神様のだんまり
同じ傷をどこかに見た。決して癒えることのない手酷い傷を。
傾城の騒動はどこか消化不良のまま終わった。本来の依頼であったはずの鈴蘭の件はたしかに落着と言えるものであったが、思いがけず足を突っ込むかたちとなったこの国の核と、そこにうごめく幾つもの思い。複雑に絡み合ったそれは先の騒ぎで一度ほつれ、どうも話に聞く限り引きちぎられてまた結び合わされたという。ただそれが果たして誰の手によるのか、誰の思惑によるのか、月詠に知る術はない。よもやこれ以上深入りするつもりもなかった。
けれどひとつ、その騒動の中で知った真実が、心の端でくすぶる。
銀時は相変わらずだった。以前と同様思い立っては月詠のもとを訪れて、気まぐれな逢瀬と不実なやりとり、ついでに怠惰な欲求も発散して、満足するとまたふらりと去っていく。
何も変わらなかった。だから月詠も仕方なく素知らぬふりをしている。知らぬふりができるうちはこのままでいいと思っていたのだ。
だがそれももう限界だった。
「銀時、銀時!」
呼び掛けても起きない。肩を叩いても反応がない。魘される男の歪められた顔にぎゅうと胸を締め付けられながら、月詠は銀時の肩を強く揺さぶる。
彼が月詠の隣で寝苦しそうにしていることはよくあった。そのたび起こしてやっては不祥事の一件を夢に見ていただの何だの、今思えば適当に誤魔化され、馬鹿馬鹿しいことに月詠もそれで誤魔化されきっていた。
けれど彼の過去を、ほんの一欠片ではあるが知ってしまった今、月詠の胸にあるのはひとつの歯痒さだ。
一体おまえは今どんな悪夢に喰われている。
何とも厄介な男である。誤魔化しきれる器用さか、あるいは誤魔化しきれぬ不器用さか、そのどちらかを持っていればよかったのに。
「銀……」
銀時の口から声が漏れた。喘ぐようなそれは、あるいは悪夢の中では悲鳴だったのかもしれない。起きるかと期待した月詠が銀時の顔を覗き込むと、それと同時に彼の篝火がかっと見開かれた。
安堵する間もなかった。ひやりと走る悪寒に身を引いて、けれどそれより先に腕を捻り上げられる。激痛。無茶苦茶な力に月詠は息を呑む。
「ぎ、銀、銀時ッ!」
「あ」
捕まれた手首はすぐさま解放された。我に返った男がばつの悪そうな顔で半身を起こす。月詠はうっすら痕の残った手首をさすりながら、怒ったものか慰めたものか、複雑な心持ちで銀時を見上げた。
「……銀時」
「悪ィ、うなされてたの起こしてくれたんだよな。ありがとな」
「銀時」
もう誤魔化すなと。おそらく縋るような目をしていただろう。月詠を見た銀時が不自然に押し黙る。
お互いに何かの糸口を探していた。据わりの悪い沈黙をどうにかしたくて相手の様子を窺う。けれど二人でそれをやっているのだから埒が明かない。おそらく彼のほうもわかっているのだろう、心当たりが生まれてしまったせいで、もう単純に誤魔化して済むことではなくなった。
「……叫んだか? それでお前起きたの?」
「いや、ただ目が覚めただけじゃ。ぼうっとしていたらぬしがうなされ出した」
「ふーん……」
銀時ががしがしと頭を掻く。手を伸ばすのもなにか違う気がして、月詠は大人しく彼の傍らに鎮座していた。彼が何も言わないので月詠も何も言わない。先に沈黙を気まずがったのは銀時のほうであった。
「訊かねえの」
「何をじゃ」
「理由っつーか、原因っつーか、事情っつーか」
「……銀時」
たとえば、もしいつか踏み込む時が来るとして、その時はきっと彼のほうから切り出すのだろうと思っていた。日頃空気を読むだの気遣い屋だのと評される月詠は、つまるところ臆病なのだ。人に踏み込むことも踏み込まれることも怖い。そうして臆病なのは銀時も同じだった。彼はおそらく自分の臆病虫に嫌気がさして、こうしてやけっぱちに踏み込んだりする。
予想通りとなってしまった。月詠はやれやれと肩を落とす。
「やめなんし」
「何が」
「本当に聞いてほしくて言ってるのならいくらでも聞いてやりんす」
銀時は不機嫌そうに黙った。この男も自分も、まったく呆れるほどに口下手で不器用だ。
「……あー、なんだ、言っとくけど、違うかんな。別に話したくないとかじゃなくてだな」
「銀時」
「むしろそのうち話すつもりだったっつーか、こう、なんだ」
「銀時」
あれこれ勝手に言い訳を試みる銀時を見兼ねて、月詠はようやく男との距離を詰めた。言葉の無力さに彼だって気づいているだろう。そろと伸ばした手で頬に触れて、居心地の悪そうな瞳を覗き込む。
「そんなものはいらぬ」
「何……」
「いらぬ」
話してほしいわけではない。全てを共有できる関係だけに価値を見出だすつもりもない。ただもう誤魔化すことはやめてほしいだけだ。
彼の惑う瞳をじっと見つめると、やがて降参でえすと間の抜けた声が上がった。
「お前、やっぱ一筋縄じゃいかねーなあ」
「褒め言葉として受け取っておく」
「褒め言葉だっつーの」
銀時が躊躇いがちに腕を回してきたので、月詠はされるがままに身を寄せた。情けない吐息が耳元を掠める。あらゆる感情がごった返す中、それでも月詠の体温に安堵を見出だした、そんな溜息だった。
「なんつーかさあ、女って何でもかんでも口にしてほしがんじゃん。だからお前もそうなのかなって」
「まずわっちを普通の女として扱うことが間違いじゃな」
「ですよねー」
気の抜けた声に少し笑って、月詠は銀時の首元に擦り寄った。その動きに合わせて彼の鼻先が髪に埋められる。良い大人が抱き合うよりもまるでお互い縋りつくかのような、なんとも無様な体たらくである。
「少しでも支えになれたらと、それだけじゃ。だから誤魔化すのだけはもうやめなんし。つらい時はつらいと言ってほしい」
「それ俺の名言のパクリ?」
「たわけ。ぬしがくれたものを返したまでじゃ」
崩れ落ちそうだったあの時、掬い上げてくれたのはこの男だった。今だって傍にいてくれる。彼が月詠に対してそうありたいと思ってくれたように、月詠だって銀時の荷を少しでも軽くしてやりたい。事情も過去も知らなくて構わない。それだけだ。
「この傷は決して癒えぬ。ぬしはそれを知っておるからわっちの傍にいてくれるんじゃろ。わっちだってそうじゃ」
「……一応言っとくけどそれだけじゃねえかんな」
「なめるな。それくらいわかっておりんす」
傍にいてくれる理由を履き違えるほど鈍くはない。いずれにせよ傍にいたい理由が彼と同じであることに変わりはないだろう。
銀時の手がうしろ頭を撫でて、月詠は促されるように顔を上げた。まだわずかに揺れる篝火がどこか痛ましい。
「……傷の舐め合いと言われても構わぬ。わっちはぬしに寄り添っていたい」
何か言いかけた銀時は、けれど言葉にすることはなく、静かに月詠に口付けた。ありがとうともごめんとも取れぬ口付けだった。
見逃してくれ、と月詠は誰にともなく願う。あともう一歩曝けきれぬこの男も、あともう一歩踏み込みきれぬ自分も、傷を直視するのはまだ怖いのだ。呼び起こしたところできっとまだ痛む。だからもう少し癒えるまではと、世界を振り切るように目を閉じた。
(2012/07/26)