きみとワルツ
本音が一割、面倒臭さが二割、残りの七割は酒の勢いだった。
現状を表すと最悪の一言に尽きる。つまるところ単純な計算で九割分の後悔をする羽目となるわけで、目下その九割がずっしりのしかかる形で陸奥の体は重たい。頭も重たい。幸いなのはかろうじて記憶が残っていたことと、起きた時点で冷静を保てていたこと、隣の男がまだ寝ているということだ。陸奥は極力ゆっくりと半身を起こした。
まだ間に合う。これは事故だ。事実を見れば盛大にアウトをかましているが、結果だけでも調整すればまだセーフとして誤魔化せる。
布づてに気配を悟られぬよう、細心の注意を払ってベッドからの脱出を試みる。ついでに目で衣服を探し、どうにかベッドの縁に引っ掛かっていたものが落ちたくらいの位置に打ち捨てられたそれらを見つけた。うんざりしながら手を伸ばす、と、突然真逆の方向に力が働いた。
ばさりとシーツが大きく波打つ。それに気を取られて抵抗する間もなく引き戻された。大袈裟にシーツを跳ねのけた男が、気づくと陸奥をベッドに縫い留めるようにして覆い被さっている。
「おはようさん」
「……ずいぶんな挨拶じゃの」
細められた瞳にこちらは不機嫌な目で返し、まるきり自由の利かなくなった体に嘆息する。こういう時に限って無駄に気配に敏感なのが腹立たしい。
「陸奥のほうこそずいぶん早いのう」
「寝坊がデフォルトの貴様と一緒にしな。ちゅうかどけ、着替えたいがじゃ」
「いやじゃ」
「おい」
のらりくらりと抜かす坂本にいい加減陸奥も苛立ってきた。朝っぱらから何がしたいのだ。鬱陶しい。
坂本はへらへらと読めぬ笑みを張り付けている。そのおかげで真意が見えない。昨夜働いた二割の面倒臭さは、つまりここから真意を見出だすことが面倒になったのだ。今だって正直面倒臭い。
けれど。
「抜け出して、着替えて、そのままなかったことにする気じゃろ」
「……」
こうして平気で核心をついてくる。途方もなく厄介な男だ。
そもそも陸奥は感情や表情をおもてに出すような性分をしていない。一部から鉄仮面と呼ばれていることも知っている。それでも平気で陸奥の図星をつく坂本はおそらく、表情を読んでいるのではなく思考を読んでいるのだ。長い付き合いと近い距離を有する男である。陸奥にもおそらく同様の真似ができる。
けれど陸奥なら知らぬ振りをする。この男はそんな芸当を知らない。
「……退け」
「退かん。なかったことになんぞしてやらん」
「坂本……」
溜め息を吐く。聞き分けの悪いことなど今に始まったことではないが、ここまでくると餓鬼臭さを通り越してただ残酷だ。
「あれは事故じゃ。互いの得にもならん」
「ほいたら損仕舞いで構わん」
「商人が聞いて呆れるぜよ」
「構わん」
頑なに陸奥を離さぬ坂本が、ゆるやかに指先まで拘束した。振り払えぬ自分も大概だ、と陸奥は奥歯を噛む。
「事故で終わらせるつもりは毛ほどもないきに」
「……おんしゃあその意味わかっちゅうがか」
「陸奥こそわかっちょらん」
何がじゃ、と指先で少しあらがう。それすら許さぬと大きな手に握り込まれた。
そもそもの発端は地球に着くなりすまいるへと直行した上司を迎えに行ったことに始まる。辟易しながら馴染みの店に入り、まだ帰らんと駄々をこねる上司を張っ倒すつもりで出向いた。つまりいつものことだ。けれど張っ倒すくだりに入るより先に、たまにはと女たちに酒を進められてしまった。
それなりに疲れていたことやキャバ嬢たちの接客手腕も相まって、陸奥にしては相当飲んだ。前後不覚になるほどではないが距離のある艦まで戻るのが億劫なくらいには酔っていて、ホテルでえいろうと高らかに笑う坂本に頷いてしまった。一室分の空きしか確認しない坂本に文句を言った記憶もないから、おそらくそのあたりから面倒が働いていたのだろう。それと酒の勢いと本音が少々。そうしてなし崩しになって今に至る。
いっそのこと記憶が飛んでいればよかった。男に回した腕も男を呼んだ声も何もかも。
「酒の勢いだけじゃち思いゆうがか」
「……」
なにかがいつもより不安定で、陸奥はその正体を探ろうと坂本の瞳を見据えた。やけに強情なのはどうしてだろう。なかったことにしてくれないのはどうしてだろう。坂本がここまで引かないとは想定外だった。
「まるでそうじゃないと言わんばかりじゃの」
「陸奥」
ひたと視線をおさえられる。陸奥はようやく不安定の正体に気付いた。色眼鏡を介さない坂本の瞳に、陸奥のほうが不安定だったのだ。
「逃げなや、陸奥」
坂本は容赦なく陸奥の心を揺さぶる。どうにか平衡を保とうとする感情を、確かな言葉で揺るがす。
彼の言葉の意味を理解した途端にぶわと身体中の血が沸いた。無神経に図星をつかれて、取り繕えばいいのか腹を立てればいいのかもわからない。
「今さら酒だけでおまんを抱けるかや」
「やめろ」
「ほがなちゃちな言い訳でおまんを抱けるかや」
「黙れクソモジャ」
「どれほど長くいたと思うちょる」
陸奥は自由なほうの腕で両目を覆った。
逃げて何が悪い。向き合ってしまえば陸奥はただの女だ。長くいたも何も関係ない、どうあっても互いの枷にしかならないだろう。この男を捕らえることも、この男に捕らわれることも、陸奥には恐ろしかった。
「……自惚れも大概にしとうせ」
「陸奥」
それなのにこの男は離してくれない。離さないどころか食い込むほどに強く強く握り締めて。
「大概にするがは陸奥のほうじゃろ」
「何の話じゃ」
「おまんが」
ぐいと腕を掴まれて荒々しくどかされた。開けた視界で見るものといえば坂本しかおらず、陸奥は結局その強い瞳に呑まれる。
「酒なんぞくだらん理由で抱かれる女か」
「ほがな――」
「くだらん理由だけで、いま、こがァ後悔しよるほど頭の回らん女か」
嗚呼、もう、ぶん殴ってやりたい。陸奥は鉄仮面と称される顔を歪めた。
酒の勢いだなんて体のいい言い訳だ。ほんとうは陸奥の女の部分が、自分を誤魔化すために酒の力を借りただけだ。いざという時にこうして酒のせいにして逃げられるように。
一度でいいから触れたかった。この男に触れてほしかった。
それが七割に潜む本音だ。
「……幻滅しゆうか」
「どういて」
「わしも、おんしに抱かれたいと思うてしまえば、頭の回らんただの馬鹿な女じゃ」
陸奥は匙を投げた。思えば今まで坂本の強情に勝てたためしなどなく、いつも最後は陸奥の勝手にしろで幕を閉じていた。どうやら今回も同様のようである。
忠告も文句も振り切って踏み込んだのは坂本だ。陸奥の本音を無責任に引きずり出して、いずれこの馬鹿が後悔しようともう知ったことか。
訪れた沈黙に目を伏せる。
が、次の瞬間坂本の声が弾けた。
響いたのは馬鹿みたいにでかい笑い声である。
「……な、なんなが」
「あーもーほんにこのはちきんはのー」
気でも触れたかと眉を顰めた陸奥は、続いて馬鹿にされていると判断して舌を打った。けれどあからさまな舌打ちに気付いていないのか敢えて無視したのか、おそらく何も考えていないのだろうが、坂本は大きな手で陸奥の頬に触れる。やたらに熱い手だった。ゆうべはもっと熱かった。
「その言葉が聞きたかった」
先まで似合わぬ探り合いをしていた目元がへなと和らぐ。
そのまま吐息を掠め取られて反応を忘れた。唐突になされた口付けは一瞬で、離れたかと思うとあらがう間もなく抱きすくめられる。重いと訴えるが男は笑うだけだ。
「馬鹿でもなんでもえい。陸奥の心を知りたかったがじゃ」
「心じゃと……」
「わしに抱かれたかったんじゃろ」
陸奥はようやく自分の失言に気付いた。先とは別の意味で血が沸き立つ。
「離せ!」
「嫌じゃあ。せっかく丸ぅく収まったモンを」
「離せこんクソモジャがああああああ!!」
「あァあァ、照れ隠しは後にしとうせ。ほれに何を今さら、わしゃずいぶん前からおまんに捕まっちょうたつもりぜよ」
思わず顎を引いた。本当にどこまで見透かされているのだろう。
陸奥が有能な右腕であろうと馬鹿な女であろうと坂本には関係ないようだった。というか区別すらしていない。陸奥の葛藤も何もぶん投げて、この男はただ陸奥というひとつの存在に執着しているだけだ。
「おまんとの関係を急ぐつもりはなかった。けんどこうなっちゃあ逃がすわけにもいかんでのう」
「好き勝手やりよって」
「うん? 好き勝手ともまた違うきに」
右腕から女になることも、有能から馬鹿に成り下がることも陸奥には堪えがたかった。けれど彼は盛大に笑い飛ばしてそんなものはどうでもいいと言う。何でもいいからとにかく傍にいろと。
本当にこの男は無神経で無茶苦茶で、おまけに馬鹿で子供のように欲張りで。
「わしじゃちおまんを抱きとうてたまらんかった」
誰だこんな男に惚れたのは。
酒の勢いを借りた挙げ句のその台詞ではろくな説得力もないというのに、不思議なほど陸奥を逃がさない。その声も熱い指先も実は深い双眸も、何よりそんな嬉しげな顔をされては。
自分と相手とふたつの本音に捕らえられて振りほどけもせず、陸奥はもういい勝手にしろといつも通りの捨て台詞を投げ付けた。
(2012/08/14)