アンチドロップトラップ
 追加のビールを頼んだところでスマートフォンが鳴った。  直感的に歌姫が抱いたのは、面倒な予感がする、という根拠のないそれだった。居酒屋の噪音に潜り込むバイブ音が逐一神経に障る。発信元は見ていないが不穏な直感の時点でおおよその見当はついており、五コール以内に止まなければ出よう、と無視を決め込んでいるうちにあえなく六コール目のバイブ音を迎えた。面倒くさい。  先輩のですか、と硝子が自身のスマートフォンを確認する。歌姫は曖昧に応じた。 「たぶん」 「伊地知?」 「いえ、私はサイレントに」 「律儀だな」  執拗に鳴り続けるコールは周囲の談笑に負けじと着信を訴え続け、しぶしぶ端末を覗き込むと画面には五条悟の名前が無神経に踊っている。見なければよかった。素直に出るという選択肢など無いに等しい状況下、十中八九ないだろうが緊急事態という残り一の可能性も捨てきれず画面を睨んでいると、出ないんですか、ととうとう伊地知に気を遣わせた。 「ごめん、出てくる」 「うわ、カレシ? 彼氏ですか?」 「違うわ」  冗談でもやめてほしい。  途端に興味をなくした硝子がこれ食べちゃっていいですかとエイヒレをつついている。はいはいと応じたところで着信が切れて、出ると告げた手前折り返すほかなく、天下一品のタイミングの悪さに舌打ちして歌姫はテーブルを離れた。  騒々しい雑音から逃れるように店の外に出る。ひらりと吹き抜けた夜風が体中にまとわりつく酒気の残滓を払い除け、歌姫はふうと一息ついてスマートフォンを握り直した。ちょうど道路から階段を上がってきたところのサラリーマンとかち合って扉を譲る。店先から階段のスペースはお世辞にも広いとは言えず、階段を下りるか迷ったが階下では肩身の狭そうな喫煙スポットが築かれていてやめた。そもそも五条悟ごときのために階段を往復してやる筋合いなどない。  手摺に寄りかかる。  階段下から立ち上るささやかな副流煙を甘受しながら、歌姫はようやく折り返しをタップした。 「もしもーし、ふつうかわいい後輩からの着信無視する? ていうか折り返し早くね? 出れたんじゃね? わざと?」 「さようなら」 「いや秒殺?」  鳴らしてた時間のほうが長いんですけど、と五条が絡む。しらんわ、と歌姫はあしらった。まともな用でなければ切ろう、とこの時点で胸に決める。 「で、何の用」 「歌姫の声が聞きたくて」  躊躇なく切った。  はあ、と歌姫は手摺にもたれるように重たい息を吐き出す。酒の席をわざわざ中座してやったというのにこれだ。覚悟していたよりもずっと優先度の低い通話にげんなりしていると、ひと呼吸置いてから五条からのリダイヤルがきた。  自棄になって通話に応じる。 「まじで用ないなら切る」 「またまたー、出ちゃうあたりほんとは僕のこと好きでしょ」 「まさか本当に冷やかし?」 「用もあるっちゃあるけど。用っていうかクレーム?」  なら切る、と一刀両断するより先にあれ、と五条の声が滑り込んだ。それまでの白々しい口調とは打って変わって素でこぼれ落ちたような声だ。聞いてしまった手前切るに切れない歌姫である。 「何」 「歌姫いま外? もしかして飲んでた?」 「外だけど。なんで?」 「いやあ、僕のためにわざわざ抜けてきたとしたら申し訳ないじゃん」  申し訳なさなど欠片もない、むしろやっぱ好きでしょ意地になっちゃってるんでしょわかるわかると言わんばかりの声で、着信から通話の数分に至るまで人の神経を逆撫でし続ける彼の芸当は一体、と歌姫は舌を巻く思いであった。 「ふつうに一人だしふつうに暇だったから出ただけ。お構いなく」  飲んでいるさなか抜けてきたなど死んでも口にしたくない。  でなきゃアンタの着信なんか取るか、と毒づくとはいはいと何故か歌姫のほうがあしらわれた。対面であればすでに殴っている。 「なんでもいいからさっさと本題入ってくれない?」 「え? 本題?」 「切る」 「冗談だって冗談、いちいちキレてて疲れないわけ」 「アンタにそれ言われて正気でいられる程度には余裕あるわ」 「それ余裕って言うの?」  まんまと本題から遠ざかっている。  若者の集団が階段を上がってくるので場所を空けながら、どうせ本題など最初から無かったに違いない、と歌姫はすでに諦めをつけていた。若者たちが擦れ違いざまにどうもすいませんと大人ぶって頭を下げてゆく。通話越しの相手にもこれくらいの可愛げがあれば、と歌姫は軽い会釈で応じる。  けれど大人げないと言えば自分も大差ない。  歌姫は落胆した。 「普通ならキレるのもやめてるっつーの」 「え? 何?」  店に入ってゆく若者たち。開閉する扉からやかましい談笑と食器の音が溢れ出る。まるで余所事のような空間。  むこうは酒精と談笑、こちらは受動喫煙。とうに別世界となった出入り口を傍観しながら、大体、と歌姫は通話口に向けて嘆息する。 「毎度突っかかってくんのアンタのほうでしょ」 「そうだっけ? 毎度乗せられてる歌姫も歌姫じゃね?」 「お生憎さま、アンタがわざわざ私の神経逆撫でるのもいちいち鼻につくのもとっくに知ってるしとっくに嫌いだし」  わかっている上で逐一いきり立つほど歌姫の沸点も低くはない。  理解してやるつもりなど一切ない、けれど確かに付き合いだけは長いのだ。他人への好きも嫌いも期待も敵意もあけすけな男が、近い相手にこそ無意味かつ些末な軽口を叩いて苛立ちを誘っていることくらいは知っている。取るに足らぬ感情を自分に向けさせること、そうしてそれに満足していること。腹の底では他人の感情になど無頓着であろう図太い男が。  その真意も。その相手も。  時折そこに甘えを見るのは美化しすぎだろうけれど。 「乗せられてるんじゃなくて構ってんの」 「何ソレ」 「かわいい後輩なんでしょ」  ふうと空を仰ぐ。  なにそれ、と繰り返される彼の声を聞きながら、歌姫は他人事のように笑った。 「誰がアンタの着信なんて取るか」  思えばそうだ、かつて彼の自信と自惚れにまだ幼さが見えていた頃、年相応の傲慢さごと見守ってやろうという瞬間もあった。もうひとりの小生意気な後輩とあわせて、たとえば硝子にそうするように。ほんとうに一瞬だったけれど。  年上ぶった余裕をひけらかす。  歌姫が持ちうる唯一の傲慢で、特権だ。  階段下、上機嫌な酔っぱらいが煙草を掲げて、一本いるか、と無造作に声を掛けてくる。つまらぬ顔で通話を続ける歌姫を見かねてのことだろう。硝子がいる手前煙草の匂いをつけて戻るわけにもいかず、歌姫は片手を振って丁重に辞退した。 「——五条?」  一方の五条である。  応答がない。 「ちょっと、切るわよ」  こちらが黙っていれば皮肉や軽口のひとつやふたつ、無駄口を積み上げられるだけ積み上げて自らひっくり返すような散らかった男が。  何の沈黙だ、と怪訝がる歌姫の耳に、ようやく五条の声が届いた。 「本題だけどさー」  ほんだい、と脳内で変換するまでに数秒かかった。  そんなもの本当にあったのか。 「は? あるの?」 「あるって言ったじゃん。あれ? 僕クレームって言ったっけ? まあどっちでもいいんだけど」 「いやクレームなら聞きたくないわ」 「いつこっち来てたの?」  歌姫は目を瞬かせた。  いつって、と二人を置いてきたままの店を見やる。 「昨日、というか昨日の深夜? 言っとくけど仕事だからね」 「なんで僕だけ知らないわけ」 「は? なんでいちいちアンタに連絡しなきゃならないわけ」 「じゃあ硝子にはいちいち連絡すんの? つーか百歩譲って硝子はわかるけどなんで伊地知まで知ってるわけ? 伊地知だよ?」 「伊地知に謝れ」  しぬほど面倒くさい。  クレームというよりほとんど難癖である。熱を持ち始めたスマートフォンを握り直しながら、最初からわかっていたことではないか、と歌姫は頭を押さえる。着信の時点で面倒な予感はしていた。 「伊地知も硝子も関係ないでしょ、私がアンタにいちいち連絡する理由あんのかって聞いてんの」 「理由? そんなの」  ここで違和感を覚えた。  声がなにか変だ。耳元から響くはずの彼の声質、端末越しに反響する自身の声、いくつもの小さな違和感は相手が五条悟というだけで不穏な危機感へとシフトして、歌姫はすぐさま身を翻した。ここにいてはいけない。  けれど相手は腐っても五条悟だ。違和感も危機感も敵前逃亡もすでに遅い。  まるで待ち構えていたかのように、軽やかに腕を掴まれた。 「——これから決める」  不遜に笑った五条が目の前で通話を切る。  まじか、と歌姫は顔を引き攣らせた。 「は……?」 「ひさしぶり」 「え、いや、何これ、なんでここに」 「今これって言った? ひどくね」 「なんでここに!?」  たまらず掴みかかろうとしてあえなく失敗に終わった。腕を掴まれたままだ。振り払ってはみたがどういうわけか五条は離してくれず、別に、とむしろその手に力さえ籠められる。 「硝子から聞き出した。誰が一人で暇だって?」 「フザけんな階段落ちて出直してこい」 「こわ」  空々しく笑った五条が、空々しい表情のまま無遠慮に顔を寄せてくる。笑っているというのに感情など見えやしない。負けるか、と歌姫は屹然と五条を睨み返した。 「わざわざ文句言いにきたわけ? アンタも暇ね」 「まあね、なんで伊地知が呼ばれて僕が呼ばれないわけ?」 「日下部も誘ったわよ、あとダメ元で冥さんも」 「いや露骨に僕ハブじゃん」 「何? 拗ねてんの?」 「拗ねてるよ」  あっさり吐露されて歌姫はふつうに面食らった。ざまをみろ、という通例の台詞も忘れ、あ、そう、と間の抜けた生返事になる。 「相手してくれんでしょ」 「は?」 「僕ちょっと話つけてくるから」  五条が人差し指を地面に向けた。ここにいろ、とその仕草は簡潔に語っていて、せめて口で言えと歌姫は彼の舐めきった態度に鼻白む。 「ていうか話って何の」 「え? 硝子に。歌姫引き取るって」 「はあ!?」 「はいはい、文句もグーもあとであとで」 「勝手に仕切んな、つーか何アンタ余裕なくない?」  ふいに五条が、じ、と歌姫を強く見据えた。  何だ、と歌姫はたじろぐ。口元は笑っている。普段どおり白々しく腹立たしく軽薄に笑っている。けれど色眼鏡の向こうでその目元だけが笑っていなくて、本当の感情はおそらく笑っていないほうのそれで、余裕を掻き消した眼差しが歌姫をまっすぐに捕らえる。  本気だ。  咄嗟に身を引かせた歌姫を、指が食い込むほどの力で五条が阻んだ。 「痛……っ」 「たまには伊地知より硝子より僕でしょ。ていうか戻るなら僕もついてくけどどういう顔して戻る気?」 「うわもうほんとアンタってきらい」 「電話出た時点で歌姫の負けでーす」  ここにいて、と五条が今度こそ念を押す。  妙な口振りだった。ともすれば不器用な我が侭にも聞こえて、彼の複雑怪奇な性分を知る歌姫はむやみに撥ね付けることもできない。駆け引きも何もあったものではない至近距離、奢れよ、とどうにか譲歩すると五条が口元を歪ませた。嫌な笑い方だ。 「逃げんなよ」 「逃げねえよ」  乗せられてるな、と歌姫は冷静に自覚した。  おういけいけと下から酔っ払いの野次が飛ぶ。完全に忘れていた。  居たたまれないやら痛いやらで彼の手を乱雑に振り払うと、あらら筒抜けだったうっかりうっかりなどとのたまって五条はあっさり腕を解放した。あわや手中のスマートフォンを投げつけるところであった。 「え、もう何なの? 私が悪いの?」 「歌姫が思ってるよりはね」 「あーもう煙草もらえばよかった」 「それはそれでムカつくからやめてくれる?」  器小せえよ、と毒づくと五条は否定もせずに笑って、そのまま踵を返して店へと向かった。何だと言うのだ。  五条を見送ったところでスマートフォンが点滅していることに気付いた。通話の最中にメッセージがきていたらしい、通知を開くと硝子からで、五条きてますよ、と接近警戒のアラートがきっちり発令されていた。可愛い後輩の忠告を見逃して可愛くない後輩にまんまと捕まっている。現状の不毛さに気は滅入る一方で、どう返信すればいいのだ、と歌姫は頭が痛い。
(2020/10/04)
電話越しの台詞を『』で書くか「」で書くか永遠に悩んでて『』が二次創作の主流らしいと知りつつ「」で書き続けてるんですが思いがけないとこで活きるもんだなと思います。いや『』でもいけるのか?でもなんか「」のが好みです。

back