ファジィ・ホワイト
 眠りの底にあった意識がゆらりと、夜更けの静寂に満ちた部屋へと浮上する。  しんと冷えた空気がゆらめいた。控えめな足音。ティナの意識を引き戻したのはどうやら彼の気配である。すこし迷って、けれどまどろみの残滓が思ったよりも残っていて、起きるという選択肢は早々に立ち消えた。  静寂のなか、彼の溜息がちいさく聞こえる。  遅くなると言っていた。何時になるかと訊いたが彼は先に寝ていてと言うだけで、ティナに待つという選択肢すらくれなかった。  いつの間に帰ってきたのだろう。そういえば夢うつつにシャワーの音を聞いた気がする。なにか食べただろうか。ぼんやりとした頭が彼の溜息を案じて、けれど疲れているらしい彼に気がひけて、目を閉じたままシーツに潜る。自分に気を遣うくらいなら早く休んでほしい。 「ルーモス」  囁くような呪文がやけに寒々しく響く。キイとボウトラックルが声を立てて、しずかに、とニュートが諫めた。足音を消すことは得意だろうに、ト、ト、と足音が続いてわずかにベッドが沈む。 「おやすみ、ピケット」  小さな友人を見送って、そっと息をついたニュートの身じろぐ音がした。背を向けて眠るティナの頭のすぐそば、枕元が沈んで、彼の指先が髪に触れる。起きるタイミングを逃した。眠るふりをするティナの髪をゆるゆるくしけずり、けれどそれ以上は起こすと危惧したか、彼の手は離れていってしまう。  サイドテーブルに杖を置く音。案外大雑把な手つきの彼が彼なりに配慮してくれているのがわかる。靴を脱ぐ動作、けれど脱いだ靴を取り落としたらしい鈍い音がして、ティナは笑いそうになって頬を噛んだ。  先とは別の種類の溜息が聞こえる。  余計に可笑しいからやめてほしい。  靴を置き直した彼が今度は紙擦れの音を生む。ゆうべ書き散らかしたメモがおそらく何枚か落ちているのだろう。学者という生き物の性か、なにか思い立って書きつけるということがどういうわけか寝る間際に多い。たまに寝ぼけていることすらある。なんだこれ、と自身のメモに自問しているあたり実に損な性質である。  さりさりとメモをまとめる音。兄にもらったという趣味のいいペーパーウェイトを置いて、いや、置いたかと思ったが、落ちた。らしい。 「――あ、……ク、シオ……!」  落下音はなかった。彼の安堵の溜息。ティナは笑いをこらえすぎて腹が痛い。  こと、と今度こそ正当な扱いを受けたペーパーウェイトの音があって、ノックスを紡いだニュートがようやく隣に潜り込んできた。もぞもぞとシーツを引き上げる。少し躊躇を見せてからティナに寄り添って、髪に顔を埋めて息をつく。かすめる吐息がくすぐったい。起きるタイミングを逃したがこのまま見送ろう、と眠る方向へ舵を取った矢先に、彼が身を起こした。  ルーモス、と再び灯りをともす。  ペンを取る音、ペーパーウェイトを退ける音、紙を捲る音、そうして。  あ、という声。続いてがっしゃんと盛大な音が響き渡る。 「――ぶっ」  ティナはとうとう吹き出した。 「もう、うるさい」 「ご、ごめん、起こした……」 「起きてたわ、おかえりなさい」  ただいま、と応じる彼は結局ベッドから下りる羽目になっている。体の向きを反転させた先、どうやら杖からメモまで一式落としたらしいニュートが、ざっくり拾い上げてざっくりサイドテーブルに戻していた。明日には同じ悲劇を繰り返しそうだ。 「そこ、そのうち小屋の作業台みたいになりそうね」 「さすがにここで調合とかはむりかな」 「そういう問題?」  基本的に皮肉というものが通用しないニュートである。わかってるよ片付ける、と笑った彼はその語尾に今度、という一言も抜かりなく付け足して、さっさとベッドに戻ってきた。ひやりと外気が入り込む。身を震わせるティナを引き寄せて、シーツの中、ちぐはぐな体温を馴染ませる。 「君あったかいね」 「寝起きのせいかしら」 「あー、と、起こしてごめん」 「いいのよ、髪くすぐられるよりは抱きしめてもらったほうがまし」 「……どこから起きてたの?」  さあねと笑って、ティナは彼のやわらかい前髪を掻き上げた。暗闇に紛れているがその目元には色濃い疲弊が見えるはずだ。なまじ体力があるぶん体に出難いようで、ティナは彼がいつ無理のラインを踏み超えて倒れるかとひやひやしている。いっそ一度倒れて思い知ったほうがいいかもしれない。 「疲れてるなら疲れてるって言ってよ、私を抱きしめて気が済むならそうしたらいいじゃない」 「起こすわけにいかないよ、君だって疲れてる」 「そういうのはテーブル片付けてから言って」 「ごめん」  殊勝に謝ったニュートがティナの手を取って、今度からそうする、と当たり障りのない台詞を口にする。今度っていつだ。寝起きのティナの体温がうつったか、あるいは元来の性質か、彼のぬくい手のひらを握り返して、ほんとう、とティナは鼻先を寄せた。 「それじゃ今度から何時に帰ってくるかも教えてくれる?」 「君ってたまにものすごくかわいいこと言うよね」 「馬鹿にしてる」 「してないよ、今日は本当に何時になるかわからなかったんだ」  こんな冷える日に遅くまで待たれたらたまらない、と彼は彼の独善を掲げてティナの強情をいなそうとする。 「……さっき温かいって言ったじゃない」 「寝起きって言ったのは君だよ、ほら、足冷えてるし」  彼の足がティナのつま先をくすぐるようにつついて、そのままするりと絡んだ。衣服越しに彼のぬくもりがじんわり伝わる。ひとの体温に触れるとなるほどたしかに冷えていたらしいことを知って、女性は仕方がないのだとティナは笑った。 「温めてくださる?」 「いいよ」  もぞと身じろいだ彼が腕を回して、じゃれつくようにティナをきつく抱きしめる。ひとより遥かにおおきな存在を相手にする彼の腕は普段の立ち振る舞いやその印象を裏切ってとても力強い。加減を間違えると折ってしまいそうだとニュートはよく苦笑するが、きつくきつく抱きしめられる感覚がティナはすきだった。どこにも行かなくて済むようで安心する。  ふう、と彼の肩口に擦り寄って息をつく。そういえばハグでストレスが解消されると聞いた。抱きしめるほうと抱きしめられるほう、どちらのほうがストレスに効くだろうかと彼を思い、どうせなら両方にしようと窮屈な隙間から腕を回そうとした矢先、彼の手が動いた。  腰を押さえていた手がそろりと衣服の裾から忍び込む。  じかに脇腹をなで上げられて肌が粟立った。ぞわと皮膚を這う感触。ティナは慌てて彼を押し返す。 「や……っ、な、なにす」 「温めてって、君が」 「そ、んな意味で言ったんじゃ、や、やだ待ってニュート」  熱い吐息が耳を掠める。本気か、とティナは混乱した。たしかに温めてとは言ったが軽口のようなものだ。そんなスイッチを入れた覚えは微塵もない。 「だ……め、ニュート、待って」 「待たない」 「なに駄々こねて……、や、だ……ってば、ニュート!」  休んで、と訴える言葉はあえなく飲み込まれた。舌のちらつくキス、肌を這う熱いてのひら、じわじわと与えられる熱にまんまとほだされそうな自分に気づいて辟易する。絡め取られた足も押し返す腕もびくともせず、いよいよ躍起になってもがくティナの耳元にニュートがそろりと口を寄せた。 「――ティナ」 「う」  ずるい。  怯んだ隙をついてベッドに組み敷かれた。シーツが揺れ落ちてせっかく馴染んだぬくもりが霧散する。身震いしたティナにニュートが覆いかぶさってきて、その体温に無条件に安堵を見出してしまうのだから自分も大概だ。  もういい、とティナは匙を投げる。 「……あしたはちゃんと休んで」 「約束する」 「テーブルも片付けて」 「はい」 「寒いわ、ニュート」  あたためて。紡いだ台詞はずいぶん陳腐で、それでも素っ気ない部屋の静寂にはいやに甘く響いた。  応えるかわりにニュートがティナの唇を塞ぐ。結局絆された、と自分への甘さか彼への甘さかもわからぬまま、ティナは休めと訴える理性から目を逸らす。密着する彼の体温も、キスの合間からこぼれる互いの吐息も、すでにどうしようもないほど熱かった。
(2018/12/23)

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