しらごかしに甘露
たとえば。
地下の動物たちへの食事やりを早々に済ませたことや、夕飯をいくらか彼女の好みに寄せたこと、兄に押し付けられた、否、譲ってもらった上等なワインを勧めてみたこと、おそらく彼女の嗅覚に触れる事柄はいくらでもあった。時折そそっかしいとまで評されるニュートは比較的落ち着いていて、それが尚のこと彼女の不安を煽ったのかもしれない。ちなみにワインは断られた。
ティナの直感はきわめて優秀だ。
ソファでゆったりと過ごす時間から身を寄せて、戯れるようなキスをして甘やかな時間へといざなう。けれど抱き締めたからだは普段よりもずっと固く、優秀にすぎる彼女はきっとこの先のことを予感していた。
「ん、ぅ……」
身じろぐ体重を受けてソファがかすかな音を立てる。
ぎゅうとニュートに縋る手のひらはなにか訴えるようでもあった。食らうようなキスにくぐもる声、甘やかなはずのそれにもどこか戸惑いが見える。
「ティナ」
楽にして、と強張った肩をやさしく撫でると、その接触にすらティナはひくりと身を震わせた。ニュート、と泣きそうな声でニュートを呼ばう。ニュートは一瞬ためらった。泣くほどか、とこわごわ彼女の顔をうかがう。切なげに寄せられた眉根、その目元はほんのり赤く、うすく開かれた瞳にはゆらりと涙の膜が張っている。
いや、むりだ。
ニュートは今いちど小さな頭を抑え込んだ。
「ごめん」
「ちょ、待……っ」
逃げを打つ腰を抱き寄せて、唾液に濡れていっそう艶めく唇を無遠慮にふさぐ。弱い声が口内にくぐもって消えた。
思えば手を繋ぐことも抱きしめることも、一番はじめにキスを交わした時だって、躊躇を見せたのはむしろニュートのほうだった。触れていいかと問うニュートを彼女は時に呆れながら時にはにかみながら受け入れて、触れるたびに体のどこかしらが強張っていたのはいつもニュートのほうだ。
けれどいつからかニュートが欲張るようになって、そのバランスもあっけなく崩れた。
我慢がきかなかった。もっと触れたい。もっとほしい。浅ましい欲望を押し付けて、そのせいでティナが怖気づいていることも、もちろんわかってはいた。
「ティ、ナ」
「きゃ」
ぐ、と体重をかけると彼女の体により力が入った。押し倒されまいと力むティナの、そのくせニュートを突き飛ばすには至らぬ細腕を絡め取る。ティナ、と躊躇と欲動の狭間で揺れる彼女の名をささやくと、くらりと細いからだが平衡をなくした。
彼女ごとソファにもつれ込む。
ティナが細い悲鳴を上げた。
「——君って」
そんなにうぶだったっけ。
滑り落ちた言葉にティナがぴくりと眉を動かした。あ、まずい、とニュートは口を閉ざす。
「今のなし」
「ふうん?」
「違う、ごめん、かわいいけど、なんというか」
煽られている気がしてならない、という本音はどう考えても現状の空気を取り成すどころか悪化させる。うろうろとフォローになりうる言葉を探していると先にティナが溜息をついて、だって、と決まり悪そうに唇を噛んだ。
「だって全然あなたらしくないんだもの、いつも遠慮がちというかもどかしいくらいだったのに急にこんな——こんなの戸惑って当たり前じゃない、どうしちゃったの?」
「いや、どうもこうも」
「なにか吹き込まれた?」
テセウスに。
突如繰り出された実兄の名にニュートは思わず瞑目した。気持ちはわかる。わかるけれど彼女にまでそうと勘ぐられるあたり兄のお節介も大概だ。何より自分の甲斐性がそこまで低く見積もられていたとは。
はあ、と今度はニュートのほうが溜息を吐いた。覆いかぶさるように彼女の肩口に顔をうずめて、ひくりと竦む華奢なからだを抱き締める。
「誰にもなにも言われてないよ、僕の意思、というか、下心というか」
「口に出てるわ、ミスタ・スキャマンダー」
「別にいいよ、大声でだって言える。たしかに僕はリードすることも口説き文句も下手だけど、君に触れるだけでどうしようもないくらいには身勝手な男なんだ。本当ならもっと——」
もっと。貪欲に求めて掻き抱いて、理性をも奪い尽くして甘やかな声を引きずり出してしまいたい。凛とうつくしい面差しを、誰も知り得ぬほどに溶かしてしまえたら。
続く言葉をニュートは口にはしなかった。掬うこともできぬどろりと濁った感情、それを形にしてしまえばいよいよ後戻りができない気がした。
ただならぬ情動を口にせずとも察したか。
ティナはいくらか躊躇を見せてから、そろりとニュートの髪に触れた。
「別に、知ってるわ、あなたが実は食えない人で、たまにひねくれててわりと強引だってことも」
「それクレーム?」
「違う、そういうところも好きよ。だけど何だか知らないひとみたいで」
すこしこわかったと、ティナは呟めいた。
「……僕そんなにがっついてたかな」
「そうね、男のひとって感じ」
「本当?」
「褒めてない」
手厳しい一言である。なんだ、と息をつくとティナがくすぐったいと身をよじらせて、その拍子にふわりと、肌から漂う彼女のにおいが鼻腔をかすめた。
ほそい喉元、おとがい、やわい曲線のつくる造形がニュートの理性をゆらりと絡め取る。彼女の香りが普段よりずっと色濃く感じて、ふつ、となにかが断ち切れる音がした。
「ひゃ、あ、なに……!?」
「なにって」
よく考たらずいぶん我慢した。
首筋に唇を押し付けて、顎から頬へとたどってキスをせがむ。彼女からしてみれば脈絡もなくニュートが勢いづいた状況だろう、まって、とおののく頭を抱き込んで顔を寄せた。
と、ニュートはやにわに動きを止める。
なにか聞こえた。じっと耳を澄ませると、おそらく同様のものを聞き取ったティナがじっと息を凝らす。気のせいではない。沈黙のなか、地下から切なげな咆哮が。
「……呼んでるわよ」
「……わかってる」
そういえば寝ていたズーウーの食事を後回しにしていた。
露骨に落胆の溜息をついて、ニュートはのろのろと彼女から身を起こす。少しくらい名残り惜しげな顔をしてくれたらとささやかな期待をもってティナを見下ろすが、彼女は彼女であからさまにその表情から緊張を緩めていた。
「そんなにほっとした顔しないでくれる?」
「だ、れが」
「まあいいや、続きはあとでね」
ズーウーが腹を空かせている。ニュートもそろそろ限界だ。
あとで、と突きつけた言葉に引き攣るティナの頭にくちづけて、ニュートは地下へと続く扉へ向かう。触れる空気がやけに涼しく感じたのは自分の体温のせいか、はたまた熱を孕んだのは彼女の体温か。後者であればティナはこの肌寒さをどう処理するだろう。ひそかにゆがむ口元を自覚しながら、ニュートは仕舞い込んだはずの爪をたしかめるように、熱い手のひらを握りしめた。
(2019/01/23)