滔々と茶番劇
 何かあったんすか、と山田が問う。  聖子はいったんそれを無視した。 「……え? シカト? いい大人が?」 「うるさいな、あんたこそいい大人なんだからなんでもかんでも首突っ込んでこないでよ」 「いや俺だって首なんか突っ込みたくないですよ、あんたらその首取ってニーブラとかやるタイプだし」 「人のことなんだと思ってるのさ」  理不尽に後輩いたぶる鬼、などと嘯いて山田が車のシートに深く凭れる。聖子は公園のむこうに見えるミニバンを視界に留めながら、何かってなに、と一応聞き返した。張り込みに動きがないまますでに二時間が経過している。自分も山田も退屈な上に眠たくて、彼の干渉を許したというより眠気覚ましに雑談を選んだ形である。 「あんたと毛玉が。なんかいつもと違うっていうか噛み合わないっていうか」 「あいつと噛み合ったことなんて過去一度もないよ」 「残念なことに意外とちゃんと噛み合ってるので俺のストレスも減らないんです。毛玉とか最近合コンも全然みたいで変だし」  山田の減らず口に聖子は思いきり顔を顰めていた。噛み合うも何も、とうっかりこぼれかけた言葉はおそらく弱音に近い。ぎゅっと口を引き結んで聖子は山田の頭を張る。  甘んじて殴られた山田が、それで、と聖子を促した。 「何があったんすか、源部長と」 「付き合って別れた」 「は?」  山田はきれいにフリーズした。  ミニバンに動きはない。長引きそうだな、と聖子は凍りつく後輩を横目にあくびを噛み殺した。でかいモニュメントと化した山田は目も口も開いたままで、見たところおそらく呼吸を忘れている。 「息したほうがいいよ」 「え、何、は? ――ハア!?」 「うるさいな! 公務中!」 「いや公務中になんつーもん放り込んでくれてんの!? うわむり俺ちょっとそこの公園で叫んできていいっすか」 「駄目に決まってんでしょ」  ばかなの、と聖子は本気で飛び出しかねない山田の袖を掴んで引き戻した。弩級の感情を持て余したらしい彼はわなわなと手の平を広げて、そのままそこに顔を埋めてしまう。 「……別れたって何?」  なにやら面倒な空間が出来上がった。  一応傍目にはカップルの修羅場に見えなくもない、と聖子はひとまず放置を決めた。だれが見たって警察官がふたりこじらせた大人の恋話を繰り広げているとは思うまい。こちらが泣かせている絵面なのがきわめて不本意だが。 「いや何って。そのままだけど」 「てか付き合ってたとかまじで意味わかんねえ……俺なにも聞いてないんですけど……」 「言ってないもん」 「別れたって何」 「うちら会話できてる?」  成立しているようでしていない気がする。  山田がようやく顔を上げて、なんで、と質問を変えた。別れたってなんで。彼の声がにわかに色を変えて、少し、神妙さを帯びた。珍しかった。 「なんでって……あいつ、私に欲情しないんだって」 「あのすいませんオブラート落っこちてます」  山田は露骨に引いている。 「あんたが聞いてきたんじゃん、大体どう言い繕ったって同じでしょ」 「……え? まさか振ったの毛玉?」 「あいつに振られたとか人生最大級の汚点だよ」 「ま」  じで意味わかんねえ、と山田はふたたび撃沈した。  山田が気づくくらいなのだから横井も何かしら察しているに違いない。あえて源とのペアにされなかったのは有り難いが、だとしたら思いきり仕事に支障をきたしている。隣の不憫な後輩も支障をきたしている。ままならないものだ、と聖子は他人事のように息をついて、動きのないミニバンを睥睨する。 ***  帰りにコンビニに寄ろうとすると、そのコンビニからビニール袋をぶら下げた山田と源が出現した。 「うわ、なに仲良くコンビニとか寄ってるわけ? 無理……」 「勘弁してくださいよ、仲良くとか言われると虚しすぎて泣ける」 「いや泣きたいの俺なんだけど」  ひどくね、と源が文句を垂れる。そういえば件の話が山田にまで届いたことは共有されているのだろうか。山田の様子を見る限りされていない気もするが。 「この程度で泣くとかもっと無理」 「聖子ちゃんキツくね? もっと優しくしてよ、俺失恋したてで傷つきやすいんだから」  いっぽうの男は出会って五秒で地雷を踏み抜いてくる。  さしもの山田もぎょっとしていた。言ったの、と目で問うと山田は無言でぶんぶん首を振っている。やはり彼らの間でそれらしい話はないようで、だとすればこの男は純粋なる悪意で地雷を踏んだこととなる。最悪である。 「失恋なんてしょっちゅうじゃん。なに今さら甘えたこと言ってんのさ」 「ひでえ。俺だって堪える失恋くらいあるよ、特に今回かなりまじだったし」  どさくさに紛れてろくでもないことまでのたまった源は、当てつけのような台詞も含めてひとり飄々としている。まともに突っ込める人間は誰一人としていない。山田はもはや遠い目をしているし、そして聖子は苛立っている。 「は? てかどの立場で失恋とか言ってるわけ? 誰の話してんの?」 「長いこと大人げなくやり合ってたゴリラとようやく付き合ったのに振られた話」 「振ったのあんたじゃん!」  ここで山田が突如万歳をした。  虚をつかれた聖子と源は揃って山田を見る。タイム的な合図かと思ったが違った。 「降参っす」  彼の表情は無に近い。かろうじて辟易と諦観の名残が見えたが現状ほぼ更地である。 「俺ちょっと偶然たまたま急遽実家に帰らないといけないの思い出したんでふたりでさっさと宿舎帰ってください。万が一にもこんなくだらねえ修羅場だれかに見られたらあまりにも俺が可哀想」 「おまえいつだって可哀想じゃん」 「てかくだらないって何さ」 「いやほんとあんたらのせいで俺ずっと可哀想なんすわ。事情知らないし知りたくもないですけど、なんかベタな感じで行き違ってんのは俺の頭でもわかります」  山田は手にしていたビニール袋を聖子に押し付けた。思わず受け取ってしまった聖子を横目に、場合によってはそのまま家出するんで、と彼はペア長に釘を刺している。  数秒の沈黙があった。 「……帰ろ、聖子ちゃん」 「は? ちょっと何、勝手に話進めないでよ」  源が聖子の手を取る。山田の言葉に彼はなにも言わず、そんな源に山田もなにも言わず、彼らの会話が終わっていたことなどわかりようもなく聖子は油断していた。咄嗟に手を引こうとしたが彼は離してくれない。手くらい繋いだじゃん、という余計な一言はどう考えても皮肉だったので無視をした。  縋るように山田を見る。山田は黙って肩を竦めるという小生意気な仕草で返してきた。そうこうしているうちにくんと手を引かれて、思いのほかしっかり握られた力に面食らって、聖子はしぶしぶ源のあとをついていく。 ***  互いに無言のまま宿舎に到着した。  彼はなにも言わず、聖子もなにも言わず、ただ取られた手だけはそのままに階段を上る。誰かに見られたら、と聖子は思っていたしおそらく彼も思っているけれど、どちらも口にはしなかった。がさがさとビニール袋の音だけが耳につく。  彼らの部屋の前に着くと聖子はいよいよどうすればいいのかわからなくなった。なにを言うべきか。繋がれた手をどうすべきか。唯一明確なことは受け取ったビニール袋を源に渡すというところで、聖子はん、とめいっぱいの無愛想でビニール袋を突き出した。 「なに? カンタくん?」 「う、るさいな……てか山田はなんだったの」 「え、わかんない?」  まじか、いやあさすが聖子ちゃん、とビニール袋を受け取った源は半笑いである。いちいち含みを持たせる言い方が気に入らず、聖子は繋がれたままの手を引き戻そうとした。 「わかるわけないじゃん! あんたも山田もなんなの、人のこと馬鹿にして」 「してないって。山田に至っては気遣っただけっしょ、降参はまじだろうけど。てか聖子ちゃん」 「わかんないよ、あんたっていつもそう。自分だけわかってるみたいな顔して肝心なことなんにも話してくれない、なんでもかんでも一人で考えて一人で決めて」 「俺はただ」 「ていうか! 離して!」 「聖子ちゃん!」  彼らしからぬ荒い声が響き渡る。聖子が口を噤むとしんと沈黙が横たわって、体温のない反響がなんだかいっそうわびしい。廊下に人の気配のないことがせめてもの救いだ。どのみち彼との諍いなんて宿舎でも署でも珍しいものではないけれど。 「……とりあえず上がったら、こんなとこで喧嘩してたら警察呼ばれちゃう」 「その冗談最悪」 「俺もそう思う」  鍵を開ける間も源は手を離してくれない。手を引かれて部屋に上がり、リビングまできたところでようやく解放された。  飲む、と源がビニール袋の中の缶ビールを示した。ぬるそうだからいい、と首を振ると、源はだよねと応じて踵を返す。やがてビニール袋の中身を冷蔵庫に移しているらしい音が聞こえてきた。 「座ってていいよ、別に取って食いやしないから」  源は笑っている。笑って言える神経がわからない。聖子は源の言葉をまるごと無視して彼のあとを追った。がさがさとわざと乱雑な音を立てている卑怯な男は、聖子の足音に気づいているくせに振り向きもしない。 「そんなの知ってる」 「へえ? 知ってんだ?」 「だってあんた私に欲情しないんでしょ」  ばたんと冷蔵庫の閉じる音がした。  源が振り返る。どんな顔をしているのか見逃すまいと目を凝らしていたのに、彼の顔からはひとつもただしい感情が読み取れなかった。笑ってはいる。いつも通りに。いつも通りすぎて。 「だから俺のこと振ったの?」 「は? 被害者面しないでよ、振ったのあんたのほうじゃん」 「それさっきも言ってたけどなに? 俺が聖子ちゃんを? だれがそんな馬鹿な真似すんの?」 「知らない! だって私相手じゃできないって」  言った、と聖子は詰るように源を見上げた。  彼は逃げもせずにまっすぐ聖子を見つめている。見たこともない眼差しをしていた。なにかを見定めるようで、そのくせ縋るよう。彼の感情がわからなくて、わからないことが悔しくて、聖子はぎゅうと唇を引き結ぶ。  やにわに源が手を伸ばした。  聖子は咄嗟に一歩後ずさっていた。感情のわからぬ彼がこわい。この上さらに拒絶の言葉など出てきたらと、得体の知れぬ心細さが逃げろと体に訴える。 「そっか、わかった」 「は」  なにをわかったというのだろう。  聖子はなにひとつわからない。  源がぐいと腕を引き寄せた。その力は記憶していたものよりもずっと強い。おののく聖子をけれど源はまるで意に介さず、力任せに聖子を抱き寄せると抗う暇さえ与えずに唇をふさいだ。 「ん、ちょっ……と、なにす……!」 「できないとか言うから」 「ふ、ふざけ、んぅ……っ」  聖子の頭を抱え込んで彼は容赦なく吐息を奪いとる。まって、と訴える声すらあえなく飲み込まれて消えた。幾度も押し付けられる唇も、髪に触れる指先も、余裕ぶった上っ面を裏切ってどこかもどかしげで、その情動を理解できぬ自分が聖子は聖子でもどかしい。  気づくと重心をなくして彼の腕に縋りついている。  源はくすぐるように上唇を食んで、ようやく顔を離した。 「……強制わいせつ罪」 「お巡りさん待って、俺の話聞いて」 「なんなのあんた、ほんとずっと意味わかんない」  ごめん、と彼が言うので聖子は口を閉ざす。謝られたって困る。ごめんと言うくせに彼は聖子を抱きしめたままで、今さら抗うのも馬鹿らしくて、聖子もおとなしく彼の腕に収まっていた。 「嘘つきました」 「は? 嘘? 何の?」 「聖子ちゃんに、したくならないのかって聞かれて、そんなふうに思えないかもって」 「かもなんて言ってない、言い切ってた」 「いや……もう……めちゃくちゃ嘘……」  たしかにその時の彼の様子と言葉は一致しなかったようにも思う。けれど不自然がるほどの余裕も察しの良さも聖子は残念ながら持ち合わせていなかった。  調子付いているわりにいっかな手を出す様子がないので、したくならないのかと単刀直入に聞いたらなれないと言われたのだ。彼がわざと軽く言ったようだったのでそういうことだと思った。ほんとうのことだと思った。  ああそうそれじゃまあ終わりってことで、と。  取るに足らぬことのように話をまとめて、引き止めることも引き止められることもしなかった聖子もある意味では嘘をついたと言える。けして口にはしないが。 「欲求だだ漏れだと聖子ちゃん絶対引くと思って。そういうのが目的で付き合ったんじゃないし、そう思わせんのも絶対やだし、ストイックぶってる自分に酔ったりもして」 「いや今さら……ストイックとか正反対なのとっくに知ってるし」 「違うんだって、今までは彼女作るのが目的だったからどうでもよかったけど、聖子ちゃんと付き合うのは聖子ちゃんと付き合いたいからで、……えっ何これ伝わる?」 「まあ、なんとなく、は」 「ようするにしなくても俺充分です的な感じにしたくて」  うそつきました、と源はぐずぐず言い訳を連ねている。彼の理屈を咀嚼しながらも聖子はいささかぼんやりしていて、それでなんでこうなったんだっけ、と自分でわけがわからなくなってくる。  彼も同様らしい。 「嘘っていうかはぐらかしたつもりだったんだよ、まさかそれが振ったことになるとか思わねえし」 「だ、って、考えてもみなよ、今までさんざん無理だのゴリラだの言われてきて、いざ付き合ったらそんな風に思えないとか、そういう対象として見れませんでしたって言ってるようなものじゃん」 「飛躍しすぎじゃね?」 「してない」  聖子は奥歯を噛みしめる。 「してない……」  今だって自分への不安が拭えずにいる。  女としての自分と、そんな自分にがっかりされることが、いつの時からかなんとなくいっしょくたになったままで。 「……ごめん聖子ちゃん、わかってる、ほんとにごめん」 「許さん」 「まじで許して、お願い、焼肉でもなんでも奢るから」  なら焼肉、と言うと許すんかい、と源が呆れた。ここまできて許す以外になにができると言うのだ。彼の背中にのろのろと手を回すと、それに応じるように彼の腕が強まった。 「……なんか、思った以上にあんたのこと好きな感じでめちゃくちゃ癪なんだけど」 「癪って」  抱き締める力に容赦がない。苦しい、加減しろ、と背を叩いたが彼は答えず、かわりに長めの溜息が聞こえた。 「聖子ちゃん」  ようやく体を離した源が聖子の手を取る。改まって告白などしようものなら容赦なく引っぱたこうと思っていたが、彼の口からこぼれ落ちたのはもうむりというそれであった。無理とは。その声があまりに普段通りだったのでうっかり聞き流すところだった。 「むりとは」 「さっきのちゅうで限界、もうむりベッド行こう聖子ちゃん、めっちゃキスしたいし触りたいし甘やかしたい」 「甘……」 「いちゃいちゃするだけでもいいから」 「え、しないの?」 「え?」  ざわりと。  源の双眸に見たことのない獰猛さがにじむ。  やば、と聖子は掴まれた手を引き戻そうとした。なんだか今日はずっとこんなことをやっている。 「今のなし、なんか目やばいからなし」 「俺の目なんて大概こんなもんだよ」 「いやあんたのやばい目ってまじでやばいんだって」 「だって俺むりって言ったじゃん。何とどめ刺してくれてんの? 俺をどうしたいの?」  どうするつもりもないが。  いやでもさっきの今で、宿舎で、と言い逃れを試みる聖子をはいはいもう無駄とあしらって、源は聖子の手を離さない。逆にほんとうに嫌かと改まって聞いてくるので、聖子はいよいよ窮した。 「……あんた、私を抱けるの」 「うん」 「ゴリラなのに?」 「ゴリラでもゴリラじゃなくても聖子ちゃんなら別に」 「そんな馬鹿いない」 「いるんだよ、残念なことに」  たしかに残念な頭をしている。自分も大概だが。  この期に及んでまだ迷って、それでもやはり離したくなくて、聖子はこわごわ彼の手を握り返した。たったそれだけのことで源は笑うのだ。  あと一言、うすら寒い台詞を口にしてしまえば万事丸く収まることはわかっている。わかっているがやっぱりうすら寒くて、まごつく聖子のかわりに、源がなんのてらいもなくその言葉を形にした。
(2023/08/13)

back