ありふれた没論理
目を覚ました歌姫が真っ先に抱いた感情は、冗談だろう、という悲痛きわまりないものだった。
見知った部屋である。午前五時前。カーテン越しにうっすら感じる朝の様子はすでに爽やかで、今日は天気がよさそうだ、と歌姫の重たい気分はさらに沈む。
隣の男はよく眠っている。
軽々しい言動とは到底釣り合わぬ引き締まった腕、それがこの身に絡んでいないことがせめてもの救いだ。執着らしい執着など見たくもない。
(いや、ていうか)
歌姫は頭を押さえる。頭が重たい。昨夜の酒のせいか。きっとそうだ。そうに違いない。
(勘弁してよ……)
一方で頭の冷静なところが事態を冷静かつ現実的に汲み取っていた。勘弁しろ、何を、と問われるといい大人ふたり、それも男女がベッドに寄り添って潜っているということだ。そのうち深刻な問題はふたつある。ひとつは控えめに言ってもお互い健全とは言いがたい格好であること、もうひとつは、酒に呑まれてろくな機能を果たさなかった頭が海馬ごと歌姫を見放したことだ。
要するに歌姫の記憶は飛んでいる。
歌姫はそろりと隣の男を見遣る。紛れもなく五条悟である。
彼と飲んだことは覚えている。噛み合わぬ愚痴と実のない雑談が思いのほか長引いたことも。けれどそれが何時まで続いたのか、どうやって彼の部屋に行き着いたのか、その果てに何があったのか、一切の記憶がない。というか服はどこだ。
(——逃げよう)
記憶がない。ということは答えがない。何があったにせよ何もなかったにせよそれしかあるまい、と歌姫が選んだ行動は逃亡という名の逃避であった。事態も問題もなかったことにしよう、と腹を括る。
歌姫は視線を巡らせる。行方知れずの衣服は床にもベッドのへりにも見当たらず、さてはベッドの中かと爪先で探っていた矢先に突如別の足が絡みついた。
危うく悲鳴を上げるところだった。
本能的に逃げた体を、すかさず伸びてきた腕が容赦なくベッドに引き戻す。
「おはよ。何逃げてんの」
「逃っ……げてねえわ」
「ばれる嘘なら言わないほうがいんじゃね」
「朝から喧嘩売ってんの? ほんとむかつくわね」
「あっそ、そりゃお互いさま」
背後から聞こえる声が低い。起き抜けのせいか、それにしたっていつもと様子が違う。何かが足りない。なんなの、と歌姫は動揺を押し殺す。
「なんなの、アンタも不機嫌?」
「まあね。むかついてる」
言うが早いか肩を引き倒された。なんでアンタが、と噛み付いたはずの声はほとんど悲鳴となって霧散する。歌姫を縫いとめるように覆いかぶさった彼の力は存外強く、いきなり何だとかふざけんな馬鹿力とか再びなんでアンタがとか、どの文句が適切かと選びかねているうちにばちりと五条と目が合った。
文句が立ち消える。
ああ、と歌姫は彼の声に見た違和感の正体をようやく知った。歌姫を見据えるその瞳と同じだ、そこに一切の余裕も笑みも含んでいなかった。
「——なに」
「なかったことにしようとした」
「いや、それは」
「びびって逃げようとした。ていうかあれでしょ、記憶飛んでる?」
「……ちょっと、待って、そのいかにも何かあったみたいな言い方やめて」
「うっわ」
まじで飛んでんの、と五条が白ける。あるいはブラフか。何かあったかのように振る舞っている。この男ならやりかねない。
「冗談でしょ?」
「いやそれこっちの台詞だから。とぼけてんの?」
「フザけんな、まじで覚えてねえんだよ」
「やっぱ覚えてないんじゃん」
歌姫は天井を仰ぐ。まんまと乗せられている。
「……別に、だからってアンタが嘘言ってないとも限らないでしょ」
「嘘って何? 何かあった体で話進めて最終的に何もありませんでしたみたいな? しねえよ」
「いやアンタこそやりかねないわ」
「つーか状況わかってんの? ゆうべ酒入ってて今同じベッドでなにも着てなくてこれ以上の情報ある?」
「人で遊ぶのが趣味みたいなものじゃない、アンタなら平気でここまで仕込む」
「するかよ」
労力の無駄、と五条がここで初めて笑った。最悪かよ、と投げやりに笑う。それはこっちの台詞だ。最悪にすぎる。
歌姫は屹然と五条を見上げていた。笑う五条を見ているだけでなにか不安で、それを気取られてはならない、と虚栄を張る。彼の笑い方は嘲笑じみているが、歌姫にはそれが自嘲にも見える。
「あのさあ、言うけど、歌姫だって馬鹿じゃないでしょ。もう答え出てんじゃないの」
「……なんの話」
「記憶ないなりに察しついてんでしょって話」
「なにそれ、アンタの出まかせから何を察しろって言うの? 別に私は——」
「じゃあなんでそんな怯えてんの?」
はく、と歌姫は口を閉ざした。
五条の瞳は凪いでいる。人の痛いところを、デリカシーなどぶん投げてこれみよがしにつついて面白がるような男が、まるで歌姫の情動を探るかのように。
「何にびびってんの? 誰にびびってんの? 僕が言ってんのは全部嘘なんでしょ? 痛くも痒くもない冗談なんじゃないの?」
「う、るさい、びびってない」
「ばれる嘘なら言わないほうが」
「うるさい」
いやこれさっき言ったな、と五条のとぼけた声が耳を通り抜けてゆく。うるさい、と繰り返した声は自分でも嫌になるほど弱かった。
歌姫は奥歯を噛み締める。思い出してはいけない、と本能が警鐘を鳴らす。仮にこの男が冗談など言っていなかったとして、仄めかされることがすべて本当だったとして、それでも自分にとってそれらは事実であってはいけないのだ。何もなかったかもしれない、その可能性に縋っていないと。
仮に、と歌姫は自身の思考に戦慄する。
仮に。警鐘。事実であってはいけない。その、可能性。
五条は怯えていると言った。
そうだ、たしかに、それは意識下にめぐる確信でもある。
「あのさあ、歌姫」
「待って、ちょっとまって」
「言っとくけどぜんぶ無駄だから」
「黙って——」
「だって僕はぜんぶ覚えてる」
そのとき五条の指が歌姫の頬に触れた。頬を辿る指先、添えられる手のひら、無駄に長い指がそのまま耳殻を掠めて、髪に絡む。
かっと体中の血が沸いた。迫る五条はいつの間にか笑うことをやめている。この瞳も、この感触も、知っている。など。
「——うそでしょ」
うそだ、と歌姫は食って掛かった。だってそんな現実はいらないのに。その双眸も、その声も、どうしていつもみたいに薄っぺらく笑っていないのだ。
「ありえない、絶対うそ」
「じゃあ鏡でも見てくれば」
つ、と五条の指先が鎖骨のふちをなぞった。思いのほか繊細な手つきで、肋骨をかすめて、胸元へ。
「痕」
「——ふざけ」
「なんなら僕の背中でもいいけど。たぶん爪痕残ってる」
「絶対いや、絶対見ない」
「歌姫さあ」
彼の表情かあるいは自身の記憶の残滓か、目を合わせていると何かしらの痕跡を見つけてしまいそうで怖かった。目を瞑る。耳を塞ぐ。息で笑った五条が、餓鬼かよ、と笑う声がかすかに聞こえた。
「何が怖いわけ?」
有無を言わさぬ手つきで五条が歌姫の手を取る。
歌姫はうすらと目を開いた。眼前にある蒼い瞳はずいぶん穏やかで、そんな目で見るな、と無性に泣きたくなる。
「……なんでアンタは平気なわけ」
「別になにも怖くねーもん」
「なにもって」
「後悔することも、後悔されることも、執着することとか傷つけることとか、これからのこととか」
執着と葛藤。それは今まさに歌姫が持て余しているものでもある。
手に負えない情報と感情。処理しきれないそれらを、けれどこの男は何でもないことのように並べ立ててしまえるのだ。そうして瑣末なことだと笑う。ほんとうに嫌な男だ、と歌姫は顔を歪める。
「……私は、ぜんぜん、平気じゃない」
「後悔してんの?」
「してる。してるに決まってる。なんでよりによって私?」
「なんでって」
「ただの腐れ縁じゃない。ただの先輩でただの後輩じゃない。たまに顔見て絡まれてあしらって、たまに飲んで、それで充分なのに」
まずい、と歌姫は深く息を吸う。自分でもわかるほどに、声が危うい。
「変わりたくないって思うことの何がいけないの」
歌姫は腕で目元を覆った。逃げ出したかったことも、思い出したくなかったことも、そうしなければ何かが変わってしまうと知っていたからだ。
たくさんのものが変わった。たくさんの同胞が死んでたくさんの同胞が裏切って、たくさんの同胞が去っていった。残った者だって拠点を変え肩書きを変え背負うリスクを変えてゆく。適応していくほかない世界の中、それでも長いこと彼との関係だけは変わらずそこにあったのだ。こいつほんとうに相変わらず清々しいほど安定してむかつくな、というささやかな不変に縋ることの何がいけない。
人はそれを執着と呼ぶのだろう。
変わりようのない彼との関係にいつまでも執着している。
「何を今さら」
だというのに五条は何ひとつ頓着せずに笑うのだ。
「もう遅いって。とっくに変わっちゃってるよ、僕も歌姫も」
「聞きたくない」
「だって逆じゃん、変わりたくないとか思ってんのって変わっちゃったからでしょ。直視したくないだけ。だからびびってる」
おもむろに腕を掴まれて視界が開けた。泣いてんの、と聞き慣れた軽口を叩くので、泣いてねえよ、と歌姫も仕方なく応じる。五条は満足げに笑っている。
「痕つけんなって怒られたしふつうに声我慢してたしキスがくどいとか文句つけてきた、それでも最後まで僕を拒まなかった。それが答えでしょ」
「答え、とか、そんなの」
「変わったとこでなにも変わんないよ。怖がることないよ、歌姫」
果たして数時間前の自分は彼と同じ答えを出したのだろうか。
勝手なことを、という言い慣れた文句は五条の瞳に呑まれて形を成さなかった。かぎりのないような深い瞳が歌姫の虚勢も虚栄も意地もなにもかも飲み込んでしまって、無力と化した歌姫の唇を彼は難なく掠めとる。抵抗がないと知るや今ひとたび、ふたたび、と角度を変えて口づけに興じるので、たしかにくどいな、と心当たりのない文句に自分で頷いてしまう。考えてみれば五条は記憶がないことに落胆はすれど詰りはしなかった。彼は彼で彼なりの執着と葛藤があったのかもしれない。いやないな、とこのあたりで歌姫は匙を投げた。
「——あ」
ふつりと。そのとき唐突にフラッシュバックした。
暗がりの息遣い。じかに触れる手のひら。声、と手短かにねだる低音。思い出したなどという確かなものではない。断片的なシーンと感触。時系列もまばらなそれらの中、たしかに自分は、五条に抱かれた。
まじか、と歌姫以上にその表情をしていたのは五条のほうである。
「まじ? このタイミングで思い出すの? 今?」
「私が言いたい……」
「いやどう考えても僕の台詞でしょ」
最悪かよと先にも聞いた悲嘆が今度は耳のすぐそばで聞こえた。歌姫の肩口に撃沈した五条が、つーかまじで飛んでたのかよ、と愚痴をこぼして、首元に歯を立てる。
思い切り。
「いっ……!」
「答え出たの」
「か、げんを! 考えろ!」
「ああ、出てんじゃん」
ほら変わんない、と歌姫の罵声を受けた五条がへらへら笑う。ほんとうに相変わらず清々しいほど安定してむかつく笑い方である。なんだか久しぶりに見た気もするけれど。
最悪すぎる、と歌姫は今度こそ吐き捨てた。自業自得じゃんとのたまう五条の顔を引き寄せて、今さら余裕をひけらかす彼の唇に歌姫のほうから噛み付いた。
(2021/01/23)