指先にも満たない
彼の部屋あるいはトランクからつながる、彼の世界は足を踏み入れるたびに広くなる。
遥か遠くの土地からティナの見知らぬ風景まで、気温や天候、それらしい足場に動く背景、少々いい加減でそれでも動物たちを思って作られたエリアはおおむね増える一方だ。ティナの知らぬところでティナの知らぬ世界を広げ、そのたびニュートは後ろ手にサプライズを隠し持ったこどものような顔でティナを案内する。外の世界であれだけ他人と合わせぬ瞳を輝かせ、友人とハグをするかのように動物たちと触れ合う彼を見ているのは楽しい。触ってみる、とティナの手を導く優しい声もすきだ。餌をお願いできる、こいつも君を覚えたみたいだ、ニュートは事あるごとに彼の愛する動物たちとティナの距離を取り持つ。その時間がどうやら彼にとっての至福でもあるようだった。
彼の世界を知ることは楽しい。
彼が彼の世界を見せてくれることも嬉しい。
けれど彼の世界はあまりに広く膨大で、次から次へと収まりきらぬほどの生物を語る彼を見るうち、ティナは少しずつ小屋の外を躊躇するようになった。
「ティナ?」
トランクからじかに繋がる小屋の作業台、カップから点々と落ちるココアの跡を辿るとその先の扉は半開きになっていて、ニフラーの仕業だろうな、と口元を緩めた矢先に被害をこうむる一方の主が現れた。ティナ、と悲劇に気づかぬ彼はあるはずのない尻尾をわさわさ振っている。
「来てたんだね」
「あなたって私のセンサーでもついてるの?」
「そうかも、先越されるけど」
「ドゥーガルのほうがよっぽど優秀ね。あとニフラーにスプーン持ってかれてる」
ココアの残骸に気づいた彼が笑顔を引っ込めて、あいつ、と呻いて巣のほうを睨んだ。昨夜落とした釦も持ってかれたままなんだ、と愚痴るので袖口を見ると、なるほどたしかに糸だけが不格好に覗いていて笑ってしまう。
「ちょうどよかった、先週フウーパーを保護したんだ。ブルーのフウーパー見たことある?」
「ないわ、ここでピンクの子を見たのが最初で最後。そもそもフウーパーってアフリカの鳥でしょ?」
「そう——そうなんだ、アフリカ。よく知ってるね」
ぱっと煌めいた瞳と目が合う。顔を輝かせるニュートはおそらくティナと目を合わせたことも無意識で、それが彼にとっていかに珍しい仕草であるかも無自覚であろう。
喉がきゅうと縮こまる感覚がした。なにか息苦しい。
「ティナ、時間ある? これから様子見にいこうと思ってて」
一緒にどう、と彼は紳士的にティナを誘う。時間はある。青いフウーパーもきっと綺麗だろう。けれどティナは、奥底にくすぶる濁った感情を処理しきれずに二の足を踏んだ。えっと、と曖昧な返事がこぼれ落ちる。
「かわりのココアを入れてくるわ、光らないスプーンも」
「あとでいいよ、スプーンは取り返しておく」
「保護したばっかりで警戒されると申し訳ないし」
「人懐こいやつだから」
心配いらない。言い切る彼の言葉はその心に根を張って力強い。僕を信じてと幾度となくティナを導いた、彼が心配いらないと言うのなら心配いらないのだろう。
けれど心配とは一体。
ティナは得体の知れぬ不安を持て余す。
「——だって、ニュート、私とあなたじゃ違うわ」
「ティナ?」
ティナは知らず一歩後退った。行きたくないとたったの一言、その言葉を形にすることが彼を傷つけることになると知っている。何よりそんなことを思う自分を彼に知られたくなかった。保身と傲慢、それはなんて身勝手な感情だろう。
「ごめんなさい、私——」
「ティナ、待って、謝らないで」
「でも」
「君が何に怯えてるのかわからない、だけどたぶん、悪いのは僕だ」
距離を取った一歩分を、けれどニュートはむやみに踏み込むような真似はしなかった。違うかい、とティナの表情を窺うブルーの瞳はいつだって思慮深くて優しい。きっとすでに取り繕いようのないほど情けない顔をしているだろうに、彼は自分のせいだと言ってティナに寄り添おうとする。
「動物たちのこととなると周りが見えなくなる自覚はあるんだ。君が少し前からこの小屋から出たがらなくなったことも。なにか失礼なことをしたかな、話がつまらない? いや、それよりも僕といるのが」
「ニュート」
ちがう。
とんでもない思い違いを走らせる前にティナは彼の言葉を遮った。彼は彼でとても繊細で、人間という慣れぬ動物、とりわけティナに対してはティナよりもずっと臆病になる節がある。
それでも彼は臆病を踏み越えてティナと向き合おうとしてくれる。
不安と対峙して乗り越える、そこにどれだけの勇気が必要だろう。ティナはいよいよ泣きたくなった。
「わたし——私、違うの、あなたほど勇敢でいられない。自分に絶対の自信を持てる場所なんてない。私の世界はあなたの世界よりずっと狭いから」
「ティナ?」
「あなたの世界は本当に広いわ、そしてこれからも広がっていく。足を踏み入れるたびに思う、あなたの隣に私が立っていていいの?」
見知らぬ動物を語る彼、テキストでしか見たことのない動物と心を通わせる彼、身を置く世界のスケールはあまりに違うから、自分の小ささを誰よりも知るティナはひどく心細かった。
「あなたの世界にいるとどんどん自分に自信を失っていく。そんな自分がいやなの、そうやってあなたの世界に混じれない自分がいやなの」
ばかみたいでしょう。
呟いた声は泣き言のようだった。きっと彼を困らせる。ティナはぎりぎりのところで微笑もうと努力したけれど、それでも元来の性分から笑顔で取り繕うことなど数えるほどしかなかったティナである。張り付けた笑みが無力なことくらいは自分でもわかっていた。
「ああ……、そうか、いや、ティナ、君ってほんとう……」
はあ、とニュートがいやに長い溜息をつく。
呆れられた。覚悟はしていたがそれを受けきれる自信まではない。どうしよう、それはこわい、とティナは怖気づく。
「あ、の、ごめんなさい、ニュート」
「謝らないでって言ったろ、違う、僕も大概だけど君ってなんというか」
にぶい。
吐き出された言葉にティナは数秒ほど固まった。にぶい、と彼の繰り出した言葉を咀嚼する。何がどうなってそうなる。
「……にぶい?」
「そう」
「あなたに言われたくないって言っていい場面?」
「先に僕が言ったよ」
たしかにそうだ。言っていた。だがそういう問題ではない。
あれだけの、言ってしまえば女々しい感情を吐露して、ティナのほうは彼に幻滅されることすら覚悟していたのだ。もちろんニュートがこの程度の話で人を切り捨てるはずがないとわかっているけれど、理屈と感情は別だ。こわかった。その言葉をすべて受け止めた上で口にする台詞がそれか、と、いまひとつ釈然としないティナである。
一方のニュートは君らしいと言って笑う。——わらうのだ。
「君って自分にばっかり厳しいからたまに意固地なんだ。ひとに頼ることも話すこともしないからひとりで考え込んで、それで、自分の結論を飲み込んでしまう。それが思い違いであってもね。だからパリで再会して早々ファミリーネームで呼ばれる羽目になった」
「それ忘れてくれない?」
「もっと簡単に考えていいんだ、君のその感情は誰だって持ってる、僕だって持ってるよ。君が、君の知らない僕といることを苦しいと思うのはなぜ?」
広すぎる彼の世界。それを愛する彼と溶け込めぬ自分。自分の無知はそのかたちを浮き彫りにするようでひどく気が滅入った。彼に導かれるばかりの自分だ、未知を追って愛する彼にとってどれほどつまらない人間だろう。彼に置いていかれるいつかが不安だった。彼の心も彼の瞳も、いつか彼の世界に奪われてしまいそうで。
そうしてティナははたと気づく。
(奪われる?)
おかしい。
だって、それはまるで。
「——妬い、て」
た、と自ら取りこぼした言葉にじわとティナの頬が熱を持つ。しくじった。口に出ていた。逃げなくては、とティナは即座に踵を返して敵前逃亡を図るが、一手早く踏み込んだ彼に腕を掴まれてあえなく失敗に終わった。逃げ足の速い動物たちに見せる反射神経をこんなところで発揮しなくてもいい。
「離っ、離してニュート、ていうかなんでこういう時に限って馬鹿力」
「ごめんもういっかい言って」
「いいい言わない! なにも言ってない!」
「やいてた?」
「復唱しないで!」
最悪だ。
羞恥に消え入りそうなティナをニュートが遠慮なく抱きしめる。抱き込む所作は一見優しいくせにティナの抵抗を押さえ込む力は強い。離して、と今いちど訴えるが彼はまあまあと鷹揚に笑うばかりである。
「ニュート!」
「大丈夫、えっと、かわいいよ」
「それフォローのつもり?」
「いや本音」
ぬけぬけと言い放つ彼にティナは毒気を抜かれてしまった。ああもう、と暴れるのをやめたかわりに彼の肩口に顔を押し付けて、しにそう、と呻いて撃沈する。彼の手のひらが宥めるようにティナの頭に添えられた。
「ミスタ・スキャマンダーって呼ぶ?」
「忘れてったら」
つま先で軽く足を小突くと、僕も傷ついたんだとニュートは笑った。
「君の些細な思い違いひとつで僕はこんなに不安なんだ。僕の世界は僕と動物たちだけの世界だけど君は違う。いろんなひとと出会っていろんな世界を知って、君の世界は僕よりずっと広いんだよ、知らなかった?」
「考えたことなかった」
「僕の世界に興味をなくしたら君はあっという間に離れてしまう、ここよりずっと心惹かれるものと出会ったらって」
僕だって不安だよ。彼の腕にかすかに力が加わる。ぎゅうと抱き締められて、ティナは彼の執着に応えるようにおそるおそる腕を回した。
「……あなたの世界じゃない、私が見てるのはあなたよ、ニュート」
「僕だってそうだ、隣にいるなら君がいい」
「いつの間にそんな口説き文句を覚えたの?」
「努力してる。君はそういう、不安とかノーって言葉をちゃんと言って」
努力する、とティナは笑った。不安を縫い付ける糸がするするとほどけていく。髪を撫でる彼のてのひらに目を閉じて、これまでの鬱屈を吐き出した反動で力が抜けた。身を預けるティナを包む体は温かく、ごめんなさいと独言のように口にすると、謝らなくていいから、とニュートがやさしく囁いた。
「……キスしても?」
「ノーって言ったらしない?」
「しない」
「じゃあ私からする」
顔を起こして頬に口付けて、その頬を引き寄せて唇を合わせる。遠慮がちなキスだった。彼の手が一瞬躊躇を見せたけれど、すぐさまティナの体を引き寄せて抱きしめる。ふ、と漏れた吐息を今度は彼が塞いだ。擦り合わせた唇が飽くことなくティナを求めて、彼は彼で同じほどの不安を持て余していたらしいとティナはようやく知る。
伝えるべきいくつかの言葉はとうに飲み込まれた。ティナは諦めて目を閉ざし、青いフウーパーは彼の瞳と似ているだろうか、と思いを馳せた。
(2018/12/29)