グッドエンドの賽の目
取り調べを終えた脳味噌が欲したのはニコチンよりもカフェインで、ついでに糖分も摂っておこうと雑な判断のもと自販機へ向かうと先客がいた。
缶コーヒーを片手に聖子がベンチでスマートフォンを触っている。源に気づいた彼女があ、という顔をするので源は大仰に肩をすくめた。
「ヘイ相棒、良いニュースと悪いニュースがあるんだがどっちから聞きたい?」
「ハイ、ポチ。せっかくだから良いニュースから聞こうかしら、ちなみに私のはもっと悪いニュース」
乗りの良さを見るに彼女も大概疲れている。ほぼ無に近い表情を横目に、源は自販機の前でエナジードリンクと微糖コーヒーの間で揺れていた。あとが続かないので微糖コーヒー。まだ冷静だ。パネルにスマートフォンをかざすと軽快な決済音がして、がこんと缶コーヒーが落ちてくる。
「まず被疑者がようやく口割って凶器の場所も見当ついたってのが良いニュース、ただしその凶器は山の中でしかも地面の下だってさ。なんで埋めちゃったの? 馬鹿なの? ちなみにもっと悪いニュースって何」
「今日このあと雨」
「クソかよ!」
勢い余ってFワードを叫ぶところだった。幸い彼女がひんやりと底冷えした一瞥をくれたため署内に下品なスラングが響き渡ることはなかったが、クソかよの声量に聖子がこれみよがしに片耳を塞ぐ。
「うるっさ。てか天気予報とか見ないわけ?」
「見たよ。今朝。寒暖差の少ない過ごしやすいお天気」
「過ごしやすいお天気昨日だし。徹夜したからって昨日ごと今日でカウントしないでよ」
曜日感覚狂いそう、と彼女が難癖をつける。そんなものはとうに狂っている。コーヒーを手に取りながら、一日得した気になるよ、と屁理屈を捏ねて源は聖子のとなりに腰掛けた。
スマートフォンを取り出す。
「てか聖子ちゃん戻ってくんの早かったね、通報あれ喧嘩? 俺が取り調べ入る直前の」
「そう、刃物持ってるなんて言うから飛んでったら若手芸人がコントの練習してるだけだった」
「なにそのコント」
聖子とのトーク画面を開く。今日川合いないでしょ、と送って、源は缶コーヒーのタブを引いた。すぐさま既読がついたが彼女は顔色ひとつ変えない。
「コンビ名とか聞いた? 売れたら今日のこと話すかもよ」
「売れなそうだったから聞かないでおいた」
「それは慈悲なの? 無慈悲なの?」
なんで知ってんの、とトーク画面に新しいメッセージが現れる。気持ち悪い、と。コーヒーを飲みながら如月との会話で察した旨を返すと、もう一度気持ち悪いと返ってきた。
「横井係長もぐったりとげんなりを足して掛けたみたいな顔してたからさっさと切り上げたくて」
「掛けちゃったかあ……てか聖子ちゃんは?」
「なにが」
「こんなとこでサボってるから人並みに疲れてんのかなって」
山田当直、と送る。今日そっち行っていい、と本題。
聖子がコーヒーを煽って、考えるように指先をスマートフォンから浮かせた。
「疲れてんなら別にいいよ」
なんでもないような調子でトーク画面の会話を持ち出す。聖子はなにやら悔しげな顔をして、べつに、とそれをあしらった。
「サボってないし。あんたらこそ一服とかいって当たり前みたくサボるじゃん」
「耳がいてえ」
帰れるならね、ともっとも痛いところをつく返信がきた。そのまま沈黙。別にその一言だけでも充分ではあるが。
くっとコーヒーを飲みきった彼女が、お先、とスマートフォンの画面を切って立ち上がる。
「あれ、もう戻んの?」
「あんたもさっさと仕事片付けなよ」
彼女は振り向きもせずに去っていく。今の台詞は深読みしていいやつだろうか、とコーヒーを煽りつつ、改めてスマートフォンを見るとメッセージがもうひとつきていた。私も聞こうと思ってた、などと。コーヒーなどよりもずっと脳味噌に効果は覿面で、じんと痺れるような感覚に源はむしろ頭を抑える。
***
予報通りに夕方から雨が降り出した。
件の凶器は雨が降りだす少し前に見つかり、もろもろの手続きはあとでいい全員一旦帰れという横井のすべてを投げ出したような指示のもと、各々優先すべき書類を最低限片付けて帰宅へと舵を切っていた。この優先すべき、と最低限、の呪縛のせいで何だかんだで九時は過ぎている。
雨脚は強くないが雨ざらしで帰るには躊躇う雨量ではある。
山田あたりが傘を持っていないだろうか。廊下の窓から雨の様子をうかがいながら、源はスマートフォンをポケットから引っ張り出した。
「お疲れ、帰んないの」
背後から声を掛けられ、首をめぐらせると帰り支度を済ませた聖子が物言いたげに源を見ていた。またサボりか、とその目が言っている。
「聖子ちゃんもう帰んの?」
「まあね。うちらが長居すると横井係長も帰りづらいだろうし」
何してんのと聖子が寄ってくる。雨止むかなと思って、と答えながら源は送りかけていたメッセージを送信した。
「傘持ってねえし止むようなら仕事して時間潰そうかなと」
「時間潰しに仕事とか頭おかしくなりそう」
「もうとっくになってるよ」
聖子が窓に背を預けるようにしてとなりに並ぶ。雨雲レーダーとか見なよ、とスマートフォンを出しながら呆れるので、アプリ入れてなくて、と言い訳をする。
「ほら、今日止まないって。こうなるんだから入れなよ」
「聖子ちゃん、スマホには容量という限界があってね」
「絶対ゲームのせいだからそれ以上のごたくはいい」
彼女はにべもない。
天気アプリを閉じたらしく、メシどうする、という一分前のメッセージに既読がついた。食べいく元気ある、と続けざまに送るとないと秒で返ってくる。ないよな、と同調する源もそんな気力はない。
「スマホよりあんたの頭のほうが容量小さいんだからそっち労りなよ」
「ほんと外付けほしいよね」
「なに怖い話してんの?」
コンビニ寄って帰る、と投げやりな返信がくる。疲労と寝不足のおかげで空腹の具合が自分でもよくわからないという惨状なので、たしかに決まったものより見て選んだほうが合理的であろう。俺もそうする、と源は返信する。
「てかなんで傘ないわけ」
「徹夜見越して翌日の天気予報とか見たくないからじゃね」
「じゃなくて。折り畳みくらい持ち歩きなよ、仮にも社会人なんだから」
「ブッ壊れた傘を買い換える時間があるなら俺はもっと健全に生きられたと思う。仮にもって何?」
健全はない、と言い切った彼女が少しうつむいて、何かと思った矢先にメッセージがきた。傘入ってく、と無愛想な文面で問う。こうなると直前のうつむいた仕草まで殺人的に可愛く見えてしまうのだからずるい。
「てことは聖子ちゃん折り畳み傘の人? 持ち歩いてんの? 聖子ちゃんが?」
「いやロッカーに置きっぱ」
「どういう角度から持ち歩けって言ってきたの今」
ふたりだと狭くね、と返す。大丈夫ありがとう、と続けて送ると、聖子が不満げな視線を源に寄越した。彼女まで濡れるくらいならという源の独善を咎める眼差しである。
「まじ大丈夫」
根拠はないが。
「山田の置き傘まだ残ってっかな」
「前に借りてた敷根がふつうに濡れてたけど」
「良いニュースなのか悪いニュースなのか」
聖子が寄りかかっていた窓から身を起こして、ひどくなる前に帰りなよ、と釘を差す。同時に届いたメッセージはほとんど同じ内容であったが、早く帰りなよ、というそれは本日このあとの予定を知る源には到底同じ意味とは思えない。
すぐかえる、と余裕のない返信をした。
彼女はすでにスマートフォンをポケットに突っ込んでおり、不憫な五文字は未読のまま。
まあいいやと源もスマートフォンの画面を消して片手を広げる。
「そんじゃお疲れ、気をつけてね」
「お疲れ。あんたもね」
彼女の背を見送るなり源は踵を返して山田を探した。当直室で半分寝ていた山田が撃たれたようなビニ傘ならと物騒な置き傘の存在を示すので、借りるわと言い置いて刑事課に取って返す。帰り支度をしている間にメッセージが届いていた。
コンビニに立ち寄った聖子からである。
なにかいるものある、と。
それだけで充分ですとデスクに撃沈して、いやもうさっさと帰れ怖い、と横井に心配された。
***
傘で銃弾でも防いだのかというような傘布で結局濡れた。
宿舎に着いた足でそのまま彼女たちの部屋をたずねる。ドアを開けた聖子はしっとりと湿った源を見るなり、だから言ったじゃん、という顔をした。
「何がどう大丈夫だったわけ?」
フローリングを濡らすほどではない。一応風邪とかひくんだからしっかりしなよ、と小言を垂れながら彼女は源をリビングに促して、洗面所に引っ込んだかと思うとタオルを持って現れた。
袖で拭っていたスマートフォンをテーブルに置く。
はい気をつけ、と言われて反射的に背筋を伸ばすと聖子が笑っていた。その表情がなんだかちかちかして見えて、くたびれた脳との落差で現実味がないようで、タオルを被せてきた彼女をたまらず引き寄せた。
「ちょっ、冷た! 何!」
「あー。現実だわ」
勢い余って足を踏まれたが源はもはや意に介していない。もがく彼女を抱き込んで細い肩に顔を押し付けて、思い切り息を吸うと何吸ってんのと引かれた。
そのまま息を吐き出す。
思いのほか長い溜息になった。
「……なに」
「摂取」
「先に髪拭きなよ」
「拭いてよ」
そうこうしているうちにタオルが足元に落下する。
息をついた聖子が源の頭に触れた。絞ったほうが早そう、などと物騒なことを言うので、ハゲるからやめてと歯切れの悪い返事をして華奢な体を抱きしめる。腕に収めてしまうとその体はおそろしく非力でやわらかい。
軽口も減らず口もいくらでも思いついたが気力が追いつかなくてやめた。どうせ彼女の前なのだ、今さらいいかと開き直って源は口を閉じる。彼女はなにも言わない。どうかしたのかとも急に黙るなとも、苦しいから離せとも。
どうやら源の状態については彼女のほうが把握しているらしかった。預けきるのはまだあまり慣れていないけれど。
「……なんか俺思ったより疲れてるっぽい」
「知ってる」
指先に絡めて遊んでいた癖毛をくんと引っ張って、聖子は呆れたように笑った。
「おつかれ」
うっかり全身の力が抜けかけた。
体重をかけられた聖子が慌てて源の胸元を押し返して、重い、とうめく。源はなんだかもうやぶれかぶれである。
「ほんともう! 聖子ちゃんも! おつかれ!」
「うるさ、急になん」
なの、という言葉ごと奪って口付ける。まじで何なのという顔をされたが無視して頭を押さえ込んだ。
押しつけた唇を食んで口を開けさせ、舌を潜り込ませてそのまま唾液のまじるキスをする。おののく聖子が顎を引かせたが容赦なく深く追った。んく、と彼女が苦しげに喉を鳴らすので一瞬後ろめたくなって、けれどその一瞬あとには後ろめたさごと興奮している。もうだめだ。
薄く開かれた彼女の双眸とかち合う。
そのときになってようやく、源は自分が目を閉じることさえ忘れていることに気づいた。
「聖子ちゃんのえっち」
「見ないでよ変態」
憎まれ口が重なる。
互いに余裕ぶったはずが声も掠れて無惨なものだった。
居直った聖子が源の首を引き寄せた。
なまぬるい粘膜が口腔でもつれ合う。じかに触れる吐息。にじむ彼女の声。脳髄が焼け落ちるかと思った。
「ちょ、待って聖子ちゃん、笑えてきた、待って」
「なにさ、先にがっついてきたのあんたのほうじゃん」
「だって乗ってくるとは思わなくて。てか聖子ちゃん今日ノリよくね? なんか優しいし」
テーブルに置かれたスマートフォンを目で示す。
上気した頬も濡れた瞳も、目下のやり取りとはあまりにも不釣り合いで源は余計に笑えてきた。彼女はそのアンバランスな表情をさらに不満そうにして、べつに、とつぶやく。
「結局今日誘ってきたのあんただったし、傘断るし、コンビニも何もいらないとか言うし」
「え? うそでしょ、甘やかそうとしてくれてたの?」
「みなまで言わないでよ」
「甘やかそうとしてくれてたの!?」
「言うなっつってんでしょ!」
馬鹿なの、と肩をどつく彼女を大げさに抱きしめ直した。衣服越しに伝わる体温はすでにどうしようもなく熱い。情緒がないだのデリカシーがないだのこれだからもじゃもじゃはだの、聖子はぶつぶつ文句を言っていたが源はあまり聞いていなかった。
「もっとわかりやすく甘やかしてよ」
「あんたすぐ付け上がるじゃん。やだ」
「冷てえ」
コンビニのやり取りのあと、傘入手というメッセージに対する聖子からの返信を源は宿舎に着いたところで見た。すぐかえれ、と不憫な五文字を揶揄する五文字である。呆れられるか引かれるかのどちらかなのでわざわざ言うつもりはないが、階段をひとつ飛ばしで駆け上がる男はおそらくとうに付け上がりきっている。
すぐ帰った、と軽口を叩く。脈絡を汲んだ彼女が息をつくように笑って、しゃらくさいと源の足を蹴った。
(2023/05/11)