふたりとも、新入りをからかうのも程々にしておけ」
「へ?」
「何だい社長、今いいところだったのに」
「そうそう、結婚するかどうかの大事なところ」
「そんなことよりも乱歩、時間はいいのか」
ああほんとだ、と乱歩が体を起こす。敦はそれどころではない。からかうとは一体。というかそんなこととはどういうことだ。
「列車乗るんだよねえ、誰か暇な人? 敦とか」
「え、いや、あの」
「敦くんは昨日の報告書がまだなので国木田くんに絞られるという予定が」
「貴様も出さんか」
「仕方ないねェ、妾がついていこう」
立ち上がった与謝野の手を、そうこなくちゃ、と乱歩が上機嫌に取る。
先の会話を反芻させて敦は思わず二人の手を見つめてしまった。二人の、というより主に握られた形の与謝野の手である。乱歩に引かれる彼女の手を目で追って、通り過ぎさま、華奢な指先が案外骨ばった彼の指を握り返すのをたしかに見た。
敦ははっとなって顔を上げる。なにか。見てはいけないものを見てしまった気がする。
与謝野と目が合った。彼女はしぃと人差し指を口元にあてて、その唇で綺麗な笑みを描いて乱歩に引っ張られていく。
「敦くん、大丈夫、傾いてるけど」
「かろうじて……」
耳が熱い。調子でも悪いのかと国木田が生真面目に問うてくるので放っておいてほしかった。少女のような仕草とたおやかな微笑み、先の彼女の口元を思い返して敦の心臓は過剰に脈を打つ。調子はともかくとして心臓に悪い。
忘れろ忘れろと必死な敦の手から八ツ橋を摘みながら、京都はどうでしたかと三人は穏やかである。というか同僚というものは手を繋ぐものだったか。上司たちの世間話をよそに敦の混乱は終わらない。
「じゃあ行ってくるね!」
与謝野の治療鞄、というより凶器の詰め合わせを取りに医務室を経由してから、乱歩は此方に手を振って事務所の扉に手をかける。反対の手は例によって与謝野のそれを掴んでいた。同僚は手をつなぐものらしい。敦は自身の心の平和を守るべくそう思うことにした。
いってらっしゃい、とほうぼうから声が上がる。敦もどうにか声をかける。すると事務所を出かかっていた乱歩がふと振り返り、敦に向かってにいと笑んで与謝野の手を強く引いた。ぱたんと扉が閉じる。敦は変な汗がとまらない。
初めて見た。彼の目は笑っていなかった。
心臓を高鳴らせる敦を牽制するかのように。
「あの」
むりだ。やっていられない。
扉の向こうに遠ざかる足音を聞きながら、敦はいよいよ途方に暮れた。
「結局、おふたりって」
「さてねえ」
「社長、ご存知ですか」
「いや……」
福沢が知らずに誰がわかるというのだ。彼が言うにはからかわれていたようだが、それでは一体どこまでが冗談でどこからが本当なのか。最後に見せられたそれぞれの笑みが脳裏にちらついて、敦は胃もたれのような胸焼けのような妙な感覚を持て余した。
***
階段を下りきったところで彼女の手を解放した。示し合わせたかのようにふたりで笑い出す。
「嗚呼おもしろかった! 与謝野さん途中で笑いそうになってたでしょ」
「いや、敦があまりに可愛い反応するモンでね」
「悪趣味だなあ」
「そもそもけしかけたのは乱歩さんだろ」
何が悪口だ、と与謝野はくつくつ笑う。彼女の言う通り悪口でないことくらいは推理せずとも知っていた。乱歩はいい暇潰しになったよと上機嫌に駅へ向かって歩き出す。与謝野もいまだ笑ったまま並んで歩き出す。
「与謝野さんの膝がどうとか話してたみたいだからね、ちょっと釘でも刺しておこうかと思って」
「おや、もっともらしい理由も一応あったンだね」
ただの暇潰しかと思った、彼女の言葉もおおむねは正しい。
「あれは僕の特権だもの」
「妾の膝だよ」
「僕以外に貸す予定あるわけ」
「鏡花くらいには貸すかもしれないねェ」
ふうん、と乱歩は気のない相槌を打つ。微笑ましい光景ではある。賢治が相手でもぎりぎり貸しそうだな、とその光景を思いながら、昼過ぎの雑踏が鬱陶しくなって人通りの少ない裏道を選ぶ。
「なんだい、本当に妬いてるのかい」
少し遠回りになるのが難点だ。彼女は頓着せず乱歩についてくる。
「与謝野さんだって僕の手握り返すの本当でしょ」
「鬱陶しいならやめるよ」
「そんなことは云ってない」
「一応云っておくけど乱歩さんが妾の髪に接吻した件も本当だろう」
「うわ、起きてたんだ、趣味悪い」
核心に触れるようで触れないような、踏み込むような踏み止まるような、彼女とのよくわからぬやりとりを乱歩は気に入っている。乱歩さんも似たようなものだ、笑う彼女もきっと同じに違いない。律儀な少年の精神的負担を思うと少々不憫だが知ったことではなかった。乱歩は当面このままを楽しむつもりでいる。
道知ってるんだろうね、と与謝野が問う。お任せあれ、と乱歩は得意に笑って彼女との回り道を楽しむ。
(2018/04/01)