ノック・ノック
目を覚ますと視界いっぱいにニフラーの腹が広がっていた。
鼻先にくすぐったい相棒を摘み上げて身を起こし、首を回すと不穏に軋む音がしてニュートは中途半端なところで動作を止めた。攣る。腕を枕にしたのは間違いだった、と痺れた腕を軽く伸ばして、ニフラーを作業台に下ろすと相棒は下敷きになっていたピンを回収してさっさと駆けていってしまった。何故よじ登ろうとしたのだ。鼻先をこすりながらニュートは時計を見やる。
十分程度の仮眠のつもりが一時間寝ていた。どうりで首が痛いはずだ。
せっつかれていた原稿はあと一息で片付く。
黙々と作業台に向かっていた時間を考えて、その時間だけ彼女の声を聞いていないことに思い至って無性に恋しくなった。電池切れだ。うんと伸びをして散らかったメモをまとめにかかり、そうして、原稿に見覚えのないメモが添えられていることに気がつく。
スペルミス、と訂正されたスペルとあわせて彼女の字が並ぶ。
休むなら横になってと小さく付け足されていた。生真面目な彼女らしい筆跡。
ぱらぱらと原稿を捲って、ほかにメモがないことを確認してニュートは落胆した。ささやかな彼女の痕跡。だめだ、とニュートはデスクを立つ。顔が見たい。
***
その前にやるべきことを思い出した。
仮眠をとったあとにムーンカーフの食事をと思っていたのだ。予想以上に寝入ってしまったこともあってずいぶん待たせてしまっただろう。もしかしたら起こしにきたのかもしれない、とニフラーの腹の毛並みを思い返して、ちがうだろうな、とニュートはかぶりを振った。
バケツを手にしようとしたところで違和感に気付く。
取っ手のところにメモが貼られていた。書き損じた原稿の裏紙。いわく、ムーンカーフの食事は済ませたとのことである。
(ああ……)
ニュートは脱力するように息を吐き出した。バンティのメモではない。距離の難しい助手はそもそもニュートの原稿に触れようとしない。
——ティナ。
知らず舌先に転がした名前が妙に侘しく響いて気が滅入った。こたえのない呼び掛けほど虚しいものもない。
ココアをいれてもらおう。いやコーヒーのほうが効率的か。
寝不足と疲弊感が一息にのしかかってきて、ニュートはのそのそと重たい足取りで上階へと向かった。
***
そういえばピケットはどこへ行ったのだろう。
衣服から音がしないとやけに静かに感じる。ティナといるのだろうか、と慣れぬ静寂を持て余して部屋に顔を出すと、本当に静かだった。
留守らしい。
自分が家にいて留守もなにもないけれど。
自身のテリトリーであるはずの空間が誰もいないというだけでいやによそよそしい。だれも、とニュートは自問して嘆息した。彼女が、の間違いだろう。つくづく面倒な性分である。
テーブルにメモが置いてあった。
買い物、というワードに二本線が引かれて、その下にピケットとデートと書かれている。ずるいな、と気づいたら口に出ていた。いよいよ重症だ。
どれくらい前に出たのだろう。どれくらいで帰ってくるだろう。ボウトラックルを潜ませた彼女に思いを馳せる。声をかけてくれたらよかったのに、とやり場のない不満が頭をもたげる。
腹が減ったような気もするけれど気分がささくれてきていまいち空腹を満たす気にならない。
ニュートはがしがしと頭を掻いて、寝てしまおう、とソファに沈む。起きたときこそニフラーの腹でなく彼女の顔が見られるといい。
***
長らく焦がれた香りをようやく捉えた気がして、ニュートはゆらりと瞼を持ち上げた。
起きた、と呆れ交じりに和らいだブラウンの瞳がニュートを覗きこむ。その声もその瞳も、求めては肩透かしを食らってばかりのニュートは現状がにわかに信じられず、ティナだ、と間抜けな返事をしてしまった。夢か。寝ぼけているのか。だとしたら手の施しようがない。知っていたけれど。
「なあに、またベビーニフラーに人見知りされる夢でも見た?」
本物だ。ニュートはゆるりとかぶりを振った。
「ニフラーの腹じゃなくて安心してるところ」
「寝ぼけてる? 寝てる?」
「起きようとしてる」
「寝たら」
隈できてる、とティナがニュートの目元に触れる。ひやりと華奢な指先がじかに触れて、ニュートはたまらずその手を絡め取った。
「もう二回もうたた寝したんだ」
「しってる。ちゃんと休んでってメモ見なかった?」
「見たよ、スペルよく気付いたね」
「あとムーンカーフの」
「それも見た、ありがとう」
「あの」
ティナが居心地悪そうに手元を見やる。離して、とその目が訴えていることは明白だったがニュートは知らぬふりをした。顔を見るだけでこんなにもかかったのだ。タイミングの問題だと彼女は言うだろうが、そもそも起こしてくれなかったのは彼女のほうである。
「ピケットとデート?」
「……もしかして拗ねてる?」
「うーん」
「何よ、私が恋しかった?」
控えめな期待とささやかな挑発。かわいいけれどすんなり乗るのも面白くなくて、うーん、とニュートは今一度もったいぶる。煮え切らぬ返答になぜかティナのほうが苦そうな顔をした。
「恋しかったって言ったら埋め合わせしてくれる?」
「スペルミス見つけたしムーンカーフの食事だって用意したわ」
「留守番なんてどうってことなかった」
「もう」
息を吐いて腰をかがめたティナが、仕方ないわねと囁いてニュートの額に唇を寄せる。ささやかなキス。絡んだままの指先をそっと握りなおして、窺うように合わせた視線で訴えると彼女は目を眇めて反論した。もうすこし。調子に乗らないで。しばらく無言の攻防があった。
「……だめ?」
「だめ」
声がすでに笑っている。耐えかねたように笑いだしたティナが、言葉とちぐはぐにニュートの頬に触れて、顔を寄せた。
触れ合わせた唇は少しかさついていて、味気のないキスで終わるのもなにか惜しいニュートである。すぐに離れるつもりでいた彼女の頬に触れてやんわり引き留める。そのまま髪をくしけずるように後ろ頭をおさえて、いたずらに上唇を食むとティナがひくりと身を引かせた。遅い。
「ちょ……っ」
問答無用で抗議の声を引き取る。舌ごと吐息のまじわう口付けを幾度も重ねるうち、おそらく想定外であったろう彼女がたどたどしくニュートに縋りついた。たぶん怒られる。というより勢い余って冷ややかにされる。お預けを食らうなど本末転倒も甚だしい、かろうじて冷静な判断をくだした理性に従って、埋め合わせという名目を明らかに通り越したキスに未練を残しつつ顔を離すと案の定睨まれた。
「聞い、て、ない……っ」
「ああ……舌入れるって?」
「ニュート!」
声を荒らげる彼女にごめんと両手を広げて、けれど彼女の双眸はキスの名残りで濡れているしニュートは若干笑っている。説得力のない絵面だろうな、とニュートは他人事のように可笑しい。
「スペル間違ってても二度と教えないから」
「ごめん、教えてよ、かわりに僕も教える」
「私スペルミスなんてしない」
「そう?」
スキャマンダーって書ける、と問うとなにそれとティナが眉をひそめた。なにとは何だ。
一向に自由のきかぬ手を揺らして、もういいでしょうとティナが一連のスキンシップを締めにかかる。よくはないけれど。ニュートは往生際悪く彼女の手を握り直した。
「コーヒーが飲みたいけど淹れ方がわからないんだ」
「しょうがないわねって言ってほしい?」
「君のいれてくれたコーヒーが飲みたい」
「よろしい」
ティナがようやく目元をやわらげて、目は覚めた、と問う。それらしいキスの時点で目は覚めているつもりだったが、どうしてと聞き返すと彼女が肩を竦めた。
「仕事してるか寝てるかだったじゃない。まだ私を放ったらかしておく気?」
「ごめん、コーヒーいらないかもしれない」
「私が飲みたいの」
もう少しまともな口説き文句考えておいて、とティナがとうとうニュートの手からすり抜けて踵を返してしまう。彼女の足音は軽やかだ。少しの未練もない様子の背中を眺めながら、結局お預けを食らった気分になってニュートはソファに深く凭れかかる。あの口ぶりからして先に臍を曲げていたのは彼女のほうか。自分も大概だが彼女もなかなか、という矢先におもむろにティナが振り向いた。
寝ないで、と釘を刺す彼女の耳が赤かったのは見間違いではない。
ニュートはこみ上げる笑いを噛み殺して姿勢を直した。眠るだなんてとんでもない。彼女と自分への口実を考えるのに忙しいのだ、と熱いコーヒーに思いを馳せる。
(2019/07/15)