満ち欠けかぞえ歌
 横たわった世界に、男の背中が。  しんと冷えた夜だった。肌に当たる空気よりも静寂のほうがなにか冷たさを感じさせる。よれた布団はぬくいというのに、陸奥の心はどうにも温まらない。  畳一畳ほど先にでかい背中と、それを上に辿れば柔らかい癖っ毛、その向こうには開け放たれた障子窓と夜空が見えた。月がぼんやり笑っている。朧の三日月。  だらしなく着流しを羽織っているだけの男は、おそらく、夜闇も月も見てはいない。窓の外に何を見ているのだろう。  首を捻って枕に顔を埋める。その拍子に肩が布団からはみ出て外気に触れた。冷たい。寒い。窓を閉めろクソモジャ。  目を逸らしたのは遠い背中を見たくなかったためだ。どうしても、手を、伸ばしてしまいたくなる。  明日のこの頃、あの男はとっくにいない。  明日の命もわからぬような場所へ。すべてを置いて。陸奥を置いて。到底読ませてはくれぬ彼の意志だけを連れて。  明日戦に行くと言って陸奥を抱き、陸奥はその時初めて坂本がいなくなる事実を知ったのだ。手の届かなくなる残酷さに、文句の一つも言えなかった。 「……陸奥?」  空気が動く。陸奥は動かなかった。  さりさりと畳に音を立てながら坂本の気配が寄ってくる。剥き出しの肩に触れ、つ、となぞって陸奥の頭を撫でた。 「起こしたかえ」 「……別に」  枕に声をくぐもらせると思った以上に息苦しかった。さらさらと髪を遊んでいた手が耳を辿り頬を撫で、顎に指を添えて陸奥の顔を枕から引き剥がす。さすがに強情を貫く気にはなれなかった。 「怒っちゅうか」 「いや」 「ほうか」  かいた胡座に肘をつき、よかった、と人の気も知らずに笑う。 「最悪ぶん殴られるかと思うちょった」  指先が陸奥の前髪をくしけずる。本当はぶん殴ってやりたかったけれど、陸奥は億劫がる腕を持ち上げてその手を捕まえた。  ひんやりと空気の染み込む腕に、坂本の手だけが温かい。 「……怒鳴り飛ばせるモンならそうしたいきに。拳じゃち三発は叩き込みたい」 「え、グーで三発?」 「けんど」  手のひらを握り込む。人より無駄にでかくて、いつだって人より無駄に温かい。 「けんど、今は、泣きとうて」  昔から泣くことが苦手な子どもだった。そんな陸奥を泣かせてくれたのはいつだってこの馬鹿で。 「……ほうか」  するりと指を抜けた手が陸奥の肩に触れ、布団に押しやった。働く力にあらがいもせず、覆い被さる影に少し仰のく。触れた唇は思ったより冷たい。  かさついた唇も、不器用なりに優しく触れる指先も、すべてが名残惜しくて、それなのに触れられるたびに怖かった。これを失うのか。下手をすればこの先ずっと。 「坂本」  堪らずに呼んだ。胸が引きちぎれてしまいそうだ。 「坂本」  痛い。苦しい。助けてくれ。  眦から一筋だけ涙が溢れた。こめかみを伝って髪に紛れる。それ以上の涙は坂本の唇が掬い取ってくれたので、陸奥は心置きなく瞼を閉じた。 「すまん」  短く囁かれた謝罪は、けれど揺らいではいなかった。陸奥を泣かせてなおこの男の意志は変わらない。わかってはいる。どう足掻いても明日からこの男はもういない。  陸奥は瞼を持ち上げて、右手で坂本の手を求めた。 「……なァ、坂本」 「うん?」  応じるように左手を陸奥の手に重ねる。陸奥はその手を導いて、己の喉元に充てた。 「帰って来んのなら、その前に、わしを殺せ」  坂本の双眸がわずかに瞠られる。 「死にに行く前に、わしを殺して行け」  言い切って、また泣いた。  一人でなど生きたくない。本当はこんなにも弱くて、愚かしいほどこの男に執着している。  宥めるように優しく涙を拭う坂本に、いっそ笑ってくれたらと陸奥はかなしかった。 「殺しゃァせん」 「坂本……」 「わしも死にゃァせん。帰ってくる」  根拠のない優しさだ。そんなものはいらないのに。 「死んでも生きるきに、陸奥、待っちょうてくれ」 「嫌じゃ」 「陸奥」 「嫌じゃ」  まるで幼子のように駄々をこねる。連れていけ。それが叶わぬなら殺していけ。此処で根拠のない優しさに縋ってただ待っているなど嫌だ。どんなに願ったところで、その時が来ればあっけなく死んでしまうのだろう。  きっと陸奥はこの月を忘れられなくなる。朧の三日月に怯えて生きるか、はたまたそんな陸奥を置いて満ちてゆく望月に唾を吐くか、いずれにせよこの馬鹿に縛られながら生きていかねばならない。  そんなのは御免だ。 「……ほんに、聞き分けのない子じゃのォ」  坂本は困ったように眉を下げ、聞き分けのないこどもにするように陸奥の頭を撫でた。 「後生じゃ。待っちょうてくれ。迎えに来るき」 「迎え、に」 「そうじゃ。迎えに来る。ほいで、そん時こそおまんも連れて行っちゃる」 「何処へじゃ」 「さてのう。そん時わしが見ちゅうところに。おまんを置いて行くがは今回限りじゃ」  ほやき許しとうせ。坂本はそれだけ言って唇を付けた。  この男は残酷だ。言葉の無力さに気付かず去ってゆく。勝手な約束だけを置いて。勝手に陸奥を縛りつけて。一人で生きろと。  ああ、そうだ、どこか遠くに。思いも過去も忘れてしまうほど遠い場所に行けば、一人でも生きていけるだろうか。この男の名残も、自分の名残も、何もない場所でなら。そんな明日にどんな意味があるのか知りようもないが。  月が陸奥を嘲笑っている。行かないでくれという言葉は、ついに言えないままだった。
(imaged by 『月乃』/めざめP)
坂陸奥って当初は同郷とか幼馴染とかなんかそういう隙間的なロマンもあったなあと思います。快援隊編前に書いた捏造だらけの代物なんですけどなんだかすごく気に入っている。

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