モデラート
備え付けの充電ケーブルと相性が悪いようで、スマートフォンを見るとまったく充電できていなかった。
「うわ、しにそう」
「あんたが?」
「え……俺しぬの……?」
うつ伏せでベッドに沈む聖子はスマートフォンを眺めながらうつらうつらしている。シーツからはみ出た薄い肩がなんだか寒々しくて、いやスマホの充電が、と言いながら源は一応シーツを引き上げてやった。
「なんか充電できてなかったっぽくて。この多機種対応みたいなやつ相性悪いんだよね、ラブホ側はほんと配慮してほしい」
「なんでラブホ側に甘えきるスタンスなのさ。ふつうに自分のやつ使いなよ」
「でもやさしいラブホはちゃんとしたの置いといてくれるじゃん」
「やさしいラブホって何?」
聖子があくびをしながら充電器持ってないの、と問う。そもそも持ち歩く習慣がない。ないよ、と応じてケーブルの端子を差し直し、気持ち強く押し込んでからヘッドボードにスマートフォンを置いた。
枕に顎を沈めていたはずの彼女はいつの間にか顔を突っ伏して撃沈の様相を呈している。
「充電してる間にもっかいする? まだ時間あるし」
「しない」
「ええ……冷た……」
「しんどいんだって。あんたにいちいち付き合ってたら身が持たない」
「誰が体力馬鹿だよ」
「言ってないわ」
馬鹿だけど、と彼女の声が枕にくぐもる。伏せられた聖子のスマートフォンが一度震えたが、彼女は無視を決めたらしく頭を起こす気配はない。
「しょうがないじゃん、こんな仕事してりゃ嫌でも体力つくよ。つーか聖子ちゃんだって女子じゃ体力あるほうじゃね」
「その言い方むかつく」
「どこ悔しがってんの? 基礎体力違うんだから仕方ないでしょ」
彼女のとなりに潜り込んでもぞもぞとにじり寄って、抱き寄せると嫌がられそうなのでほつれた髪に触れる。彼女はだんまり。呼吸に合わせてゆっくり背中が動いていた。機嫌を損ねたのであれば手を払われているはずなので、これは本当に寝るやつか、と源は片肘をついた状態で小さな頭を見下ろしている。
「あんたって」
「うん?」
だがそういうわけでもないらしい。
聖子は枕に突っ伏した状態でまた少し黙った。絶対に苦しいので顔を見せてくれたほうがいい、と源は思っているが彼女はそのまま続ける。
「……あんたって、満足できてんの」
「え? 何が?」
「セックス。物足りない?」
彼女がようやく源のほうへ顔を向ける。その顔にはそれらしい感情など一切見られず、というかそれらしい感情がどういう感情なのかも判然としないが、いわゆる拗ねるとか思い悩むとか恥じらうとかのいじらしさは確認できない。むしろ淡々としている。声のトーンもまるきり普段通りで、恋人にセックスと言われたというより同僚に性行為と言われた感覚に近い。
そんなわけで源は一瞬何を言われているのかわからなかった。
「……え? なに?」
「だから物足りないのかって。今もそうだし」
「え、待って、あれ? 俺に聞いてる?」
「あんたスマホより頭のほう充電したら」
「いや考えたこともなさすぎて」
混乱してる、と源は思うところを馬鹿正直に吐露している。物足りないかなどと。彼女の顔を見る限り冗談を言ったふうでもない。
「なんで? めちゃくちゃ満足してるけど。俺そんな感じに見えんの?」
「だってもう一回とかもうちょっととかよく言うじゃん」
「うわ……まじか……あんなん調子乗ってるだけに決まってるでしょ……」
「なにさ、これだから男心検定八級はみたいな顔して」
「これだから男心検定八級はって思ってる」
聖子が腑に落ちないという顔をするので源はもっと腑に落ちない。もはや九に近いのでは、などと考えているうちに聖子がふいと枕に顔を埋めてしまうので、拗ねないでよと源はその頭に手を乗せる。
「物足りないとかそんなわけなくない? 満足すぎて欲張ってるだけじゃん、ぐずぐずになった聖子ちゃんもっかい見たいなとか。あ、あと乗り気じゃない聖子ちゃんが結局ほだされる時とか頭気持チヨクナル」
「きもちわる……」
「しってる」
「じゃなくて、そうやってあんたがもう一回したいって思っても私が相手しない時だってあるわけでしょ。ほんとに疲れた時とか結局そっとしといてくれるし」
いたずらをするように耳に触れると思いきり手を叩かれた。聞いてんの、と聖子が顔を起こして源を睨むので、聞いてるよと笑う。
「別に、溜まってるからもっかいしたいとかじゃないんだって。あと俺の体力がどうこうも別の話だから。てかなんでそんなこと聞くのさ」
「今後の参考に。物足りないなんて理由で浮気されると私の立場ないし」
「絶対ありえないし嘘じゃね?」
「嘘だけど」
嘘かい、と源は彼女の顔にかかる髪をよけてやる。目が合ったので本音のところを視線で促してみると、べつに、と聖子は決まりが悪そうに目を逸らした。
「単に聞いときたかっただけ」
「なんで」
「あんたにだって満足しててほしいじゃん」
そんだけ、と乱暴に言い切って聖子は再び枕に撃沈する。
源の脳内にちょっとした宇宙が広がった。
いくつかの感情と衝撃と衝動がせめぎ合って数秒ほど真顔だったかもしれない。枕と仲良くしている彼女は知るよしもないが、彼女を凝視する目はおそらく混乱のあまりぎらついている。
広がる宇宙をどうにか片付ける。源がまっさきに抱いたのは、それだけで済むわけあるか、という切実な叫びであった。
「むりむりこんなの無理に決まってんじゃん」
「なにさ」
「もっかいね、聖子ちゃん」
「は? えっやだ目こわっ」
「俺も聖子ちゃんに満足してほしいので」
「まってほんと無理……ッ」
細い肩を引き起こして口づけて、ばかじゃないのともごもご訴えるそれを無視してベッドに組み敷く。言い終える前に源の舌が絡みついたためふやけた語尾が口腔に消えただけだった。
彼女の抵抗を絡め取りながらヘッドボードを見やる。なんとなく今回も充電されていない予感はしているが、確認する間も惜しくて源はスマートフォンを見捨てた。
***
テーブルの上で短く振動したスマートフォンが復活を告げる。
あ、生き返った、と源はラーメンを咀嚼しながらその模様を見守った。スマートフォンはメーカーのロゴをスタイリッシュに描きつつ懸命に起動に努めている。
「充電器ありがと聖子ちゃん。てかモバイルバッテリーいつも持ち歩いてんの? そんな用意周到なタイプだっけ?」
「だって充電切れて連絡取れないとか笑えないじゃん、職業柄」
「すいません」
向かいに座る彼女はうっかり崩れた味付玉子を救出しているところで、源のスマートフォンには微塵も興味を抱いていない。
店に入ってきた男性客がカウンター席までの道すがら、味玉を掬う聖子を視界に入れて二度見していた。そりゃこんな美人がありふれたラーメン屋にふつうにいたら目立つよな、と源はメンマを探る。
この子さっきまでホテルでぐずぐずだったんですよ俺の手で、俺しか知らないけど、などと、町山署きっての器の小ささを誇る源は思わないこともない。
けれどいま眼前にある彼女の姿のほうが好きで、そこに役得を見出すのだからわかってるな、と源は自画自賛するのだ。無防備にラーメンを啜って味玉に苦戦する、日常のなかにふつうに存在する彼女が。
「なにさ、じろじろ見て。麺のびるよ」
「いやあ。やっぱセックスじゃないよなあって」
「説得力なくない? てかラーメン食べながらよくそんなこと噛み締めてられるね」
「そんだけ満足ってことじゃん。味玉おいしい?」
「ふつう」
ふつうか、と源はラーメンを啜った。
スマートフォンが起動したので通知だけ確認していく。充電切れで力尽きていた時間は数分程度だったが、一応緊急の連絡がないことを確認して通知をまとめて消した。平和でよかった。
「着信とか大丈夫だったの」
「アプリの通知とただの山田。大体呼び出しあったら聖子ちゃんのスマホも鳴ってるっしょ」
「鳴ってくれたほうがよかったよ」
「またまた」
ホテルでの情事とラーメン屋の今と、ついでにスマートフォン越しの仕事が隣接していると思うと妙な感覚である。別に気にせずラーメンを食べるけれど。
急速充電とあってバッテリーの残量は順調に増えている。聖子が思い出したように半分くらいしか充電できないかも、と忠告するので、充電しとけよ、と源は笑った。
(2023/05/25)