呼吸と重力
 彼女の、彼女自身に関する存在意義は、周囲が認識しているよりもずっと歪なのかもしれない。  鳳仙との戦いからこっち、何度か顔を合わせるようになってから銀時はそれをうっすら感じ取るようになっていた。二言目には日輪のため、吉原のためと口にして身を削る月詠は、正直見ていて危なっかしい。日輪の眼差しにも同様の色を見たが彼女のそれは諦観に近く、おそらく月詠という人間は幼少のころからそういう頑ななところがあったのだろう。月詠とはきっとそういう人間なのだろう。  けれど銀時は気が気でなかった。  いまに彼女はからっぽになってしまう。彼女が彼女の価値を決めつけてからっぽにしてしまう。  その片鱗はいくらでもあった。人を殺めたとき、悲劇を見届けたとき、ひどい言葉を浴びせられたとき、彼女の双眸がこわいほどなにも映さなくなる瞬間を何度か目にしている。銀時はそのたび肝を冷やして、そうして、折れてくれるなと願った。だってきっと放っておけなくなる。手を差し延べて抱きしめてしまう。銀時にとって月詠とはそういう女だった。だからむやみに深入りせぬよう気をつけていた。  地雷亜の一件からだ。  笑っても怒っても彼女はどこか息苦しそうだ。  この日、吉原に顔を出すと月詠の姿はなく、ひのやにもなく、日輪に言われて部屋を訪ねると彼女は窓辺でぼうっと煙管をふかしていた。  いやな横顔だった。なんだよサボりかよと殊に明るい声で茶化すと、彼女はふと顔を伏せて、つかれた、と言った。  もうつかれたと。 「――ぬしなら、わかりんすか」  月の光を浴びる彼女は息を呑むほどに美しく、けれど、皮肉なことにその顔の傷をも際立たせていた。胸の内、心の奥底にいくつもの矛盾を抱える月詠という女。彼女を彼女として歩ませるふたつの傷は、まさに彼女の抱える矛盾そのものだ。 「わっちは……どう生きればいい」  取りこぼすような言葉に銀時は目元を歪ませた。揺らぐ気配にも月詠は気付かない。無感動におもてを上げた彼女は、ぼんやりと吉原の夜を眺めている。 「吉原に売られ、女を捨てる道を歩み」 「……」 「果てにはその師まで己の手にかけた」  ふう、と遠い夜月をけぶらせるように紫煙が吐き出される。味など到底しなそうだ。果たして愛煙家ゆえ煙管を手放せずにいるのか。あるいは月詠という人間を保つべく煙管を手放せずにいるのか。胸糞悪い憶測だ。  しかし、そう思わせるほどに、彼女には何かが足りない。 「今まで護ってきた、日輪は、吉原は、もう、わっちの力など必要ありんせん」  なぜこの女は、他人の中にしか自分の存在を見出だせないのだろう。  誰しもそういう欲求はある。それを火種にして生きる人間だっている。けれど彼女のそれは、欲求と呼ぶにはどこか消極的で、危うい。 「なあ、銀時。今のわっちには何も残っておらん」 「……」 「教えておくんなんし。わっちはどう生きればいい」  吉原に売られた。女を捨てた。師に裏切られ、その師を自身の手で殺めた。吉原の女たちは自由を手にし、日輪には晴太がいる。  取り残された月詠はまるで道に迷った子どもだ。途方に暮れ、行くべき道がわからず立ち尽くしている。  愚問だ。  けれどそうとわからない月詠の問いが、銀時にはどうにも歯痒い。 「決まってんだろーが」  煙管を取り上げて菫色の瞳を覗き込む。驚きに瞠られたそれはやはり濡れてはいなかった。いっそ泣けたら楽だろうに。 「テメーのために生きろ」 「は……?」 「自分のために生きろっつってんだよ。簡単だろ」  月詠の表情には戸惑いが浮かんでいた。自分のために生きろと言われて混乱する、そんな彼女が悲しくて銀時はこの世を呪いたくなる。不器用なお人好しにこの世界はあまりに生きづらい。 「おめーがどう生きてきたかなんざ知らねえが」  銀時は吐き捨てる。むしろ知りたくもないが。 「そんな大層な生き方じゃなくたって人は生きていけんだよ。自分のために生きていけんだ。それが当たり前なんだっつーの」 「――自分のため」 「簡単なんだよ、月詠」  噛んで含ませるように、銀時はゆっくりと繰り返した。 「自分の感情で笑えばいい。自分のことで腹を立てりゃいい。自分のために泣いてやりゃいい」  ぐいと腕を引いて華奢な体を閉じ込める。ああやっぱりこうなった。銀時の心境は諦観に近い。けれどどこかで、こうなることを望んでいた自分もいる。 「ぎ、銀時?」 「んだよ、文句あんのかコノヤロー」  突然抱きしめられて、慣れぬ抱擁に身じろぐ月詠をさらに強く抱き締める。その肩も、腰も背中も、何から何までが細い。今にも折れてしまいそうなこの体で、彼女は一体どれだけのものを背負い込んできたのだろう。きっと重たかっただろうに。きっと苦しかっただろうに。 「泣きゃあいいんだ。苦しい時は苦しいって、悲しい時は悲しいって」 「師匠の……地雷亜のことを言っておるのか」  今にも崩れそうな微笑を浮かべて、月詠はかろうじて表情を保っていた。銀時はほんとうに、壊れる、と思った。 「銀時、地雷亜を殺したのはわっちじゃ」 「それがどうした」 「泣く、など……とんだ矛盾じゃ。とんだ笑いぐさじゃ。わっちに泣く権利などない」  そう言うくせに月詠は泣いていた。涙を流さないだけで、震えを抑えた声も、深い瞳も気丈な心も泣いていた。これではたまらない。銀時はかじりつくようにして月詠の口を塞いだ。  突然のことに驚いたのは月詠だ。声を出すことも忘れ、しかし、その行為の意味を理解するとすぐさま抵抗を始めた。きつく拘束する腕の中、もがけるだけもがいて、腕を突っ張って顔を離そうとする。無茶に踏み込んできた銀時との距離をとろうとする。  銀時は意に介さず月詠の唇を追った。片手で後頭部をおさえ、唐突に深くなった口づけに悲鳴を上げた口から舌を押し込む。月詠の口からはうめき声がこぼれた。 「ん、んぅ……っ」  おそらく口づけなど初めてであろう。そんなことは銀時にだってわかっている。けれど、だからといって容赦する気もなかった。銀時の目的は、衝動は、ただ単に月詠に触れたいというそれではない。  小さな口腔をねぶり、ついには月詠の舌を探り当てる。おののく彼女を無視して絡めとり、吸い上げ、息苦しくなっては唇を離してまた塞ぐ。先より深く執拗に。  混乱を極めた月詠はついに限界を超えたらしく、突然糸が切れたように力をなくした。そうとわかるや銀時は唇を離して、繋がった糸も構わず彼女の顔を覗き込む。はあはあと息の荒い月詠は、その眦から幾筋もの涙を流していた。 「泣けんじゃねえか」 「こ、これ、は……ッ」  この期に及んでまだ待ち前の負けん気が顔を覗かせる。月詠はぐいと乱暴に涙を拭った。後から後から流れるそれを拭いつづけ、それでも涙は止まらず、ついに月詠は手の甲を押し付けるようにして目を覆う。おそらく涙ごと覆い隠すつもりだったのだろう。銀時は力ずくでその手をどけて、彼女のくしゃくしゃに歪んだ顔を胸元に押し付けた。 「止まるわけねーだろ、箍が外れたんだよ」 「た、たが……?」 「銀さんのあつーいキスで何も考えらんなくなって、残った感情がそれなわけ。その意味わかんだろ」 「だが、わっちは……!」 「どんな変態野郎だろうがお前にとっちゃ唯一の拠り所だったんだ。大切なモンなくして、涙流すことに権利もクソもねーんだよ」  まったく最後の最後にとんでもないものを背負わせてくれたものだと、彼女が憤らないかわりに銀時が憤る。あの男のおかげで彼女は満足に泣くこともできない。  月詠は呆れるほどに自分に厳しく他人に優しい。日輪のことは大事にできるのに自分のことを大事にできず、地雷亜のことは許せても自分のことは許せないのだ。 (馬鹿な女)  だから放っておけない。 「もっと自分の感情に甘えろ。それが無理なら俺に甘えろ。手放しで泣きゃいいんだ、こういう時くらい」  肩を震わせ、月詠は相変わらず泣きやもうと尽力しているようだった。無理だろう、と銀時は呆れる。泣きやめるはずがない。 「あのなァ、月詠ちゃん。お前はそもそも泣き方を知らねェんだよ。そんなヤツが泣きやみ方なんて知ってるはずねえだろ」  喧嘩したことない奴が仲直りのルールを知らないように。銀時は彼女の頬をとらえて強情な双眸を覗き込む。 「教えてやろーか」 「み、見るな!」 「思いっきり泣くんだ。そいつのことだけ考えて、そいつとの思い出に浸って、泣ける限り泣きゃいいんだよ。そうすりゃ涙も止まる」  言うだけ言って、銀時は再び月詠の頭を胸に押し付けた。見るなと彼女が訴えたとおりに。  限界だった。月詠の心は音を上げた。  ひくりと肩が震えたかと思うと嗚咽が聞こえ始めた。やがて声に輪郭がともり、師匠、師匠と追い縋るように師を呼ぶ。その姿はやはり迷子になった子どもを思わせた。 「ったく、手のかかる……」  泣きながら、月詠の手はしっかりと銀時の着流しを掴んでいた。傍にいろと言っている。離れるつもりなんてねえのに、と銀時は腕に力を込めた。
(2011/10/12)

back