ステップ・イン・レイジー
 山に放ったはずの書類が見当違いのところまで飛んで、机を滑って畳に落ちる。うんざりと息をつきながら片手をついて手を伸ばすと、すっと書類が遠のいて拾い上げられた。  少し視線をずらすとそこに坂本の膝がある。片胡座をかいた坂本が書類を差し出していた。 「ほれ」  陸奥は瞬きをする。  そういえば存在を忘れていた。数刻前に暇じゃと部屋に押し掛けてきた時は唾でも吐いてやろうかと思ったが、そのまま居座ったかと思えば珍しくしずかに机仕事をこなしている。まじまじとその顔を凝視していると、さすがに不自然だったのか坂本が首を傾けた。 「どういた」 「……ああ、いや」  なんでも、と書類を受け取り、身を引こうとしたところで坂本の影が動いた。色眼鏡を外した坂本が手をついて身を乗り出すので、来るか、と陸奥は身構える。  案の定彼の顔が迫った。陸奥はとっさに受け取ったばかりの書類を叩きつける。ばす、と鈍い音。 「……陸ー奥ー」 「なんじゃ」  身を引かせた陸奥は、不満げな坂本をほうって乱れた書類をとんとんと整えた。男は鼻頭をさすっている。間抜けなざまだな、と陸奥は他人事である。 「ほんに空気読まんのー」 「貴様こそ空気読んで仕事しとうせ」  しちょーたやいか、と口ばかり達者な男が懲りもせずににじり寄ってくる。たしかに処理された書類は普段の倍以上であるが、量の問題ではない。というかこの男における量のハードルなんてたかが知れている。  ぬっと覆い被さるようにして坂本の顔が迫る。陸奥は無感動にそれを見つめ返した。 「これまで真面目にやっちょうたくせに、なんじゃ、わしの感動を返せ」 「飽きたちやー」 「餓鬼か」  今度こそ書類を山に乗せる。しかしその手をでかい手に掴まれ、視線をやると聞き分けのない双眸がじっと陸奥を見ていた。坂本がこの程度の舌戦で退くとはつゆほども思っていないが、さすがに面倒臭くなって陸奥は眉を顰める。 「いい加減にしろ」 「強情じゃのォ」  坂本は悪びれもせずにへらと笑う。それが余計に陸奥の神経を逆撫でした。 「ずーっと同じ空間におって黙々と仕事して、ふとした瞬間に触れて、なんて、なんぞムラっと来んかえ」 「来るか」 「えー、素っ気ないのー」 「万年発情期の貴様と一緒にしな」  陸奥は乱雑に手を振り払った。この男の気まぐれな発情にいちいち構っていたら身が持たない。  そのまま机に向き直るつもりが、一瞬早く伸びた手に頬を抑えられた。否も応もない触れ方に陸奥はでかい舌打ちをする。 「おいモジャモジャ」 「発情期っちゅーがなァ」  ぐっと顔を寄せられて顎を引く。思いがけず真剣な発声をされ、反射的に視線を上げるとこちらも真剣な色をしていた。かち合った視線が逸らせぬことに、陸奥はじりっと気を張る。 「発情期じゃのーても触れとうてたまらんがじゃ」  けれど何を言うかと思えば馬鹿馬鹿しい。 「阿呆か。ほがなモンおんしだけじゃ――」  なか、と陸奥はそこではっとする。意識せず出てきた言葉が自分でもわからず、陸奥はあれっと顔を上げた。  坂本はまるで棒でも飲んだかのような顔である。目が合って、そこでようやく、発言が失言であったことに思い至る。  変な呼吸が生じた。 「違う!」 「何がじゃ」  咄嗟に手を払ったが坂本の顔面はすでに締まりがない。彼の様子から取り返しのつかないことを悟って、今のはない、と陸奥は大きめに絶望した。仕事のしすぎか。だとしたらこの男のせいだが。 「――違う。おんしだけじゃ、おんしだけ」 「無理があるろー」 「やかましい」  失態へのやるせなさからとても目を合わせていられず、伏せるように視線を落とすが視界の隅で坂本の口がにやけている。穴を掘ってこいつを埋めよう、と陸奥は目を瞑った。 「そうツンケンしなー。おまんにしちゃずいぶんな口説き文句やいか」  人の気も知らずに坂本ばかり上機嫌である。顔を背けると懲りぬ右手が頬を押さえて、照れなや、とあっさり戻された。面白がる口ぶりに反して触れる指先だけは無駄に優しい。 「とんだご褒美じゃ」  反対側の頬に別の感触が触れて、陸奥はぎくりと目を開いた。頬に口付けだなんてこの男にしては寒気のする行為である。そこまでつけあがらせたか、と無意識に身を引く。  けれど、唇の離れた頬にもう片方の手のひらが添えられ、おおきな手に挟み込まれた頬がものすごく癪だけれどなんだか心地よい。手のひらの感触、不器用な優しさと、ぬくみと、人心地。彼との接触がいとも簡単に陸奥の拒絶をほどいてゆき、彼のよく回る口さえ黙るので満更でもなくなってしまう。吐息が掠めて、陸奥は仕方なく目を伏せた。  かさつく唇。頬を包む手のひら。  ほだされる振りをして、いつだって本当は。  ――本当は? 「――あだっ!!」  気付くと頭突きを決めていた。  鼻頭を押さえて呻く男をよそに、なんだ今のは、と途方に暮れる。あと一歩遅ければおぞましい本音をうっかり自覚するところであった。 「――最悪じゃ」 「いやそれわしの台詞」  もとはと言えばこの男がわけのわからぬ理屈で迫ってきたのがいけない。  あと少しじゃったがなあと抜かす坂本を、陸奥は八つ当たりを承知できつく睨みつけた。 「ご褒美ち言うがならさっさと片付けとうせ、それ」 「あーハイハイ」  また頭突きなんぞかまされたらたまらんちや、とのそのそと身を引く坂本を横目に、陸奥は平静をたぐりよせるようにペンを取る。定位置に戻った坂本がちらちらと面白がるように視線を寄越してくるので、ああは言ったが陸奥のほうが到底仕事になりそうになかった。
(2013/01/30)
過去サイトの記念リクエスト「素直じゃない陸奥」
素直じゃないから真っ先に連想されたのが頭突きをかます陸奥だったという当時のあとがき見て笑ってます。どういうことなんだ

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