ステルメイト
彼女がこの関係性に現実味を抱いていない、そういう空しい予感はあった。
そもそも乱歩の色気も飾り気もない言葉を聞いたときの与謝野の笑顔は、無邪気なこどもからの告白を聞いた、そんな表情だった気がする。
「驚いた」
そうして乱歩はそれらを一息に確信へと変える。
組み敷かれた体勢のまま、彼女はその言葉通り本当に驚いた顔をしていた。
確かに乱歩は物騒を誇る武装探偵社でも非戦闘人員に分類されることのほうが多い。もとより能力自体が前線に出るようなものではないし、彼自身面倒事が大嫌いなので余程の有事でない限り体を張ることもない。おそらく彼女のほうが余程戦力に数えられているだろう。華奢な体では考えられぬほど軽々と鉈を振り回す姿は敵でなくともぞっとする。
したがって彼女が驚いたと言うのも頷けることには頷ける。けれど彼女が目下置かれている状況すら放置してしみじみ言うほどか、と乱歩の眉間の皺の原因はそれであった。
「乱歩さん、腕力なんてあったんだねェ」
びくともしない、と彼女は呑気である。伸し掛かる体勢も要因のひとつではあるが、当たり前だ、と乱歩はいよいよ気に入らない。
「与謝野さん、今の状況わかってる?」
「転んだンだろ」
「その躱し方はイマイチ」
与謝野はつまらなそうに口を尖らせる。この状況でその顔はかなり不用心だ。乱歩は相手にされていない気になって、びくともしないという手首を強く握りしめた。乱歩らしからぬ手荒い力である。さしもの与謝野も顔を顰めた。
「い、たいよ、乱歩さん」
「そうやって言葉遊びしてればそのうち僕がなんちゃってとか云って退くと思ってる」
「駄目かい」
「駄目だね」
流されてやるものか、と乱歩は口を曲げる。残念だと愚痴る彼女はこの期に及んで尚飄々としていて、自分ばかりがっついているようで面白くない。
そもそも彼女が携帯を忘れさえしなければこんなことにはならなかったのだ。よりにもよってその携帯を発見したのは太宰で、万が一があっては大変と届けに行くつもりでいる彼の手から気付くと携帯を掻っ攫っていた。別の用事があると適当な口実を取り付けたが太宰は笑っていて、どうせ彼女との関係にも勘付いているに違いない。悪趣味な男である。
「たかだか携帯じゃないか。何がそんなに気に入らないんだい」
「君のそういうところほんとによくないと思う」
「おや、名探偵殿から説教とは」
「真面目に。与謝野さん、相手が太宰だろうが国木田だろうが平気で部屋に上げるでしょ」
「そりゃねェ。奴らが変な気起こすとも思えないしね」
はあ、と乱歩は溜息をついた。何を根拠に、と問いたい。もちろん同僚を信じていないわけではないが、いや太宰はいくらか怪しいが、その無防備なまでの信頼が場合によっては男を刺激する。そういうあたり彼女は妙に危なっかしい。
「……なんで僕を上げたわけ」
「逆に訊きたいよ、そういう関係の相手をどういう理由で追い返せって云うんだい」
「でも結局僕だって変な気起こして与謝野さん襲ってる」
「ああ、一応、変な気ではあったんだね」
あの乱歩さんが、と余計な一言が乱歩を挑発する。無頓着な言動は今に始まったことではないが、この期に及んでまだ相手が自分だからと舐められていては立つ瀬がない。乱歩は流石に焦れてきた。
「あのさあ。気づいてないかもしれないけど」
「何だい」
「太宰も国木田も僕も男だよ」
「見りゃわかるよ。乱歩さんが成人してるってことのほうが余程疑わしい」
「余計なお世話だ」
どうにもこちらの言葉が彼女に響かない。頑なに乱歩の本気を受け入れない彼女にも彼女なりの事情や心情があるのかもしれないが、それでも乱歩の感情だって切実で、残念ながら退いてやるつもりはなかった。何より彼女のその甘い考が通用しないことを今のうちにわからせてやらねばならない、という乱歩自身の危機感もある。
「与謝野さん、まさか僕が君と手を繋ぐ程度で満足していると思ってた?」
「乱歩さんなら充分にあり得る」
「子供じゃあないんだよ」
「知ってるよ。だから子供よりたちが悪いンだ」
ここで彼女が、この状況に陥ってから初めて困ったような顔をした。笑ってはいる。笑ってはいるが、それは乱歩が好きないくつもの彼女の笑いかたとは違うもので、もしかして、と乱歩は急に不安になった。もしかしてこの顔をさせているのは自分ではないのか。
「乱歩さんは勝手だ」
その言葉を向けられることは初めてではない。
けれど彼女の、耳にここちよい声に乗せて、綺麗に笑んだ唇から発せられたことは初めてで、乱歩は頭を張られたような衝撃を受けた。
「勝手?」
「勝手さ。深入りするつもりなんてないくせに気まぐれに妾に手を伸ばすんだ。いくら妾だってそのうちに勘違いしてしまうよ」
今だってそうだ。彼女は困った笑いかたのまま言った。
自慢の頭脳はどうしたことかろくすっぽ機能せず、乱歩は柄にもなく、どうして、と思った。どうしてそんなことを言うのだ。彼女の言葉がぐるりと脳内をめぐる。
「——なんで」
「乱歩さん?」
「なんで、わからないんだよ、与謝野さん」
与謝野が首を傾ける。ほつれた髪に指を差し込み、乱歩は、何かを言いかけた彼女の唇をふさいだ。
驚いた彼女の声が喉につかえる。乱歩を押しのけようとする細い手首を力任せに抑え込み、紅がうつることも構わずに執拗に唇を追う。らんぽさん、呼ぶ声は甘く、それが乱歩を非難するものとわかっていながら脳髄をじんと痺れさせた。
「ら、乱歩さ、——ッン、待って、待っとくれ」
「与謝野さんさあ」
「ん……っ」
すっかり余裕をなくした彼女を見兼ねて乱歩は口づけを切り上げてやった。煩わしい口紅の感触を拭い、危ういまなじりに口付けると与謝野は頼りなさげに睫毛を震わせる。繊細な影が美しかった。
「僕だって下心はあるよ。こういうことだって、もっとやらしいことも考える。そういう目で君のこと見たりするし」
「やめとくれ、そんな話どういう顔で聞けって云うんだい」
「おかずにしたことだってある」
「ほんとにやめとくれ」
知りたくない、と彼女は呻いた。
「勝手なのは与謝野さんのほうだ、そうやって僕が極々普通の健全たる男だってこと知らないようにして、これが気紛れだって? 冗談じゃないよ」
「乱歩さん」
「玩具を取られたくない子供の所有欲とでも思った? 僕は子供じゃない、そんな生易しいものじゃないよ。勘違いって、与謝野さんこそどういうつもりでこの関係を受け入れたわけ」
はくと口を閉ざした彼女の顔からはいつの間にか微笑みが消えていた。美しい瞳で乱歩を見つめ、それはどこか不安そうでもあって、薄く膜の張ったその奥底を乱歩はやはり読み解けない。揺らぐ瞳がまだ本心を曝け出すことに躊躇しているらしいと、それくらいしかわかってやれない。
「……妾は、乱歩さんが理屈で恋をしてると思ったンだ」
「何それ」
「同僚として長い付き合いになるだろう、他の社員よりは愛着も沸いてくるだろうし、幸か不幸か妾は女で、乱歩さんがその愛着を愛情と混同したとしたら」
「……ああ、つまり、そういう枠に当て嵌めて、この関係を君に求めたと思ったわけ」
与謝野は黙っている。肯定の空気である。
たしかにというか、残念ながらやりかねないことではあった。乱歩自身、自分が他人よりも淡白な性質である自覚はあるし、他者との齟齬をこじらせた結果感情を理屈で捉える傾向があることも自覚している。自分の経験則や共感よりも、ひとにはこんな感情があってそういう時にどういう行動をとる、という情報として頭に収納されていることのほうが多い。恋情やそれに基づいた言動だって例外ではない。たしかに彼女は正しい。
「乱歩さんにとっては理屈でも妾には理屈なんてなかった。乱歩さんがそう云うならって利用させてもらったンだ、自惚れも期待もしないよう気をつけてはいたんだけどねェ」
「ああ……もう、ほんと、与謝野さんって……」
聡いのか鈍いのか莫迦なのかわからない。
乱歩は脱力して与謝野に覆いかぶさった。ひくと強張る痩躯を無視して肩口に顔を埋める。
「……乱歩さん?」
「まあ、わかるよ。僕も悪い。だけど流石にそこまでこじらせてないし、与謝野さん僕のことゴーレムか何かだと思ってない」
「ゴーレム」
「僕だってそれなりに人間相応の感情も持ち合わせてる」
こういう、と白い首筋に噛み付くと彼女が悲鳴を上げた。初めて聞く声である。そもそも治療に凶器を持ち出して社員を震え上がらせる彼女の悲鳴など他の誰が耳にするだろう、そう思うと乱歩の体が疼いた。やはり彼女はまちがっている。
「何すっ」
「隙なんて見せられたらこういうこともするし、今の声だってもっと聞きたい。利用するのは構わないけど覚悟はしておいてよ」
「……どうしたんだい、乱歩さん、少し怖いよ」
「それは光栄だね」
ようやく彼女の目にそう映るようになったらしい。乱歩はやれやれと息をついて身を起こし、ついでに彼女の体も引き起こす。
「まあ、存分に自惚れて期待もしていなよ。僕もそうする」
「おや、もう終わりかい」
「腕が疲れた」
そうかいと彼女が笑う。普段通りを装ってはいるがその表情にはすこし緊張が残っていて、乱歩はいくらか申し訳なくなった。同僚、下手をすると弟と見られていた相手に少々むきになりすぎたかもしれない。散々力任せに押さえつけた細腕を今度は優しく取る。白い皮膚には乱歩の痕跡がうっすらと残っていた。
「痕になっちゃった。ごめんね」
「すぐに消えるさ。少し勿体無い気もするけどね」
「消えない痕をご所望かい?」
「遠慮しておくよ、鏡花たちの教育に悪そうだ」
国木田にも、と付け足すと違いないと言って彼女が笑いだした。
それを見て乱歩はようやく安心した。勘違いしてしまうと淋しげに笑った時とは違う、彼女の感情に添った笑いかたである。乱歩は満足して与謝野の手を絡め取った。泊まっていいかと訊くと彼女は言葉に詰まってからいいよと言う。彼女の躊躇も彼女の答えも随分いじらしくて、乱歩は堪らず声を立ててわらった。
(2018/02/02)