オウンゴール
 それちょっとちょうだい、と源が飲みかけのコーヒーを指差すので、やだ、と聖子は手で隠すように遠ざけた。 「ええ、いいじゃんちょっとだけ。一口だけ」 「やだ。自分で買ってくればいいじゃん」 「山田いねえんだもん」 「それ自分でって言わないから」  デスク越しに絡んでくる源は積まれた書類を捲るなどして一向に立ち上がる気配がない。買いに行ったらついでに一服したくなっちゃうじゃん、とわけのわからぬ理屈を並べながらまだ聖子のコーヒーを見ている。 「間接ちゅうくらいで照れないでよ」 「ぜったいあげない」  面倒なので飲み干してしまうことにした。ぐいとコーヒーを煽る聖子にああ、と彼が腑抜けた声を上げて、それらしく未練がましそうな顔をする。しらじらしい。やがて山田が鑑識の手伝いから戻ってきたが、その後彼が使いっぱしりにされている光景は特に見られなかった。 ***  それちょっとちょうだい、と隣から源が飲みかけのサワーを指差した。  聖子は黙ってジョッキを彼のほうに押し出す。最近新たにメニューに加わったクエン酸サワーは聖子の口には別段酸っぱくもなかったが、源はすっぱい気がする、とふわふわした感想を述べて満足げである。 「そういや川合くるって言ってなかった?」 「言ってたけど今日なくなったことにした。昌にぃとごはん行ってる」 「まじ? え、聖子ちゃんいつの間にそんな気利かせるとかできるようになったの」 「いつっていうか別に、……うわやだこれ言いたくない」  こういう時に対面だと為す術なく白状する羽目になるので、彼と飲む際はカウンターのほうが気が休まる。ほんとうに気休め程度である。並んで座ったところで彼の腕が鈍るわけでもないので、あ、はめられた、と気づいたときには大抵遅い。 「酒入ってるしプライベートだし聖子ちゃん勝ち目ないけど」 「もう! あんたのそういうとこほんと嫌い!」  ばし、と手元のおしぼりを投げつけて源を睨む。ひどくね、と笑う源が膝に落ちたおしぼりをカウンターに置き直した。その目はすでに聖子が口を割ると確信していて、その上でデザートを待ちわびる子どものような目をしているのだからたちが悪い。 「……私はいつもあんたといるのに、川合が昌にぃといられる時間とっちゃうの悪いじゃん」 「自分だけいい思いしてるってこと?」 「あんただってしてる」 「登場人物ふやすなよ。してるけど」  そっかそっかと頷く源は、どうやら聖子が否定しなかったというだけで嬉しそうにしている。いい思いだなんてふわついた言葉ひとつに。聖子は聖子でそれが精いっぱいで、口が裂けてもあんたと二人で飲む時間だって嫌いじゃないし川合も昌にぃもそういう時間大事にするべき、などと寒気のするような本音は言えるはずがない。この様子だとすでに汲まれていそうだが。 「にやにやしないでよ、あんたこんな簡単で大丈夫なの?」 「簡単に見えて簡単じゃないんだわ、なぜなら聖子ちゃんが簡単じゃないから」 「あっそ、全然わからん」 「ふつうの女相手ならこの程度で喜んだりしねえよって話」  ふうん、と聖子はなんでもない風に応じた。普通の女じゃないと言われたも同然だが、そんな女の相手をしているこの男もやっぱり変態だな、と不思議と満更でもない。  返す言葉がうまく思いつかずジョッキに手を伸ばす。そういえば源のほうに寄せたのだと思い至ったのと源がそれに気づいたのはほぼ同時で、結果、ジョッキの取っ手というおそろしく色気のない場所でふたりの手は触れ合った。 「あ、ごめん」  源が手をどかす。聖子は何も言わずにジョッキを引き取って口をつけた。 「ねえ聖子ちゃん」 「なにさ」 「手握っていい?」 「は? ここで?」  なんで、と聖子は彼をあしらう。食べづらいじゃん、と言いながら湯気の落ち着いたチーズフリットに箸を伸ばすと、まあそうかと源がフリットの皿を聖子のほうに寄せた。 「じゃあ髪触っていい、耳にかけるやつ」 「別に手羽元じゃないし手空いてんだけど」 「やりたいの! 彼氏っぽいじゃん!」 「めんどくさい」  聖子ちゃんのケチ、と不満げな素振りをして実際のところはそうでもないことを聖子は知っている。絡んであしらわれての流れを楽しんでいるだけだ。ほんとうに変態だな、と聖子はまだ熱い衣を咀嚼する。 ***  居酒屋を出て宿舎までの帰り道、途中でコンビニに寄った。源の煙草とふたり分のコンビニスイーツ、たまたま見つけた新味の酎ハイ。彼が会計のやりとりをしている間に袋を受け取り、聖子は川合の分も買えばよかった、などと考えている。  コンビニを出たところで源が聖子の手からビニール袋を掻っ攫った。 「聖子ちゃん、手つないでいい?」 「えー」  なんで、と嫌な顔をつくるとなんでって、と笑われた。  結局おおきな手がくるむように触れてきたので、聖子は仕方なく指を絡ませて彼に応じる。 「川合の分も買えばよかったって思ってたでしょ」 「ほんとあんたって気持ち悪い」 「ありがとうございます!」 「うるさ」  悪態とは裏腹に聖子の口元は綻んでいる。酔ってるな、と締まらぬ表情筋を自覚しながら、今さら引き締めるのも馬鹿らしくて放っておくことにした。この男の隣で多少気が緩む、それの何が悪いのだ。 「聖子ちゃん、うち寄ってく? 帰ってひとりだと泣いちゃうんじゃね」 「泣いちゃわないけど、川合遅くなるのかなとか、もしかして泊まりかなとか、変に気揉んじゃいそうでやだなって今思ってる」 「じゃおいでよ。山田が同期んち泊まりにいってて俺もひとりなんだよね、ここは寂しいもの同士」  それがただの口実であることくらいはわかる。源が絡めた親指で聖子の手を撫でるので、聖子はなにも言わずに彼の手を握り返した。 「ペアっ子のプライベートが充実してくるとペア長は寂しいね」 「いやたぶん俺らがペアっ子にべったりすぎなだけ……てか聖子ちゃんもうペア長ですらないじゃん。子離れしなよ」 「かつてはペアっ子いまは部屋っ子」 「なに? ライム刻んでる? 酔ってる?」 「ふつう」  という矢先によろけた。源が慌てて聖子の体を支えて、ぐだぐだかよ、と呆れる。  そのまま目が合った。沈黙。 「……聖子ちゃん、抱きしめていい?」  言うと思った、と聖子は目をすがめる。 「なんで」 「じゃあキス」 「絶対やだ」  聖子は源の手を引いてさっさと歩き出した。ねえ待ってゆっくり歩こうよなどと源が不合理な提案をしていたが無視をして、後方に体重をかける彼をぐいぐい引っ張っていく。そのくせ手は離れない。楽しむなよ、面倒くさい、と聖子は自分と彼に向かって呆れる。 ***  一旦部屋に帰ろうかとも思ったが明らかに人の気配がなくてやめた。連絡してみたらという一言を源はずっと言わずにいてくれる。  源がドアを開けて、玄関に入ったタイミングで手が離れた。靴を脱ごうとしたところで肩を掴まれる。がさりとビニール袋が置かれる音がした。 「聖子ちゃん、抱きしめていい?」  なんで、と聞き返した瞬間に抱きすくめられた。なんで聞くのさ。負け惜しみのような言葉は彼の肩口にくぐもる。 「……ねえ、あんたってなんでいちいち聞くの」 「え? 知りたい? でも気持ち悪いとか思われそう」 「もうずっと思ってる」 「ひでえ」  源が聖子の頭に頬をすり寄せる。聖子を大きく包み込む体はじかに触れるとたしかな体格差を実感させ、それは隣で飲む彼とも隣を歩く彼とも違うようで、聖子はいまだに彼からの抱擁に慣れない。 「聖子ちゃんってさ、こういうスキンシップとか、いいかって聞いても絶対にいいって言わないじゃん。いいって言わないけど、ちゃんとよくない時もあるけど、いいってとき俺わかるんだよなあって思ってこう、悦に入ってる」 「うわ……想像を遥かに超えて気持ち悪い」 「ありがとうございます!」  源は満足げである。  窮屈な腕の中からそっと源をうかがい見ると、彼が本当に滲み出るように満ち足りた顔をしているので参った。聖子の視線に気づいた源がなに、と笑む。なにって、と聖子が口ごもると彼の双眸が誤魔化しようのない熱を孕んで、視線も思考も一瞬で籠絡してしまう。  彼の目が問う。  手を握っていい。触れていい。キスしていい。  自分の眼差しがいいと言ってしまう前に目を閉ざして逃げた。源が笑う気配がする。ほらね、とその声が言っている。  いいと言わないが彼には伝わるらしい。癪だが。 「――ん、ン」  聖子の手首をやわくとらえ、そのまま探るように辿る彼の手と自身のそれを絡め合わせた。もう片方のでかい手は聖子の髪を掻き上げて後ろ頭を押さえる。重ねた唇は双方すこし余裕がなくて、ふいに顎を引かせた源がもどかしそうに伺いを立てた。 「……聖子ちゃん」 「舌入れていいか聞いたら引っぱたく」 「オッケー聞かない」 「んむ」  色気のない声を押しつぶして彼が深く口づける。差し込まれる舌を聖子も素直に含んだ。押しつけ合うように絡めて、ねぶられて、くらりと揺らめく感覚にたまらず繋いだ手をぎゅうと握りしめる。 「ん……ぅ、ふあ、やだ」 「大丈夫」  手がほどかれて我知らず追いすがっていた。大丈夫、と掠れた声で囁いて、彼はその手で聖子の背中を掻き抱く。ぎゅうと体が密着する。一度ためらうように力が緩んだので、聞いたら引っぱたく、と念を押すと源が笑うように息をついた。そうして息が詰まるほど強く抱きしめられる。  体が軋むほどの抱擁。あまりに息苦しくて、痛くて、彼がこれほどまでに執着するのがわからなくて、聖子は無性に泣きたくなった。 「……馬鹿力」 「聖子ちゃんがいいって言ったんじゃん」 「言ってないし」 「言ってた」  源が破顔する。  言ってない、と一応食い下がったが彼が満足するならそれはそれでよかった。人の見たくないところまで見えてしまうこの男が、嫌でも見えてしまうこの男が、戯れるように聖子の本音を見抜いて無邪気に笑っていられるのなら。  後からわかったことだが源のほうには連絡が入っていたという。川合はこの日帰らない。 「てかあんたのほうがよっぽど腕力ゴリラじゃん」 「ええ、やめてよ、俺は繊細に堅実に生きる草食動物」 「食用じゃなくて?」 「ブロッコリーじゃねえんだわ」  先までのそれらしい空気が霧散したというのに源は往生際悪く聖子を抱きしめたままで、そもそもゴリラは草食じゃないのか、いや雑食だった気がする、などと無益な議論が始まって聖子の肩越しにスマートフォンを触りだした。なぜ玄関で。  聖子は彼の腕の中でひとつ息をする。首もとに顔を寄せて、泊まっていい、と聞くと彼が一瞬動きを止めた。源は振り向かない。かわりに抱きしめる腕を強めて、聞くんじゃん、と笑い出した。
(2023/04/30)

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