偏嫌気取りと二枚舌
 はるばる京都まで仕事で訪れたという五条に、どうせ暇でしょとおちょくられてまんまと飲むに至った。それがすべての発端だった。  出張先での愚痴を適当にあしらって、教え子たちの惚気かと思いきや結局鬱陶しい自慢話だったのでそれもあしらって、甘ったるい酒に飽きたのか歌姫の酒に伸びてきた手を払いのけて、気がついたら終電がなかった。 「あーらら。帰れないじゃん歌姫」 「アンタもでしょうが」  というか誰のせいだ。  ほどよくアルコールの回った体に夜風が心地良い。帰宅を諦めて始発まで適当に時間を潰すという選択肢もあるにはあるが、体力と気力の無駄だと珍しく彼と意見が一致してさっさと店を出た。あと五年若ければ頑張れたかもしれない。  駅前のタクシー乗り場は終電に愛されなかった不憫な大人たちが列を成している。  だるいな、と並ぶ時間を計算するのも億劫で、歌姫はひとまず五条の帰る先を確認することにした。 「アンタ今日どこに宿とってるの」 「え? ないしょ」 「もういいしらん」 「もー短気なんだからー。別にどうとでも戻れるよ、歌姫歩く気でしょ」  すでに歌姫は駅に背を向けようとしている。  だからなんだ、と睨むように問うた視線の先、五条がへらりと両手を広げた。 「送るよ」  彼なりの誠意か。それはそれで胡散臭い。  歌姫はかろうじて舌打ちを我慢して、すきにしろ、と匙を投げた。 ***  まばらだった人影が足を進めるにつれてさらに減り、他人の体温を孕まぬ空気は思ったよりも冷えていたようで酔いも順調に醒めていった。隣を歩く男の足取りもすでに普段と変わらない。そもそも酔っていたのかどうかすら怪しい。日頃の言動のほうがよほど酔っ払いに近い男を相手に、自分ばかり酔っていたと思うとそれはそれで面白くない歌姫である。 「歌姫髪伸びた? あー、伸ばしてる? もしかして男できた?」 「いちいち人のプライベートに踏み込んでくんな」 「僕と歌姫の仲じゃん!」 「ウッザ」  わざとらしい決め顔を一蹴してスマートフォンを見る。零時半。口悪いとモテないよ、と五条が尚も絡んでくるが歌姫は無視をした。  通知が数件あったが緊急の用件がないことだけを確認して端末を仕舞う。面倒な業務連絡もついでに後回しにした。人といながらスマートフォンばかりいじる行為が歌姫はあまり好きでない。たとえ相手が気に食わない人間であろうと。たとえ相手が五条悟であろうと。 「で、男は」 「は?」  五条を見上げる。スマートフォンを仕舞うまでの一連の動作を見ていたらしい彼が、いるのいないの、と答えを催促した。何だと言うのだ。 「いたらこんな時間まで付き合ってないわよ」 「ふうん」 「なに、それだけ?」 「え? いじってほしいの? なんだ、歌姫も満更でもないんじゃん」 「アンタのそれ何なの? ポジティブ? ばか?」  ポジティブポジティブとへらへら応じる五条はやはりそれ以上掘り下げる気はないようで、普段であればここぞとばかりに絡んできそうなものを、と歌姫は妙に突っかかりづらい。 「アンタだって特定の女作んないでしょ」 「まあねー、めんどくさいし」 「めちゃくちゃ癪だけどわかるわ」 「歌姫さあ」  さらりと。  おもむろに歌姫の髪が揺れた。まるで夜風にくすぐられたかのようなかすかな感触、けれどそれが五条の指先であったことを、彼の動作を汲まずとも歌姫は悟った。  そういうことをする男だ。  脈絡も遠慮も配慮もなく、だれかに、核心に、触れたりする。 「なに」 「失恋しても髪切ったりしないでね」 「しねえよ」  そんな女々しい真似してたまるか。  よろしく、と妙な念を押した五条はそれきり満足したらしい、歌姫に触れたことなどなかったかのようにばかでかい欠伸をして、でもそれ仕事中邪魔そう、と余計な口を叩いて歌姫の罵倒を誘った。 ***  気が付いたら結局ドアの前まで送られていた。  彼が言い出したこととは言えさすがにばつの悪い歌姫である。スマートフォンを見ると一時近くで、歌姫は鍵を開けながら上がっていくかと後ろの男に問うた。 「タクシー呼ぶわ。待ってる間お茶くらい出せるけど」 「わお、歌姫大胆」 「話聞いてた?」  すでに発言を後悔している。お茶程度のなにが大胆だ。 「ていうか本気? 危機管理能力どうなってんのさ」 「どうもしてない。上がるの上がらないの」 「歌姫ばかなの?」 「はあ!?」  声を荒らげる歌姫に五条は人差し指を立てて、近所迷惑、とのたまう。もういい勝手にしろと歌姫は本日ふたつめの匙を投げてドアを開けた。お邪魔しまあすと背後から呑気な声が聞こえる。ああ畜生、言わなければよかった。  施錠の音がする。  電気をつけながら、律儀か、と五条を振り向いた矢先、ぐいと両手で頬を引き寄せられた。 「——何」  距離が。おかしい。  サングラスのむこう、蒼いはずの双眸が強く歌姫を射抜いて、それはまるで知らぬだれかのようで、歌姫は知らず身を強張らせた。見慣れぬ瞳がゆっくりと瞬きをする。歌姫は瞬くことすらできない。  五条悟に緊張している。  庵歌姫にとって初めてのことであった。 「五条?」  首がつらい。  こわいほど凪いだ視線をゆらりと揺らして、はあ、と五条は盛大に溜息をついた。 「あーやだやだ。歌姫にぶすぎ」 「あ?」  先までの緊張感をぶん投げて人の頬で遊び始める五条である。  歌姫はさすがにかちんときた。馬鹿はどっちだ、と掌を握り締める。  この男はいつもそうだ。  自分だけがすべてを知った気になって不確かな境界線を一方的に引いて、いつだって歌姫にはその境界線すら見せやしない。他人への情報を勝手に寄越して勝手に捨てて、そのくせ自身のことはすべてうやむやにしたまま。  ひとを小馬鹿にして諦めでもつけているのだろうか。  そういうところが本当にきらいだ。 「ナメんな」  歌姫は五条の胸倉をつかんで思い切り引いた。  彼が躊躇した一線。それを軽々超えて腹立たしい口を塞ぐ。触れた唇づてに五条の動揺が伝わって、ざまをみろと歌姫は胸倉を突き放した。 「アンタのそういうとこ大っ嫌い」  ぐいと口元を拭う。  は、と間の抜けた声が落ちた。五条の声である。いくらか胸のすいた歌姫は満足がって彼の間抜け面を見上げて、見上げたはずが、けれどそこにあったのは五条のうすら寒く歪んだ口元であった。  おそらくだが笑っている。 「……歌姫さあ」  五条の手が伸びてくる。身構える暇すらなく頬を抑え込まれて、見たこともないほど獰猛な瞳が迫った。 「やってくれるじゃん、僕を出し抜くなんて快挙だよ快挙。ナメるなとか言ってた? いや実際そうだけどほんとそういうとこだよ、言っとくけどそれ地雷だから」 「な、んの話」 「僕の台詞だって言ってんの」  咄嗟に逃げを打つ歌姫の後頭部を抱え込んで、五条は躊躇も動揺もかなぐり捨てて歌姫の唇を食らった。  遠慮もへったくれもないキスだった。鬱陶しいほど軽薄な唇が歌姫のそれを押しつぶし、鬱陶しいほど饒舌な舌が歌姫のそれを籠絡する。くるしい。呼吸すらままならぬキスに歌姫は重心を見失って、おそろしく屈辱的なことに気付いたら五条に縋り付いていた。 「ん、ぅ……ッ」  おののく歌姫を五条はまるで意に介さない。理性など遠く投げ捨てたらしい彼は歌姫の声を引き摺り出そうと執拗に口腔をねぶる。  理性。  一応わきまえていたのか。あれで。 「し、つ……こい!」 「いて」  とうとう根を上げて歌姫は五条の顔を押し返した。  いや情緒なさすぎ、と文句を垂れる五条の声は、一瞬前の情動が信じられないほどに薄っぺらい。 「歌姫泣いてる? 泣かせた?」 「泣いてねえよ、盛んな」 「けしかけてきたの歌姫じゃん」 「アンタの余裕ヅラもこの程度ね」 「はーよく言う、余裕なかったくせに」  意外と上手かった、と負け惜しみを口にすると誰と比べてんのと低い声が返ってきた。余裕がないのはどちらだ。歌姫はしらける。 「あー、タクシーまだ呼んでないよね? 呼ばなくていいから」 「それ泊めてって言ってんの? ほんと図々しいわね」 「むしろこの状況で帰れってどういう拷問?」 「なら帰れ」  結局タクシーは呼ばなかった。  その後部屋のセンスの有無でひと悶着あって、この調子では色気もなにもあったものではないと早々に見切りをつけていた歌姫は、それもまた詰めの甘い考えでしかなかったことを思い知ることとなる。
(2019/10/26)
これを書いたころ世の中はまだなんとかの呼吸で盛り上がってた時代でマイナーなジャンルだったんですよ。イナゴじゃないんですよ。関係ないけど終電ネタ上達してる。

back