概算利己主義
 ベッドから抜け出せない。 様子を窺う限り背後の狸は寝ているようだったが、狸らしく狸寝入りの可能性がいまひとつどころかふたつみっつほど拭いきれず歌姫は往生していた。起きたい。けれど信用ならない。うしろの男の胡散臭いほど規則正しい寝息が。 深夜の静寂のなか秒針は確実に時間を刻んでいて、試合の時間を思うとあまりのんびりもしていられないのも事実である。地上波では滅多にない試合の放送。泊まるというので八割方諦めていた深夜放送だったが、まるきり別方面の事情でじゃれつく男を躱しに躱すこととなり棚ぼた形式に早めの就寝を手に入れた。せっかくなので便乗しておきたい。 そろりとスマートフォンから時間を確認する。一時半。 起きよう、と歌姫は腹を括る。  布団の隙間から冷えた空気が滑り込んで、それが容易に人の眠気を飛ばしてしまえることを知って歌姫は二重の意味でひやりとした。背後で寝息を立てているのは他でもない五条悟である。下手を打てばあえなく起こしてあえなくベッドに引き戻される可能性がある。下手を打たなくてもある。まったく厄介な男である。  なるべく彼の意識に触れぬよう気配を消して、現場でもこれほど気を張ることなど滅多にない、と思うとあまりに馬鹿馬鹿しいので深く考えないようにしながら歌姫はベッドから這い出る。否、這い出ようとした。  当然のように五条の腕が絡みついてきた。 「ちょ」  落ち着け、と歌姫は自身に言い聞かせる。背後から抱き込むように纏わりつく腕はまだ緩く、背中にくぐもる呻き声から察するにおそらく寝ている。大丈夫だ。まだいける。  ややこしい腕に手をかけ、無意義きわまりない緊張感をもってそろりと引き剥がす。深夜のひそかな奮闘および攻略。ここまできても背後のそれが狸寝入りでないと断定できないのが腹立たしい。 「……た、ひめ」 「は」  このあたり期待を裏切らぬ男である。  忌々しい腕が今いちど、今度ははっきりとした意思と力を持って歌姫の体に巻き付いた。 「——どこいくの」  狸め。  歌姫はどうにか舌打ちを我慢した。 「ちょっと、離して」 「どこいくの」 「べつに、喉かわいただけ」 「僕も」 「なに?」 「僕もいく」  もぞもぞと歯切れの悪い応答。寝起きで掠れた声はいつにも増して気だるそうで、これは、と歌姫は目を瞬かせる。これは。もしや。 「……寝てる?」  深夜の面倒かつ無益な攻防に一縷の光が射し込んだ。 「アンタ寝ぼけてるでしょ」 「おきてるし」 「いや声ふにゃふにゃじゃねえか、ああもう」  無理に引き剥がしたところで十中八九ややこしくなるだけだ。押してだめなら引くのが常套らしいが相手がほぼ寝ている狸ときたので煙に巻くことにした。抱き込まれたままの不自由な体勢のなか、歌姫はどうにか手を伸ばして首元に懐く五条の頭に触れる。目隠しのおかげで鬱陶しい印象ばかりの髪はその実やわらかい。この無駄な髪質はなんだ、と歌姫は納得がいかない。 「寝てなさいよ、疲れてんでしょ」 「ヤダ」 「いい大人が駄々こねないでくれる? 気色悪い」  ゆるゆると五条の髪をくしけずる。年上ぶったこの接触を、糞生意気な後輩はいつも悪くない、などとのたまう。歌姫は歌姫で、今こうして夢うつつに擦り寄る男を、かわいくないこともない、と百歩では到底足りぬ譲歩の果てに、思う。 「言っとくけど一時半よ、深夜。おとなしく寝なさい」 「歌姫が」 「は?」 「歌姫が、どっか行っちゃうから」 「ほんと面倒くさいわねアンタ」  一時半。試合開始は四十五分。余裕で間に合う。序盤の数分程度も妥協してやろう。聞き分けの悪い大人にほだされて、歌姫は仕方なく背後の体温に身を預ける。 「しょうがないから抱き枕になってやる」 「逃げない?」 「逃げないから」  さっさと寝ろ。  言うが早いか視界が回った。は、と息を呑んだ時にはすでに嫌な予感から確信そして諦観へと感情が駆け抜けていて、狸め、と歌姫は今いちど胸の内で毒づいた。寝ぼけた体温が張り付いていたはずの背中には目下生ぬるいシーツの感触が。そのシーツに体温を残していたはずの男は、歌姫の眼前、というより真上で笑っている。 「おはよ」 「いやもうまじアンタ何なの」  さとるくんです、と歌姫を組み敷いたまま五条がへらへら応じる。とてもじゃないが寝起きとは思えない。というか寝起きでこの乗りだとしたらそれはそれで付き合いきれない。  声を張る気力すらない歌姫を見下ろしながら、詰めが甘いね、と忌々しい男は悪びれる風もなくのたまった。たしかに詰めは甘い。いつもそうだ。 「こんな時間に隣でごそごそやられたら目も覚めるでしょ、職業柄ぐっすり寝るのもあれだし」 「だから寝ろっつってんの、ていうか何? 寝ぼけてたくだり何だったわけ?」 「様子見てみようと思って。いやあ役得だったね」 「穴を掘ってアンタを埋める」 「ふつう入りたがらない?」  歌姫ったら過激、とその口ぶりは完全に舐めきったそれで、気づいたときには拳を繰り出していた。  不用意な鉄拳を五条が難なく捕らえる。あしらわれるかと思いきやそのままシーツに縫い止められて、歌姫はやにわに危機感を覚えた。狸寝入りなどという小学生じみた手段に完全に油断していた。場所も相手も体勢も何もかもまずい。 「ちょっと、離して」 「一時半って言ったっけ? 何かあんの、ひとりでこそこそと」 「NFLの試合。アメフトなんてアンタわかんの?」 「多少はね。ブレイディと僕どっちが大事なわけ」 「ブレイディに決まってんでしょ」  同じ土俵に上がってくるな、と歌姫は鼻白む。深夜にちまちま絡む自称最強を相手にするよりリーグが誇る最強クォーターバックのパスを見るほうが何倍も有意義だ。何より試合は時間が決まっている。当日の夕方一切の前触れなしに今日行くから、と連絡を寄越す傍迷惑な男とはわけが違う。 「大体来るなら来るでもっと早く連絡しなさいよ」 「当日のほうが断りづらいじゃん、あと来るまで時間取れるかわかんなかったし」 「何ぶっつけ感覚で押しかけてくれてんの? ていうかそんなぎりぎりのスケジュールで顔見にくることないじゃない、最強様がいかに多忙かくらいよく存じてますけど」 「え、何、あっさりしすぎじゃね?」  傷つくんですけど、と五条が目をすがめる。何がだ、と歌姫も剣呑に目を細めた。その間にも抜け出そうと機を窺ってはいるが彼の手が緩む気配はない。 「会えないなら会えないで別にって感じ? うわ歌姫ってば淡白」 「無理してまで来んなっつってんの、アンタも一応ぎりぎり人間でしょ」 「まじでしんどかったら来ないって。そりゃふつうに忙しいけど来れそうだったし来たいから来たわけ。で久々に会ったと思ったら何? 僕の相手もろくにしないでさっさと寝るとかあんまりじゃね? 鬼だよ鬼」 「だから前もって連絡寄越せって何度」 「てことで」  体ごと抑え込むように五条がのしかかってくる。まずい、と咄嗟に逃げを打つがとうに遅く、足掻く歌姫をがっちり捕らえた状態で彼は笑った。自業自得だと。掠れた声が耳朶を這う。 「埋め合わせよろしく」  何を勝手なというかそもそも迷惑被ってるのはこっちだ埋め合わせもなにもあるか、という渾身の文句は何を勝手な、あたりで早々に五条に飲み込まれた。横暴にもほどがある。いや今さらか。  軽薄な物言いとは裏腹に押し付けられた唇は荒々しく、否も応もない口づけに歌姫は我知らずおののいた。ふ、とこぼれた吐息すら逃さぬと五条は執拗に唇を追う。一方的な行為は数秒前までの軽口とあまりに不釣り合いで、何なのだ、と翻弄されるばかりの歌姫は彼の情緒がまるで理解できない。 「……っと、待っ……ッ」 「やだ」 「ふざけ、……っ」  ぬるりと潜り込んだ舌が抗議ごと歌姫のそれを絡め取る。んん、と拒絶の声を上げて首を捩ったが頭ごと抱え込まれて無駄に終わった。差し込まれた指先が時おりもどかしそうに歌姫の髪を掻き撫でて、優しすぎない接触がはからずも甘い痺れを誘うようで、歌姫はたまらず息をつく。げんなりするほど熱い吐息だった。 「ご……じょ、う」 「は……、それ、逆効果」 「——くたばれ」 「はいはい」  幼稚な悪態を受け流した五条がそのまま、流れるように衣服を探り出したのでさしもの歌姫もぎょっとした。そんな露骨にスイッチを入れた覚えはない。裾から潜り込んだでかい手のひらがじかに脇腹を撫で上げて、もはやスイッチどころか地雷では、と歌姫は身を強張らせる。 「や、だ、やだやだやだ馬鹿ふざけんな」 「どうせ試合も録画してんでしょ? いいじゃん少しくらい」 「ちょっとまじで離っ、離せ馬鹿なにが少しだ」 「歌姫」 「や……っ」  離すどころか調子づいた五条が首元に顔を埋めてくる。顎からたどるようにして耳に噛みつかれて、上がりそうになった声を懸命に堪える歌姫の耳元で五条が盛大に息を吐いた。なんか、と熱っぽい声で愚痴る。なんか納得いかない、と。  納得がいかないのはこっちだ。 「——なに」 「そんなに僕よりブレイディ?」 「は?」 「そりゃたしかにイケメンだし天才だし試合だって華あるしパスやばいしイケメンなんだろうけどさあ」 「はあ」 「でも僕だって天才だし最強だしイケメンだしなにより仕事がんばってきたんですけど。いろいろがんばってるんですけど」 「何なのそのざっくりしたアピール」  馬鹿馬鹿しくなってきた。  歌姫は嘆息して、人の耳元で管を巻く男の頭を両手で引き起こした。暗がりに仄めく双眸は思いのほか露骨に不機嫌を映していて、どうやら本気らしい、と歌姫は彼の湿気た感情を受け止める。 「——べつに」  わかりづらい上に回りくどい。ただでさえ五条悟という七面倒な男の七面倒な嫉妬など。 「天才も最強もイケメンも知ったこっちゃないけど、アンタが適当に軽率になんとなくやりながら一応いろいろ考えてんのもいろいろ頑張ってんのもしってる」 「それでこの扱いかよ」 「そうよ、アンタが仕事でこっち来んのも知ってたけど私は連絡しない」 「この流れで喧嘩売ってる?」 「喧嘩買うのはこっち。会いにくる理由なんて作るべきじゃないのよ、少なくとも私からは」  私は私で好きにやる、アンタはアンタでちゃんとしろ、と歌姫は五条の前髪を掻き上げた。不貞腐れた面で彼が不服そうに瞬きをする。その動作は普段よりどこか鈍い。 「寝ろばか」  足枷になるなどまっぴらごめんだ。この男が他人相手に遠慮も譲歩もしないことはおおよそ知っているし、休むべき時には歌姫の存在すら気にも留めず休むのだろう。歌姫が理由をつけようが心配しようが無頓着にしようがお構いなしに。  だからこれは歌姫の自己満足だ。  この身勝手で胡散臭くてわかりづらい男が、万が一、億が一、歌姫に気兼ねすることなど一度だってないように。 「……回りくど」 「アンタに言われたくないわ」  甘え方も知らない男が。  深く息を吐き出した五条が再び歌姫の首元に撃沈した。気だるげに擦り寄るその頭を先何ヶ月分かの優しさでもって撫でつけようとした矢先、べろりと眠気も色気も吹き飛ぶほど無遠慮に舐め上げられて歌姫はまんまと悲鳴を上げる。 「ぎゃあふざけんな今完全に寝る流れだっただろ」 「いやあ、なんだかんだ愛じゃん思ったよりちゃんと僕のこと好きじゃん歌姫って思ったらなんかこう」 「や、ちょっとどこ触って」 「ぐっときてむらっときちゃった」 「ざッけんな」  そうして先とまるきり同じ流れを辿る。  甘やかさの欠片もない抗議をねじ伏せるように五条がねちっこいキスをして、歌姫の抵抗をも軽々抑え込んでやり場のない熱を煽る。先刻と違うのは今度こそ五条に遠慮も容赦もなかったという点だ。好き勝手に掻き乱しながらちょっと疲れてて余裕ないかもとふざけたことを抜かすので、寝ろっつうの、と本末転倒を絵に描いたような台詞を吐き捨てた。
(2020/12/09)
滅多にない地上波というのでNFL出してますが地上波ないです。深夜もないです。スーパーボウル(年イチ)しかないです。どうなってんの?

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