ワルツには遠く及ばず
彼女はどうやら手に触れられることがあまり好きではないらしい。
乱歩がそれに気付いたのは休日の汽車道、人の波に呑まれかけた与謝野の手を引いた時であった。その日彼女は何時もの洒落たグローブはしていなくて、触れた指先が思っていたよりもずっと華奢で乱歩は柄にもなくぴりと緊張した。あわよくばそのままと細い指ごと手に収めようとしたら、悪かったね乱歩さん、と彼女は苦笑いをして、手を離した。
彼女は直にその手に触れられることが好きではないようだ。
医者というものはそういうものなのだろう、と乱歩はその時そう理解した。そうして彼女との柔らかい接触を諦めた。けれどこの先ずっと触れられずにいるのもなあ、と詮無いことを考えながら、乱歩は目下医務室で時間を潰している。
もうすぐ定時を迎えようとしている。下手に事務所にいると下手なタイミングで下手な依頼に捕まって帰り損ねるという懸念があるため医務室に避難したものの、来てみたら来てみたで我らが専属医は不在であった。それならうずまきに行けばよかった、と中途半端な時間を持て余し、何故先の話になったかというと診察台に彼女のグローブだけが残されていたためである。乱歩は取り残されたグローブから彼女がすぐ戻ってくるであろうと読んで彼女を待っている。
そのうちにヒールの音が聞こえてきた。案の定、と乱歩は少しだけ機嫌を持ち直す。
「おや、乱歩さん。怪我でもしたかい」
「したらむしろ来てないよ。与謝野さんを待ってた」
「何か約束でもしてたかね」
「してないけど、どうせもう依頼なんて来ないし与謝野さんも一段落したみたいだし、一緒に帰ろうよ」
微笑んで乱歩は彼女の手を取った。ぴく、と彼女の手から躊躇が伝わってきたけれど、乱歩は気付かぬふりをした。
グローブも手術用手袋もしていない無防備な掌はひんやりと冷たい。夕方近くに肩を撃たれて帰ってきた谷崎が先程デスクに撃沈している様を見たから、察するに彼の治療にあたってその片付けをしていたのだろう。撃たれた上に二度三度とぶった斬られたのでは割に合わないだろうな、と乱歩は引きの悪い青年に同情した。
「いいね、何処かで食べて帰ろうか」
「もんじゃ食べたいなあ。ベビースター入ったやつ」
「妾は麦酒が飲みたい」
「与謝野さんいつもでしょ」
取るに足らぬやりとりを交わしながら、与謝野は隙あらば乱歩の指から手を引き抜こうとしている。普段通りの他愛ない会話に隠れて、与謝野は手を解放してほしいし乱歩は頑なに解放したくない。水面下で譲らぬ攻防をしているうちに会話のほうが空になってゆき、結局与謝野が折れた。
「……乱歩さん、手、離してくれないかい」
「なんで?」
「あまり触ってほしくないンだ、特に乱歩さんには」
最後の一言が効いた。乱歩は思わず彼女の手を離して、ごめん、と呟く。
「あァ、違う、そういう意味じゃない、乱歩さんに触れられるのが嫌ってわけじゃないよ」
「……ほんとに?」
「ほんとさ。妾だって、その、乱歩さんと手くらい繋げたらって、思うよ」
突然のデレが来た。可愛い。
じゃあ繋ごうよ、と乱歩は口を尖らせ、今いちど手を差し出す。けれど彼女は、ああまで言っておいて尚その手を隠すように後ろに回してしまう。
「与謝野さん」
「——帰るンだろ。早いとこ撤収しないと、また国木田あたりに捕まッちまうよ」
「うーん、それもそうか」
彼女はあからさまにほっとした顔をして、そうだよ早く帰ろう、と診察台に放られているグローブに手を伸ばした。なめられたものだ。乱歩はその手を難なく捕まえる。
「ちょっ……乱歩さん!」
「詰めが甘いよ、与謝野さん」
「謀ったね」
「先に煙に巻こうとしたのは与謝野さんだ。全然巻けてないけど」
五月蝿い、と与謝野が唸る。この手の話になると彼女は案外不器用なのかもしれない。乱歩は少し可笑しかった。
不毛なやり合いの間に先よりは体温を取り戻した掌は、それでも乱歩のそれより温度が低い。本来なら理由なんてなくともこの手を温める権利があるはずなのだ。それをむざむざ逃すなんて勿体無いし、それに何より、乱歩は彼女の心を知りたい。
「教えてよ、与謝野さん。僕はそりゃ他者共感性なんて皆無だけど、与謝野さんのことはちゃんと解りたいよ」
思えばこんな台詞を他人に告げたことなど初めてである。
与謝野はそれでもまだ逡巡していたが、やがて諦めたように息を吐いた。顔を俯かせて、日頃の毅然とした所作からは想像できぬ、歯切れの悪い声で綺麗じゃないだろと言った。
「薬品ってのはいちいち荒れるもんでね。それに色々振り回すもんだから手の皮も厚いンだ」
「え、そんなこと?」
「そりゃ異能発動しちまえば綺麗さっぱり消えるンだけどね、妾の場合解体してくれる人もいないし、そうそう致命傷も負うモンじゃないし」
「当たり前だよ、勘弁してよ。ていうか僕別に気にしないし」
「乱歩さんにはわからないさ」
なけなしの女心だって一応あるんだ。与謝野は笑うが自嘲の類いである。乱歩は納得がいかず、確かに手放しでは滑らかとは言えぬ掌を指先へとなぞった。ところどころに傷の跡や皮膚の赤いところ、指先を見れば痛ましいささくれのあともある。それでも彼女の手はちゃんと柔らかいし、華奢で、綺麗だった。
「……与謝野さん、こんなことで僕ががっかりするとでも思った?」
「思わないよ、乱歩さんはそんな人じゃないだろ」
「全然納得いかないんだけど」
与謝野は困ったように笑って、わかってるよ、悪かったね、と勝手に話を終わらせようとしている。彼女の手が乱歩から逃げようとしなくなったことは進展と言えるのだろうが、そういうことではないのに、と乱歩はもどかしい。
「僕、別に、そんな顔させたくて聞いたんじゃない」
「乱歩さんがそういう風に云ってくれるだけで妾には充分さ」
「充分じゃない! 僕は与謝野さんと手繋ぎたいのに」
「今繋いでるじゃないか」
「与謝野さんってほんと野暮」
「乱歩さんに云われる日がくるとはねェ」
のらくらと応酬を広げているうちに本題が逸れてきた。彼女との会話は概ね色気も可愛げもないけれどいつも楽しくて、目下の進展しているようでしていない会話を続けるよりそちらの日常に転んだほうが有意義に決まっている。それでも今を逃すと勝手に自己完結している彼女の心だけが置き去りになってしまうことは明白で、そんなことで手を繋いでなにが楽しいのだ、と乱歩は面白くない。日常に転換できぬ現状ではない、彼女の自己完結してしまった心が実に面白くない。
だって彼女の手はうつくしいのに。
「乱歩さん?」
徐に彼女の手を引いて唇を寄せた。切り傷のあと、肉刺のあと、赤みにささくれ、ひとつずつ口付けていく。彼女が最後に異能を発動したのはいつだろう、それでも直近の傷に変わりはない。小さな傷を、彼女の手はごく当たり前に重ねてゆく。
「う、わ、乱歩さん、やめておくれ」
「僕が触るの嫌じゃないんだろ」
「違う、くすぐったいんだよ」
離して、と請う姿は思いがけず扇情的で、危うく乱歩は別の衝動に駆られるところであった。そうなってはそれこそ話が逸れる。大人の理性で静かに下心を踏みつけ、彼女の掌に口付けをするとそのまま自身の指を絡めさせた。
「与謝野さんの手は綺麗だよ」
「へ」
「誰が何と云おうと綺麗。細いし柔らかいし、僕の手より小さいし、ひんやりして気持ちいいし、あといつも思うけど指長いね。ほんと綺麗」
「乱歩さんアンタまさか」
「云っておくけど手フェチじゃないぞ」
わりと真面目な話をしていた筈である。
とにかく、と乱歩は彼女の手ごと引き寄せた。
「与謝野さんの手はみんなの命を救う手だ。探偵社の誇りだよ。だけどそんなのとは関係なく綺麗だ。女の子の手」
「乱歩さん」
「いつか、汽車道で君の手を引いた時、僕すごく緊張したんだよ。どきどきした。与謝野さんが気にしてたのはそういうことなんだろ。僕は君の手が傷だらけだとしてもきっとどきどきする」
与謝野は呆気なく乱歩の腕に収まった。乱歩は右手で彼女の手を握りしめたまま、左手で細い体を抱き締める。柄にもなく忙しない鼓動がもしかすると彼女に伝わっているかもしれないが、見たところ、彼女のほうが正常な心拍数を保てずにいるようだった。伝わっただろうか、たぶん伝わったのだろう、と乱歩は彼女のその様子にようやく満足する。
「だから遠慮なく僕と手を繋ごう、与謝野さん」
「——わかったよ、まったく、これだから乱歩さんは」
観念した、と訊くと、したよするしかないだろと与謝野は赤い耳のまま答えた。それはよかった。乱歩はそろそろ無粋な音を立てそうな腹を思って心から笑う。
「もう少ししたら帰ろう」
「何だい、今だと国木田に捕まるとか?」
「与謝野さんの耳が赤すぎて太宰につかまる」
「あァ、そいつは最悪だ」
軽口の一方で与謝野の手が乱歩の手を握りしめた。もう少しと言っている。顔の熱が引くまでということか、あるいはようやく触れた感触をあと少しということか。乱歩は後者である。彼女の本心がどちらかなんて推理してみればすぐに解るが、それが無粋であることくらい乱歩にもわかっていたし、どちらにしたって今とても気分がいいことには変わらない。乱歩はもう少しと繰り返して彼女の手を握り返した。