ロストブラインド
 ニュート・スキャマンダーという男はいたく極端な性分をしている。興味のないこと面倒なこと苦手なことからはわかりやすく目を逸らすくせに、彼の直感が大きな反応を示すと人の目も忠告も無視して思うまま突き進むのだ。勇敢と言えば聞こえはいいがティナはその姿を無鉄砲と形容することにしていた。危険を伴う勇敢に正義も何もない、と彼を案じてはその台詞そのまま返すよと綺麗にカウンターを食らっている。  確かにひとのことは言えないかもしれない。  けれどティナは他人の制止や心配の声まで無下にするつもりはない。頑固ではあるが聞く耳くらいは持っている。と思う。  ニュートは違うようだった。  何時間地下にこもるつもりだと声をかけたのは三時間前である。疑問ではなく忠告だ。三時間前とかわらずデスクに向かう猫背。相手を求めぬ独り言。どうやら彼にティナの言葉はなにひとつ響いていない。  いい加減にして、と言葉になり損なった拙い悪態を嚥下してティナはニュートの背中を睨めつけた。声に出なかったのは感情を処理すべく強く唇を引き結んでしまったためだ。無力な言葉を諦めたかわりに猫背をまんじりと見つめて、妙なところで敏い彼が振り向くのを待った。基本的に空気の読めぬ男であるがひとの纏う空気や感情の変化には時折驚くほどの反射神経を見せる。言葉を持たぬ友人たちを多く持つためか、あるいは戦場を経験したためか、うっかり感心することさえある繊細なアンテナはけれどこういう時に限って役に立たない。こういう時に限って見向きもしない。それとも気付かぬふりか。いずれにせよ没頭しすぎだ。いい加減にしてほしい。  ティナは息を吐いて彼の空間へと一歩踏み込んだ。 「ニュート」 「うん?」  普段なら到底人間に向けているとは思えぬ笑顔で振り返るくせに今は顔を上げもしない。  足元にはいくつもの文献が散らかっていた。積み重なっているものもあれば崩れたものもある。けれどニュートは無頓着だ。本が痛む、と申し訳程度にいじり直してティナは彼の様子を窺う。 「……」 「……」  無反応である。駄目だこれは。  落胆から歯痒さへ、歯痒さから苛立ちへ、そうして最後に込み上げてきたのはひとつのむなしさだった。自分の言葉も感情もまるきり彼に届かぬ寂寥感。まずい、とティナは唇をかみしめる。泣きそうだ。 「ニュート、少し休んで」 「うん」 「一時間でいいわ、そうしたら食べることも眠ることも思い出すはずよ」 「あとでね」  どこかあしらうような返答である。  何があとでだ。もう少しまともな言い逃れはないのか、とティナは奥歯を噛む。 「ニュート、ちゃんと聞いて。ちゃんと眠って。怒るわよ」 「わかってる、あとで聞くよ」 「あとで? 違うわ、私が話してるのは今よ、今聞いて」 「ティナ――」 「やかましくても鬱陶しくてもいい、どうとでも思えばいいわ、少しでいいから休んで。じゃないと二度と口をきかない、キスだってしないわ」 「ティナ」  ここでようやく彼の瞳がティナに向けられた。  珍しいことだが、すこし、苛立ちが見えた。思慮深いブルーの双眸にこわい感情が滲んでいる。何故こちらが責められなければならないのだ。ティナにはまるで理解できない。 「あとで休むよ、約束する。あと少し調べたら休む」 「うそつき」 「嘘じゃない、まとめてあとで聞くよ。だから今は放っておいて」  返事も文句も撥ね付けて、ニュートは一方的にティナの言葉を締め出して作業に戻ってしまう。  腹立たしくて泣けてきた。このばかな男を案じているのに伝わらない。自分の言葉では彼を休ませることもできない。馬鹿なのはどちらだろう。  滲む眦をぐいと拭って部屋に戻った。ソファに座り込んで職場から持ち帰った資料を引き寄せる。しつこくこみ上げてくる涙に気づかぬふりをして、ティナはまるきり内容の入ってこない文面に繰り返し目を通す。彼が寝ず食わずならティナも同じだけそうするつもりだった。そうしてあの男も同じ気分を味わえばいいのだ。 ***  お約束だがそのまま寝ていた。  いつの間に横たわっていたのか窮屈なソファの感触が体に痛い。もぞと身じろいだ拍子に肩からブランケットがずり落ちて、無意識のうちに温い布を引き上げながらこんなもの被っただろうかと微睡みの淵で脳が働き始める。  そろりと遠慮がちな手のひらが頬に触れた。  ティナはようやく重たい瞼を持ち上げる。 「――風邪ひくよ、ティナ」 「ニュート」  がばと勢いよく身を起こすと、おはよう、とニュートが清々しいほど普段通りの笑みを見せた。あとでという彼の言葉通り本当にいつも通りだ。安心したものか腹を立てたものか起き抜けの頭では彼のスイッチについていけず、というかそもそもスイッチの使いどころを間違えているのでは、といくらか頭痛のするティナである。 「い、いつの間に」 「それ僕の台詞。怒って出てったと思ったのにこんなとこにいるし、寝てるし」 「いま何時――」 「二時くらいかな? あんまり覚えてないけどたぶん一時間は寝てたよ」  覚えていないとはなんだ。時間を示されたことでそのときの感傷まで呼び起こされてしまった。届かぬ言葉の悔しさとむなしさ。彼の世界から締め出された寂寥感。自分は怒っていたのだと自らに言い聞かせて泣きそうな感情をやり過ごし、逃げを打つように顔を伏せた矢先に頬を掬い上げられた。離して、と抗うティナの目元に指先を添えて、ニュートがついと目を細める。 「――泣いてた?」  かっと血が沸いた。デリカシーや配慮という概念が常人よりも欠如していることは百も承知だがそれにしたって無神経に過ぎる。  思わず手を振り上げた。けれどその手も難なくキャッチされて、ごめん、とニュートが感情の行き場をなくしたティナを引き寄せる。 「僕のせいだよね、ごめん」 「ば、か」 「うん。ほんとうにごめん」 「嫌」 「許して、ティナ」  すっかり冷えた体を大きく包み込まれ、その体温にまんまと安心する自分がいてティナは辟易した。ああ違う、こんな展開を望んでいたわけではないのに。 「まったく、こんなに体冷やして」 「だれのせいよ」 「わかってる、もう寝るよ。ちゃんと休むから」  ゆるい抱擁がほどかれて、ニュートがそっと額にキスをした。 「心配かけてごめん」 「……私、キスもしないって言ったわ」 「じゃあしない?」  窮した隙をついて唇を掠めとられた。やさしく啄ばんでティナの機嫌を窺うようなキス。こういう時ばかり抜け目のない彼に流されて、ほだされるまいと意気込んでいたはずの自分に同情して、そうしているうちになにか馬鹿馬鹿しくなってきたティナである。 「まだ怒ってる?」 「怒ってる」  ティナは力なくニュートにもたれかかった。緊張の緩んだところに急激な眠気まで潜り込んできて、不機嫌を継続させることすら億劫になってしまう。 「……はやく眠りたいわ」 「そうだね」  むずがる幼子をあやすように、いっしょに寝よう、とニュートがティナを抱き上げた。ブランケットが滑り落ちたが杖を取る気も起きず、触れる体温の心地良さにどうてもよくなってしまうのだから自分も大概だ。ぬくい首元に擦り寄って目を閉じて、まだ怒ってるから、とどうにか呟くとわかってるよとニュートが笑った。
(2019/03/20)
どこかで見たことのあるネタなのでどこかで書いたネタなんだと思います。許す許さないの話だと許さないまま終わらせる傾向があるらしいと今気づきました。

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