ライラは二度眠る
 ニュートは本当の孤独を知らない。  学生時代から今に至るまで、魔法動物にばかり心を開きまともに目線すら絡まぬニュートを他人は変わり者と呼んで遠ざけて、またニュートも自ら他人を遠ざけてきた節がある。深く知ることも深く知られることもろくに望まず、けれどニュートには、動物たちがいた。のちに少々こじれるがリタがいた。正直いまだに鬱陶しいが兄もいた。  けれど彼女はどうだろう。  両親をなくし、自分と妹を守るために仕事に明け暮れ、そうして今、彼女が抱える孤独は測り知れない。  ニュートは小屋の天井を眺める。薬品棚や本棚、雑多な壁に阻まれて天井は遠いけれど、梯子のその先、トランクの向こうにいるはずの彼女を思う。あまりにたくさんのことが起こりすぎた。ダンブルドアに会うことを訴えたのはニュートだったけれど、兄や友人たち、誰もが何かを失った状況下で、少しでも休むべきだと休息の時間を取ったのもまたニュートである。  ニフラーが心配だったこともある。  けれどこの小さくも頼れる相棒は思ったよりもずっとぴんぴんしていて、なんだよ、と拍子抜けしたのがつい先刻の話だ。  作業台にはズーウーをスケッチしたノートが広がっている。半端なメモ、無造作に放られたペン、質素な写真立てと、その中で微笑むひとりの女性。  はあ、とニュートは写真立てを机に伏せた。そのまま自分もデスクに突っ伏す。なにか、無性に遣る瀬ない。  頭上からノックが響いたのはそのときである。  続いて降ってきた、ニュート、という控えめな声に、ニュートは思わずデスクから跳ね起きた。 「ティナ?」  どうしたの、と応じた声はいくらか上擦っていた。跳ね起きた拍子に作業台でささやかな雪崩が起きたけれど、構わずに彼女の返答を待つ。  ところがティナの返答はなかなか返ってこない。  どうやらトランクの前でなにか躊躇しているらしい彼女に、ティナ、とニュートは今いちど呼びかける。彼女はそれでもしばらく沈黙して、やがて、どこか心許ない声でニュートを呼んだ。 「あの、……お邪魔してもいい?」  ニュートは口を閉ざす。やわらかい笑みを思わせる声、そこにすこし違和感があった。思えば彼女は不安定な心を誤魔化す時こそよく笑おうとする。噛み合わぬ感情と表情、その歪みが本来うつくしいはずの声に滲んでいた。  どうぞ、とニュートは立ち上がる。梯子気をつけてと声をかけると、ありがとうと返答のあとに梯子を伝う足音が聞こえた。 「落ちそうなときは言って、受け止めるから」 「ふふ、結構よ」  返ってくる軽口は存外明るい。安心したものかむしろ心配したものか、いずれにせよここで気を揉んだところで埒が明かない。顔を見てから決めよう、と雪崩れた文献を適当に積み直しながら彼女を待つ。  降りてきたティナは顔を合わせるなり取り繕うように微笑んだ。案の定である。彼女の声に抱いた違和感を確信に変えて、ニュートはようこそと笑い返した。 「ジェイコブは?」 「上で休んでる。みんな塞ぎ込んでてお葬式みたいよ、思えば今まで彼の明るさにずいぶん救われてきたんだわ」 「君もしかして逃げてきたとか?」 「あなただって真っ先に逃げ込んだじゃない」  彼女の言い様に苦笑して、そうだねと肩を竦める。ひとりになりたかったことも本当だ。感情を持て余した時に人といるべきなのか一人でいるべきなのか、ニュートはいまだに自分の性質を測りかねている。  ふとティナが口を閉ざした。乱雑な作業台、そこに伏せられた写真立てを捉えて、彼女はそっと目を伏せる。 「……冗談よ」  わかってるわ、とティナが瞼を震わせた。ニュートだってわかっている。逃げ込んだなどと彼女が本気で思っているはずがない。生真面目で強情でたまに行き過ぎる彼女の、それはきっと、彼女なりに探り出したいつも通りだった。 「——ティナ」 「あ、の、そうだわ、ニフラーは大丈夫? あなたの腕でずいぶん弱ってたから心配してたの」 「ぴんぴんしてるよ、大丈夫。それより」 「あと、そう、ナギニがズーウーのことを気にしてたわ、あとで会わせて——」 「ティナ」  並べ立てられた言葉の端々、細やかな瞬きを繰り返す目元、何もかもが空々しくてひどく危うい。ティナ、と呼ばうニュートの声に肩を揺らして、彼女はただでさえ不安定だったその表情を強張らせた。  おそらく限界だった。ニュートにもわかる。彼女だってきっとわかっている。は、と息をついたティナが、覚束ない声で言葉を手繰り寄せた。 「ごめんなさい、私……」 「いいんだ、こんなところでよければいくらでも逃げ場所にして。誰も責めやしないよ」 「違うの、私、やりきれなくて、あなたにならって……、本当に最低だわ、あなただって傷ついてるのに」  伏せられた写真立て。書きかけのメモ。彼女の目にニュートの心はどう映ったのだろう。  きつく握り込まれた彼女の手に、ニュートはそろりと触れた。杖を握り闇の心と魔法と対峙する、たくさんの力を秘めたその手が存外華奢で冷たいことを知っている。ぴく、と躊躇を見せた小さな手を握りしめて、大丈夫、とニュートは噛んで含めるように聞かせた。 「僕は大丈夫、確かに少し参ってるけど、対処できるから」 「わ、私だって、対処してるわ、大丈夫」 「そうかな。僕が大丈夫だからって君が大丈夫である必要はないよ」 「——そんなこと」  詭弁だと、彼女は反駁する。彼女にとってはそうだろう。ポーペンティナ・ゴールドスタインという魔女にはいくつもの立場や肩書きが纏わりついていて、根っからの生真面目や責任感とついでに負けん気も相まって彼女はいつだって理屈や理性を優先させたがる。自分は大丈夫でなくてはいけないのだと、今だってその理屈が彼女の感情を邪魔立てする。  けれど。  行き場をなくした感情は、どこへ。 「誰が言えるの、そんな情けないこと、今ここでしっかりしないといけないのは私なのに」 「そうかな……、僕にはそうは思えないけど」 「いいえ、そうなのよ、だって私は」  ——わたしは。  はく、とティナが口を閉ざす。理性を追い求める双眸、けれどそこにあるべきものを見失って、ゆらりと揺らめいた瞳がすがるようにニュートを見た。彼女を彼女たらしめる言葉たち。彼女が誇りとする立場も肩書きも今の彼女を支えるには無力で、だって、とそれでも理屈に縋ろうとするティナの瞳は、夕闇をおそれる迷子を思わせた。 「私は、だって、マクーザの一員で、闇祓いで」 「うん」 「あの子の、姉で」  じんわりと、澄んだ瞳が涙を纏う。その脳裏をかすめたのは常に隣にあり続けた無垢な笑顔か、それとも手の届かなくなったあの瞬間の痛ましい背中か。  ぱた、とこぼれた涙が小屋の床に落ちた。飽和した感情に彼女は唇を噛み締めて俯いてしまう。きっとこうなることを恐れていたのだろう、けれどニュートはこうなることをどこかで望んでいた。傷ついたら泣くこと、声を上げること、どんな動物にだってそれは必要なことだ。 「情けなくていいよ、ティナ、これが普通だ」 「で、も」 「ここはトランクの中だ、君が闇祓いでいることも誰かの姉でいることも必要ない。君の——ティナの心を、おしえて」  懸命に嗚咽を堪える彼女の、強く握りしめられた手のひらを握り返す。他人に心をさらけ出す、それは彼女にとってきっと容易なことではないだろう。それでも孤独を前に彼女の心は限界だった。彼女のもう片方の手が、たどたどしくニュートを求めた。  ニュート、とティナがすがるように呼ぶ。今にもくずれそうな痩躯を、ニュートはたまらず引き寄せた。 「ニュート、あの……、あのね」 「うん」 「クイニー、が」  肩口に頭を押し付けて、ティナはたったひとりの肉親の名を呼ぶ。クイニー。クイニーが。それはまるで、はぐれた小さな手を探るようにも聞こえた。 「どうしよう、ニュート、あの子が、いないの」 「ティナ」 「クイニーが、いないの」  両親をなくしてからずっと、姉妹は互いの心を頼りに生きてきた。寄り添う唯一の存在が手の届かぬところへ落ちて、彼女はあの瞬間から行き場のない喪失感を持て余していたのだろう。その途方もない孤独を自分ではわかってやれない。持ち得る知識も言葉もなにひとつ役に立たず、ニュートはそんな自分がひどく悔しい。 「もっと話せばよかった、聞けばよかった……こんなことになるくらいなら、私」 「うん」 「どうしよう、ひとりが、こんなにも怖い……」  こわい。それはおそらく、彼女の口から初めて聞く言葉だった。  震える肩を抱きしめて、ニュートは改めてその細さを痛感する。薄い肩、華奢な背中、彼女はそこにたくさんのものを背負って戦ってきた。力や立場を鎧として纏い、それでも尚背筋をまっすぐ伸ばす彼女の、剥き出しの心はこんなにも繊細で臆病なのだ。きっと苦しかっただろう。きっと辛かっただろう。もう大丈夫だと、ニュートは労るようにその髪に頬を寄せる。 「ひとりだなんて、言わないで、ティナ」 「ニュート」 「僕も、リタのことは本当に、うまく言えないけど本当にショックだったんだ。だけど、兄さんがいた。たったそれだけだ。それだけなのに、前が向けるんだ」  不思議だった。最愛の人をなくしたテセウスでさえ、その目元にいまだ悲しみと怒りとを残していたけれど、次に為すべきことを見据えて前を向いていた。ニュートはその時改めて、ひとという群れの力の正体を知ったのだ。 「君の不安も、こわいことも、分けてほしい。僕じゃ頼りにならないかもしれないけど、その、ジェイコブでもいいし、兄さんでも……いや、兄さんを頼るならやっぱり僕に言ってほしいな」 「何よ、それ……」 「複雑なんだ、色々と」  もう、とティナが息を吐くように笑って、おかしな人、と強張っていた体をニュートに預けた。その声はいまだに涙声で、怖いと叫ぶ心もきっと癒えてはいない。けれど最初に聞いた矛盾を孕んだ声よりもずっと綺麗にニュートの耳に届く。しなやかな強さを持つ、彼女の声だった。 「……複雑なら仕方ないもの」 「うん」 「あなたの胸を、かして」  華奢な体を抱きしめる。傷を埋めることなど到底できやしないけれど、くずおれそうな心を包むくらいならきっとできる。立ち上がるために手を取ることだってできる。長らく他人を遠ざけてきたニュートに、彼女はひとに寄り添うチャンスをくれた。慰めも気の利いた台詞もまともに知らず、寄り添うしかできないニュートにそれでもティナはその心を預けてくれるのだ。  ありがとう、とニュートは掠めるように囁いた。ティナは気恥ずかしそうに笑って、私の台詞なのに、とニュートのつま先を優しく小突いた。
(2019/01/06)
急に年上感みせちゃう末っ子気質のすきゃまんだ氏とうっかり包み込まれちゃう長女気質のティナ嬢とかしねる、というキャプションを見てしねるなと今思ってます。ついでにアキレストリバー氏のくだり書き忘れてたとのこと。トリバー氏ごめん。

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