過分に不足に拐帯
 事の発端はいつもと変わらぬ些細で短絡的で幼稚な諍いであった。  無線が入るたびくるなくるなと全署員が唱えるためもしかすると押すなよ絶対に押すなよ的な振りと勘違いしているのかもしれない、と思うほど町山指名の通報が重なるので源はそもそも苛立っていた。最初こそ取るに足らぬ雑談のつもりで聖子に絡んだが、聖子は聖子でもちろん不機嫌で、本来彼女の不機嫌に慣れている源自身も不機嫌なのだから当然事故は起こる。不機嫌と不機嫌の接触事故である。徐々に勢いを増した言い合いの果てに彼女が言い放ったのがもういい彼氏つくる、という一言であった。 「あんたなんか知らん、さっさと彼氏つくってあんたより先に幸せになってやる」  寿退社してやる、と聖子がまくし立てる。売り言葉に買い言葉にさらにお釣りという状況なので源はすでに最初の売り言葉が記憶にない。 「はあ!? 聖子ちゃんのうそつき! あの日夕暮れに誓った約束はなんだったのさ!」 「誓ってないし! あんたが勝手に太陽にほえてただけだし!」 「退官式は!?」 「松島と出たら」 「松島かわいそうじゃん!」  おいだれかあの小学生の喧嘩とめろ、恥ずかしい、と横井が虚無の表情で訴えたことは覚えている。ぜってえ嫌です、と山田が虚無の表情で応じたことも。  私だってかわいそうだと聖子がなおも言い募る。自らその主張はたしかにかわいそうかもしれない、という言葉は火に油どころかニトロをぶち込む暴挙と見て間違いない、源はどうにかそれを飲み込んだ。 「ていうかあんたへの当てつけなんかで作る彼氏とか絶対ろくでもない」 「それ自分で言っててかなしくなんないの」 「だめだ私かわいそうすぎる……!」 「じゃあ俺でいいじゃん!」  このとき。  時間はたしかに止まったと源は記憶している。 ***  横井が鋭く山田の名を呼び、ハイと食い気味に呼応した山田が失礼しますと前置きするなり源の頭を張った。不憫なペアっ子は瞳孔が開いたまま聖子にいいわけないじゃんと絶叫し、ここでようやく我に返った聖子が、いいわけないじゃん、と源に向かって叫び返す。そこにさらに無線が重なり刑事部屋は混沌を極めた。  思えばあの無線は天からの慈悲だったのかもしれない。それならいっそ隕石でも落としてくれたほうがよかった。  疲労による不機嫌とハイと山田と無線のおかげで結果何事もなく流れたが、明日からもしかして気まずいのでは、と宿舎部屋でひとり冷静になった源は落ち着かない。 「源ー」  山田は当直である。内なる反省会を開催しがちな深夜近くに一人というのはかなり酷で、特に上記のようなぐちゃぐちゃなイベントを経た身には堪える。しかも聖子に呼ばれている気がする。気まずいと予感している真っ只中に。  ――よばれている気がする? 「ちょっと、源いないの?」  源は慌てて立ち上がった。  いるいる待って、と答えながら玄関へ向かう。向かいながら考える。職場であんなやりとりがあって深夜に部屋を訪れる彼女の神経は一体。聞く限り声の調子はいつも通りだ。  ドアを開けるといるんじゃん、と聖子が文句を垂れていた。 「え」 「え、なに」 「え?」  ほうける源に、彼女は上着のポケットに両手を突っ込んだまま首をかしげる。入れてくれないの、と言わんばかりの顔である。源ははっとしてドアを支えながら身を引かせた。 「あれ、川合も泊まり?」 「そう。暇でしょって送ったんだけどスマホ見てない?」 「あー……と、ゲームしてて気づかなかった」  当然のように部屋に上がった聖子が当然のようにリビングに向かうので、暇でしょって、とその後ろを歩きながら一応文句を言う。戻りしなに冷蔵庫から彼女の分の缶ビールを調達し、彼女の相手をすることに一切抵抗がない自分に気づいて辟易した。 「ゲームしてたんでしょ、暇じゃん」 「いやまあ暇だけどさ。多少、こう……人間的な機微というか……」 「さっきからなんなの? いつにも増して煮え切らなくて気持ち悪いんだけど」  容赦ねえな、と缶ビールをテーブルに置く。聖子が座ろうとする前にリビングの隅に積まれたフロアクッションを一枚敷いて、源はようやく自身がもといた場所に座り直した。 「てか仕事のあとにゲームとか目疲れないわけ」 「疲れるよ、眼球しんでるよ」 「さっさと寝なよ」 「まんま返すわ」  斜向かいの彼女と一応缶を合わせてぬるくなったビールを煽る。ちらと盗み見ると無防備な白い喉が目について、疲労も相まってまずそうだな、と源はひそかに自戒していた。 「聖子ちゃんこそこんな時間に上がり込んでる場合じゃなくね、彼氏つくんじゃないの」 「は? あんたあれ真に受けてたの? あんなの売り言葉に買い言葉のお釣りみたいなもんじゃん」 「えっあ、そういう温度感、てかあの時ごめん、俺めっちゃ苛ついてて」  しってる、と聖子が笑う。許さないけど、と軽やかに告げる彼女の表情はやはりいつも通りのそれで、源だけが一方的にあの発言を気にしていたらしいと思い知らされる。深夜のささやかな反省会の時間を返してほしい。 「べつに許さないけど、でもあんたが薄ら寒い笑顔貼り付けてるよりはまし」 「薄ら寒い」 「そう。私あんたのあの笑い方大嫌い」  源は口を曲げる。ひどくね、と訴えるが撤回するつもりのないらしい彼女は黙ったままだった。  限界近いあんたまじで怖いっすよ、と何度か山田にも言われたことがある。ひやひやする、と。彼のそれは大体限界を乗り越えたときに振り返る形での忠告だが、思えば聖子はいつだって限界のさなかにわざわざ口を挟んでくれる。ちょっと待ちなよ、とか、そのやり方どうなの、とか、あるいは無言のデコピンとか。 「……あのさあ、聖子ちゃん」  そうして源は息が楽になる。呼吸を思い出す。狭まった世界が少し開けて、頭のてっぺんから肩に背中にずっしりのしかかる重力がすこしだけ、軽くなる。 「俺でいいじゃん」 「何?」 「俺にしたら」  売り言葉に買い言葉のお釣りで計算の合わなくなったような台詞だったが、思えばあれは長らくくすぶっていた本音なのかもしれない。源自身気づかぬところで深く深く根付いていた小さな矛盾。  聖子はおおきな瞳を瞬かせて、なんの話、とにわかに目元を強張らせる。触れたらまずいところに触れたと彼女も気づいている顔だった。 「なに……笑えない、そんなこと言うなら帰る」 「いやそれが俺も想定外……だって聖子ちゃんだよ? 俺だよ? こんな台詞口にするなんて隕石降ってもないと思ってたよ」 「あんた決めにきてんのか喧嘩売ってんのかどっちなの? どういう情緒?」 「人類なんておおむね情緒不安定だよ」 「そうかもだけど」  正直源も自分の情緒が理解できない。彼女といつも通り仕様のない口喧嘩をして、いつも通り夜更けに飲んで、貼り付けた笑顔が嫌いだと言ってくれた。ほんとうにそれだけだ。それだけなのに、それらすべてに意味を持つのが彼女だけだと気づいてしまった。 「聖子ちゃん」  聖子はふと目線を落とす。華奢な指先が所在なげに缶のラベルを撫でていて、それがなんだか無性に心細く思えて源は彼女の手を取った。 「ちょっ、離し」 「あ、だめだ、聖子ちゃん俺まじっぽい」 「いやあんた言ってることぐちゃぐちゃ」 「ぐちゃぐちゃだよ、わかってる、でも聖子ちゃん、なんでまだここにいんの?」  彼女は手を振り払わない。帰ると言うが帰らず近くにいる。ぐっと言葉に詰まった聖子はおそるおそる源を見上げて、その瞳が熱っぽく潤んでいるものだから堪らなかった。  握っていた手を絡め取り、くんと引き寄せて距離を詰める。テーブルが邪魔だ。息を呑む彼女の顔を間近から覗き込み、揺らめく視線をとらえた。  彼女の双眸に迷いが見える。  逃さぬようそろりと腰をおさえて、源はさらに顔を寄せた。 「源」 「いやなら突き飛ばして」  最悪捕まってもいいと思った。そうであっても今しかないと。  触れる理由もないが拒む理由だってない。眼下で小さく震える睫毛に、心もとない吐息に湿る唇に、いまだかつてないほど彼女をうつくしいと思った。  次の瞬間、強烈な衝撃とともに源は床に転がっている。 「……突き飛ばすんかーい」 「急に吹っ切れすぎだよ変態」  ばっちり決められた頭突きに頭部全体ががんがん言っている。彼女の頭はいったい何でできているのだろう。優秀な脳味噌を守るために人より頭蓋骨が頑丈なのかもしれない。  源は床に寝そべったまま、ごめん、と告げた。天井を眺める。たしかに大人げなく迫った自覚はあるが、吹っ切れすぎだという彼女の言葉には源と同様の感情が見える。  思えばそうだ。あの時たしかに時間が止まった。  何でもないのなら彼女が自ら源の頭を張ったはずなのだ。 「……源、あんたはっきり言うことあるんじゃないの」 「聖子ちゃんが好きっぽい」 「はっきりじゃないっぽい」 「聖子ちゃんが好きです」  むり、好き、と源は開き直った。だって無理だ。どうやらとっくに好きだ。 「俺より先じゃなくても聖子ちゃんが彼氏つくんの絶対いやだし、俺でいいじゃんってたぶんあれとっくに本音だし、それ言っちゃって聖子ちゃんとの関係変わっちゃうんじゃないかってちょっと期待したし、でもふつうにうちに上がり込むし、それはそれでなんか嬉しかったりするし」 「感情ぐちゃぐちゃじゃん」 「ぐちゃぐちゃだよ」  わけがわからなくて泣きそうですらある。  味気ない天井しか映らぬ視界にぬっと聖子の顔が現れた。目元がうっすら赤い。それなのに普段通りを装ってふてぶてしい顔をしているのだから、源だって一周回って変な顔になる。 「なにそのぎゅっとした顔」 「感情ぐちゃぐちゃの顔」 「もじゃもじゃだけじゃ飽き足らず」 「ぐちゃぐちゃともじゃもじゃ関係なくない?」  だめだ、と源は観念した。お互い不器用で素直になれず強情っぱりで、今ようやく大切な関係の芯に触れたというのに何でもないふりをして減らず口を叩いてしまう。問題なのは彼女のそういうところも好きで、自分のこういうところも存外嫌いではないということだ。  床につく彼女の手をたぐりよせて今いちど絡め取る。  ひくりと震えた指先は一瞬ためらって、けれどたしかに、源の無骨な手を握り返すのだ。 「……聖子ちゃん、俺でいい?」 「源がいい」 「オッケ」  はあ、と聖子が脱力するように息をついた。  じわりと笑みが滲む。彼女のほうを見ると目があって、気持ちわる、にやにやすんな、と怒られた。彼女も大概似たような顔をしている。  源を見下ろす彼女のこぼれた髪をすくう。案の定くすぐったがる聖子が顔を背けようとするので、源はそのまま小さな後ろ頭をおさえて引き寄せた。  触れる。  すり合わせた唇は全神経が集中しすぎてくすぐったかった。 「初めてのちゅうみたい」 「きも」  至近距離で笑う聖子の吐息がじかに触れる。彼女はやわく笑いながらふと眉尻を下げて、いまだに痛みの残る額をこわごわ撫でた。 「……おでこ、ごめん」 「え? いやべつに、聖子ちゃんの頭蓋骨が丈夫だって知れて安心した」 「しばらくそうやってねちねち言うんでしょ」 「言わねえよ。俺根に持つくらいならやり返すし」 「いいよ」  いいよって、と源が確認するより先に聖子がふたたび顔を寄せた。 「いやなら突き飛ばして」  言うなり口づけを交わす。今度はあまりかわいくないキスだった。  彼女がそう言うので源は心置きなく手を伸ばす。突き飛ばしてみるなんてじゃれ合いもありかもな、と思ってはいるが馬鹿正直な脳みそはとっくに命令をくだし、おそらくずっと焦がれていた痩躯を力いっぱいに引き寄せた。
(2023/04/26)
別名義分。ねぎという名前で書いてました。この期に及んでまだ散らかす。

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