影法師は微笑む
うまく寝付けず寝なければと焦れて、寝なければと考えるほど余計に眠れず、無駄に冴えた脳味噌をどうにか休ませたと思ったら案の定ひどい夢を見た。
悪夢と悪夢を切って繋げたような最悪のコンピレーションである。そのとき聖子は思い出したくもない記憶のなかにいて、夢だ覚めろと目を閉じて開くと別の記憶のなかにいる。現場を知らぬ桜の事故まで見た。今となっては笑い話にもならぬ、川合が車に小突かれて終わった交通立哨の夢まで見た。
飛び起きたのはどの夢だったか。
叫んだような気がして反射的に口を抑えていた。
「は……」
ばくばくと心臓の音が体中に響く。呼吸も脈拍も正常でないことは起き抜けの頭にも明白で、起きろ副交感神経、と念じてみたがいっかな姿を見せない。たまらず部屋着の首元を握りしめたが息苦しさは変わらず、聖子は奥歯を噛み締めてぎゅうと縮こまった。
「聖子ちゃん」
暗がりを掠めるように源の声が届く。飛び起きた上に叫んだ可能性すらあって、考えてみれば隣で眠る男が起きるのも当然と言えた。彼は慎重に聖子の肩に触れて、大丈夫、と問う。
まるで大丈夫ではない。
「……大丈夫」
「どこがだよ、体がちがちじゃん。具合は? 気持ち悪いとかない?」
「平気……ほんとなんでもない、ちょっと夢見悪かっただけ。起こしてごめん」
こんな上辺だけの言葉が彼に通用するとは思っていない。けれど源という男は良くも悪くも絆されやすくて、露骨な虚勢に対してはむしろ大人ぶって深入りしないことがある。あえて触れぬ優しさ。言いたくはないがそれに救われたことも幾度かある。
「聖子ちゃん、そんなんで俺が引き下がると思ってる?」
だが今回はだめらしい。
「いつでもどこでも大麻臭い同僚の横でも精液と同じ空間でも寝られる聖子ちゃんが夢見悪くて飛び起きるなんてただごとじゃないでしょ。俺がなんでもかんでも見て見ぬふりすると思ったら大間違いだから」
「あんただって精液と寝てた」
「そうだけどそうじゃねえんだわ」
いいからおいで、と源が聖子を抱き寄せる。
彼の引き締まった体は筋肉の分すこし体温が高くて、しかも今は寝起きということも相まって少々暑苦しい。けれどこうなるとその体温にすら安堵を見出してしまうから厄介なのだ。逞しい腕も肩口も胸板も強情ごと身を預けるには充分で、だから嫌なのに、と聖子はしかめ面になる。
「もじゃもじゃのくせに」
「悪口だけ言うのやめてくんない?」
聖子は彼の胸元に顔を押しつけた。うう、と変な声で呻いてやり場のない感情をどうにか逃がそうとする。源は聖子の頭を撫でながら、ひっでえ声と笑った。
「あと職場以外でふつうに精液とか言うのやめなさい」
「さっきから小言ばっか」
「ちゃんと聞きなさい、ママ真剣なのよ」
「うざいよママ」
それらしい声を作る源をあしらって、聖子はそのまま逃げるように口を閉ざした。
思い返すのは川合と交わした些細な会話だ。取るに足らぬ雑談の流れで、ほんとうに何でもない話のように、川合の口から塩谷の名が出た。聖子はそのとき自分でも驚くほどに動揺したのだ。たしか源の血が何色かという話で、ドリンクバーで全種類混ぜたドブのような色、と川合は主張していたがそれを絶賛したのか窘めたのかも記憶にない。
あの時の記憶ばかりが蘇る。
現場でひどい目に遭ったのは彼女たちのほうだというのに。
「……心配してるんだけど」
「わかってる」
「聖子ちゃん」
「わかってるよ」
わかっている。源はその言葉よりもずっと強く心配してくれている。この男の血はたぶんちゃんと赤い。
けれどだからといって、すんなりと胸の内を吐露できるような素直さは残念ながら持ち合わせていなかった。取っ散らかった悪夢のことを、笑い話にもできぬ今のことを、どうやって伝えたらいいのか聖子には見当もつかない。
「……だって私、そんな器用じゃない。心配かけてるのはわかってる、でもじゃあどうすればいいわけ」
「俺に聞くなよ」
「は? なんなの? あんたが放っといてくれないんじゃん」
「ほっとけるわけないでしょ、てか八つ当たりすんなよ」
「してない!」
聖子は源の胸板を押し返した。
彼の体はびくともしない。緩まぬ腕の中から聖子は彼を睨み上げるが、おそらくそれらすべて想定内であろう源は落ち着いた目で聖子を見下ろしてくる。
「別に全部話してほしいわけじゃないって、俺が心配してるのは聖子ちゃんの」
「うるさい! やめて! 私に特殊能力使うな! 変態!」
「変態関係なくね!? つーか特殊能力とかガン無視だわ今!」
聖子はぎゅうと唇を引き結ぶ。ああもうと源は天井を仰いで、怒鳴ってごめん、とつぶやいて再び聖子を見つめた。その瞳は先までと少し違う、なんだか人間じみた色をしている。どこか決まりが悪そうな。
「……特殊能力は、まじで使ってない。というか警察官の俺は無理に踏み込まないでそっとしといてあげたほうがいいって言ってる。でもごめん、俺はいやだ」
「は……?」
「警察官じゃない俺のただのエゴ。飛び起きてがちがちになってる聖子ちゃんを俺が放っときたくないだけ」
源は笑おうとして失敗している。聖子の肩を抱く手は力が強まったり弱まったりと不安定で、さすがにこれを彼の策略のうちではと穿って見るほど聖子も鬼畜生ではない。彼のやり方なら知っている。彼が本当に困っているときの挙動も声も表情も。
「さっきも言ったけどなんでもかんでも話してほしいわけじゃない、ただそんな頑張んないでほしいってだけ」
「わ――私、べつに」
「誰もおまえにがっかりなんてしない」
源はわけのわからないことを言う。聖子にはまるで脈絡の見えぬ話を、けれど彼はしかつめらしく噛んで含めるように聞かせるのだ。
意味がわからない、と言い返そうとして驚いた。
聖子は慌てて口元を押さえる。
声がつかえて出てこない。頬に触れた指先が濡れて、口から溢れ出たのはおそろしく情けない嗚咽だった。
「――し、んじらんない」
「第一声それ?」
「最悪、なにこれ、あんたやっぱ特殊能力使ってる」
「使ってねえって、てかなんで泣いてる時まで負けず嫌い絶好調なの」
「泣いてない」
「ちょう絶好調じゃん」
ぼろぼろこぼれる涙はどうやら聖子の意思を完全に無視しているらしい。止まれと意識するとさらに溢れてくる始末で、涙腺バグった、とぐずぐずの声で訴えると声ぐずぐずですけどと源が呆れたふうに笑った。
「そりゃまあ、聖子ちゃん泣き虫なくせに自分のことじゃ滅多に泣かないんだから涙腺もバグるよ。川合と桜以外のことで泣いたの何百年ぶり?」
「山田で泣いた」
「邪魔な情報……」
泣き止むことを諦めた聖子はせめて泣き顔を晒さぬよう源にしがみつく。源はそれを受け止めながら聖子の頭を撫でていた。無骨な指がほつれた髪を丁寧にくしけずり、まったく納得がいかないが凝り固まった聖子の感情までほぐしていく。
「夢、とか、覚えてないけど」
「うん」
「川合も、桜もカナも、あんただって、いろんなことあったのに勝手に乗り越えて、強くなってくから」
「うん」
「私は、いまだに夢なんか見て、いまだにびびって、なんで私だけ弱いままなの」
くやしい、と聖子はしゃくりあげる。
悔しいって、と源が頭上で笑い出した。らしいわ、と続ける彼の声は、揶揄する言葉つきと裏腹にずいぶん優しい。
「そういうのって人それぞれじゃん。あと聖子ちゃんのそれって弱いとかじゃないと思うけど」
「いやなの!」
「駄々こねないでよ、かわいいから」
こみ上げてくるのは焦燥や歯がゆさばかりで、それらがまた涙を押し出していく。もはや収集がつかない。これだけ泣いて彼に抱きしめてもらって、何がそんなに不安なのだ、と自分に問うたとき、ふいに取りこぼして名前のつけそびれた感情をみつけた。
淋しいと。
「わ、私は、だって、あんたらと肩を並べてたいのに」
最後に見た夢を思い出した。
誰もが去って、取り残された自分が、なにかをむなしく叫んでいた。
「――おいてかないで」
あまりに弱々しいその言葉は言葉として形を成していたのかわからない。追い縋る手すら届かない、あの夢のほんとうの恐怖は他ならぬ孤独だ。寂寥だ。そんなものに蝕まれる自分に聖子は幻滅している。
やにわに源の手が頬に触れて聖子の顔を上げさせた。
無防備に泣き顔を晒す形になって聖子は慌てて抵抗する。見んな、と顔を伏せようとするが源は容赦せず、そのくせどういうわけか彼のほうが淋しげな顔をしている。
「見くびんなよ、みんな知ってる。おまえが身内のこととなると繊細でクソめんどくさくて実はそんな強くないってこと」
「な、にさ、それが嫌だって」
「そう言える聖子ちゃんだからみんないるんじゃん。悔しいって言う聖子ちゃんだから。川合も桜も、山田も、カナちゃんだって、みんなおまえの背中追ってるんだよ」
ちゃんと見ろよ、と源が聖子の顔にかかる髪を掻き上げる。ようやく止まりつつある涙を無造作に拭って、ごつんと少々荒っぽく額を合わせた。痛い。
「わかってないの聖子ちゃんだけでしょ。この程度でだれが離れてくと思ってんの? 俺らのこと嘗めてんの?」
「なに……」
「置いてかれるなんて、なんでそんなこと言うのさ」
言うなよそんなこと、と源は苦しげに繰り返す。
間近に見える彼の瞳は思いのほか切実な色をしていて、ひょっとして、と聖子はひりつく瞼で瞬きをした。ひょっとして傷つけたのだろうか。それにしたって怒られる筋合いはないけれど。
「……あんたがいちばん置いていきそうなんだけど」
「いや無理無理、聖子ちゃんチョロいから目離すと絶対やばいし」
「チョロくないわ」
「チョロいっしょ。俺なんかに引っかかってんのがいい証拠」
瞬きでこぼれた涙を源が拭う。なんかとか言うな、と文句をつけた拍子にもうひとつ涙がこぼれた。今日はもう涙腺がだめそうで、だめそうと判断したらしい源も笑っている。
「泣き止めそう?」
「泣いてない」
「もー」
めんどくさいんだから、と笑いながら源が唇を寄せた。
鼻が詰まって息苦しい。重なる唇の感触は名残惜しかったけれど、息苦しさに負けて顎を引かせると源は案外あっさり唇を解放してくれた。彼はそのまま腫れぼったいまぶたに口付けて、ぶっさいく、かわいいけど、などと散らかった台詞を吐く。
「で? どうする? ぐっすり寝られるよう協力しようか? 逆に寝かせらんないかもだけど」
「無理、泣きすぎて眠い」
「子供かよ」
「おやすみママ」
文句を言いつつ源は聖子を布団に入らせて、枕を引き寄せて布団を引き上げてと手厚い。目冷やさなくていいの、とまだ世話を焼こうとするので聖子は何も言わずに首を振った。いらないというのに保冷剤か何か取りにいきそうな彼の服を引っ掴む。
「べつにもういい、どのみち腫れる」
「いや聖子ちゃんがいいならいいけど。明日俺のせいにしない?」
「あんた私のこと何だと思ってるわけ?」
源は何も答えないが、するでしょ、とその目が言っている。するだろうな、と聖子も思っている。彼がいつも通りのきっかけをくれたことくらいは聖子にもわかる。
諦めたように息をついた源がとなりに潜り込んだ。聖子を抱き寄せると子守唄でも歌おうかと母親ぶるので、聖子はうるさいいらないと突っぱねて彼の胸元に顔を埋める。ふわりと頭に触れた感触はおそらくふざけたママのキスであろう、聖子は気取られぬように少し笑って、笑える自分にようやく安堵して目を閉じた。
(2023/05/06)