色めく自供
 浮気だ、と出会い頭に指を突きつけると顔面にぐうが飛んできた。  賛否はともかく一応歴然たる大人である。五条とて浮気云々が第一声として常識及び配慮に欠くことは理解しているし、気がついたら口走っていたというだけで彼女の怒りを買うつもりは毛頭ない。否、毛頭は言い過ぎた。 「挨拶しろ!」 「あ、そっち?」  けれど口より先に手が出る彼女も彼女だ。  夜蛾への遣いで歌姫が上京する旨を五条は硝子から聞いていた。  彼女を慕う同僚はあまり構いすぎるなよとほぼ形式だけの忠告をして、わかってるってと五条もその形式にのっとる形で無意味な返事をした。彼女に絡む絶好の機会をどう逃せというのだ。引率の身ではなく単身と聞けば尚更だ。  実際夜蛾への用を済ませた歌姫を待ち伏せて、げ、と露骨な顔をした彼女に早々に機嫌を上向かせていた五条である。術師で指導者という気難しい立場にありながら彼女の感情はいつもストレートで単調で心地いい。裏も表も打算も飾り気もなく、ひとによっては直情径行と呼ぶその性分を五条はいたく気に入っていた。今だってその神経をどう逆撫でしようかと策を練っていた矢先である。  彼女の首元に赤い痕を見た。 「ひどい、僕というものがありながら」 「なにそれ妄想? 夢? こわい」 「機嫌わっる」  歌姫の鉄拳を難なくかわした五条は口元を抑えて、ああだめだ傷ついた、とひとり茶番を続ける。僕とのことなんて遊びだったんだ、と淀みなく台詞を吐いたところで音がした。  ぶつんと。彼女の脆弱な堪忍袋の緒の断ち切れる音が。 「言い方が! いちいち! 癪に障んのよ!」 「言いがかりじゃん」 「うるさいわ」 「で、結局それなに」  それ、と指した華奢な首元を、一応自覚はあるらしい、歌姫はすぐさま手で抑えた。 「む、し、さ、さ、れ」 「うわー常套句」 「歯ァくいしばれ」 「当たんないって」  彼女が眉を吊り上げる。続いて繰り出されるであろう文句を五条は当然のように待った。進歩のひとつも感じられぬ罵倒を、あるいはそれを飛び越えて繰り出される鉄拳を。  けれど彼女はすべて飲み込んでしまった。喉元まで出かかったはずの言葉を、どういうわけか聞き分けよく嚥下してしまう。 「……アンタにとやかく言われる筋合いない」  五条は拍子抜けする。  なんだそれは。 「ひどーい。あんなことやそんなことした仲じゃなーい」 「人聞き悪いこと言うな」 「人いませーん」  ひらりと片手を振る。歌姫は弾かれたように口を開いて、けれどやはり文句が形を成す前に口を閉ざしてしまった。突付いて噛み付く、あるいはその逆、飽きるほど繰り返した応酬にいよいよ飽きたとでも言うのか。  彼女らしくもない。  五条は行き場のない不満を持て余す。 「ていうかそれ隠すとかしなよ、なに、僕への当てつけ?」 「は? 当てつけ? なんで」 「ほんとおめでたいわー」 「はあ!?」  数秒前の努力もむなしく結局声を荒らげる歌姫である。五条は肩を竦めて彼女の不機嫌を煽って、そうしてそこにひとつの安堵を見出した。いつもと変わらぬ軽口と応酬。明日には忘れる程度の話なのだと、くだらないと一蹴してしまえるほどのことなのだと、五条は自分自身に言い聞かせるようにいつも通りを演ずる。  だってすべて五条の言いがかりだ。そうでないと困るのだ。  虫刺されには到底見えぬ鬱血痕。  そこに現実味なんてものはいらない。 「……ああ、まあ、虫っちゃ虫か」 「虫?」 「キスマ程度で所有欲満たそうだなんてやっすい男。歌姫も見る目ないね」 「だ、から」  ちがう。  本来であればその一言で容赦なく五条を撥ね付けるくせに、機嫌によっては舌打ちまでつけてくるくせに、歌姫の口から溢れたのは何か抑え込んだかのような溜息であった。 「……アンタには関係ない」  彼女にしてはずいぶん大人じみている。  ちがうだろう、と五条は焦れた。  絡んであしらわれて躱して噛みつかれて、それくらいでなければ自分たちの関係性は立ち行かない。そんな大人ぶった台詞も殊勝な譲歩もひとつだっていらないのに。  だってそれではまるで、本当にやましい心当たりがあるようではないか。 「……え? まじ?」 「なにが」 「いやいや嘘でしょ、虫刺されでしょ」 「嘘じゃないし虫刺されだっつってんの、何ひとりで取っ散らかってんのよ」  五条は無遠慮に手を伸ばして問題の赤い箇所に触れた。ひくりと身を強張らせた歌姫がセクハラだの何だのと声を荒らげて、いい加減にしろ馬鹿、と悪態をついて五条の手を振り払おうとする。五条は構わずに細い首筋を指でなぞる。  ひ、と歌姫が弱い悲鳴を上げた。  蘇る違和感。あれ、と五条は目を瞬かせる。  自分の眼球は腐っていたのか。 「……歌姫さー」  触んなと歌姫が五条を突き飛ばす。  五条の指先にはメイクの残滓が移っていた。 「……言っとくけど硝子の差し金だから、あと伊地知」 「伊地知あとでぶっとばす」  おおむねお節介と思われる硝子はともかく、伊地知に関しては十中八九個人的な意趣返しを含んでいる。日頃の行いね、と歌姫は他人事のように首筋を擦ってフェイクの情痕を落としていた。  拍子抜けである。  はあ、と五条は歌姫の腕を取った。 「僕の嫉妬を買おうなんて百年早いよ」 「は? ちが」 「って言いたいとこだけど」  脱力。  肺が空になるほどの溜息をついて、五条はぐったりと歌姫の肩口に頭を預けた。 「だめだわ全然だめ、めちゃくちゃむかついた」 「ちょっと、重い」 「歌姫泊まりでしょ、夜どうせ暇なんだから埋め合わせしてよ」 「決めつけんな、硝子と飲みにいく」  僕も行く、と駄々をこねる。絶対にいやだ、と彼女は取り付く島もない。  絡んであしらわれて躱して噛みつかれる距離。今はやや近い。五条を受け止めつつも決して身を預けようとしない彼女は、これ以上の距離はまだ早いと彼女なりに訴えているようで少し可愛かった。 「……伊地知が、たまには目にもの見せてやりましょうって息巻いてたけど」 「何ソレ」 「今のアンタ見せてやりたいわ。たまには優しくしてあげなさいよ」 「このタイミングで他の男庇うとかどういう神経してんの?」  この時点で伊地知への八つ当たりルートは確定している。  五条は歌姫の無頓着さにむしろ感心するほどであった。警戒心はあるくせにそれに満足して危機感がまるでない。今ここで抱きしめたら彼女はどうするだろう、逃げるだろうか。五条はそろりと両手を持ち上げて、ならば逃さなければいいだけの話では、とそのまま細い腰に回そうとして、結局やめた。  手ぬるい。  両手で彼女の首を押さえて噛み付いた。 「あ……ッ」  歌姫が身を竦ませる。次の瞬間には渾身の力で体を引き剥がされていて、五条はされるがまま身を離した。距離感を甘く見てまんまと噛み付かれた歌姫の顔を真正面から見るべく。今ぜったいに良い顔をしている。 「は……!? なんなの? 馬鹿なの!?」 「よっしゃ期待通り」 「聞いてんの!?」 「聞いてるって、ていうか自業自得じゃね? あー、安心して、痕つけてないから」 「そういう問題じゃねえんだよ」  痛いわ、と歌姫が唸る。そっちか、と五条は呆れた。  羞恥に潤んだ目元。朱を刷いた肌。これをほかの男の目に触れさせる、その危機感が、その焦燥が、同僚の悪趣味な目論見によりずいぶん身近にきてしまった。  ただで京都に帰してやれるほどの余裕はない。  ひとまず今日の店を硝子に聞き出そう、と五条は一方的に埋め合わせの予定をつけ始める。
(2020/01/06)

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