送り狼と紳士的妄言
 だいたいさあ、と五条は前を歩く背中に愚痴を吐く。 「酒のなにが美味しいわけ? 僕からすれば苦いだけでぜんぶ同じ味なんですけど、特にビールとかまじで理解できない」 「あれは味じゃなくて喉ごし」 「それもしぬほど聞いたわ、余計わかんないわ」  傍らの線路を電車が通り抜けてゆく。靡く髪を押さえながら、歌姫は思ったよりもしっかりした足取りで夜道を歩く。終電前にもかかわらず一駅歩くと言い出した時は出たよこの酔っぱらいと辟易したものだが、ここにきてこれはただの上機嫌か、と五条は思い直している。 「挙げ句一駅歩くとか。付き合う身にもなってくれない?」 「べつに付き合えだなんてひとことも頼んでないけど。ていうかアンタにだけは言われたくない」 「そんなふわふわした状態でどう見送れっての」  硝子に捌かれるわ、と五条は舌を突き出した。泥酔ともなれば送るほかないという一択のみで話も簡単だが、選択肢がいくつかあってそのうち何を汲んでどう選択するかという話になると女は厳しい。少なくとも歌姫が絡んだ際の硝子は怖い。   一方選択肢も何もなくほろ酔いの気分だけで夜道を行く歌姫である。彼女は怪訝そうに振り向いて、なんで硝子、と人の気も知らずに首を傾けた。 「なんでってそういうことでしょ」 「むしろひとりで歩いたほうが気分いいわ」 「いやそういう問題じゃないから。ていうか危機管理能力どうなってんの? 酒に溶けたの?」 「あるけど」 「ねえよ」  どこにだよ、と五条はそろそろまともに相手をするのが面倒になってくる。 「そうやって平気で送らせて相手が送り狼だったらどうするわけ? つーかこれ僕って時点でアウトだよアウト、ふつうに上がり込む気でいるけどわかってんの? 大丈夫?」 「アンタしらふでしょ」 「うわもうまじで覚えとけよ」  牽制のつもりか。素面を舐めないでもらいたい。というかむしろ男は飲んでないほうが、と殴られること請け合いな主張を挟もうとした矢先、ふいに歌姫の体がぶれた。  歩道のわずかな段差である。無防備によろけた彼女の腕を掴んで、五条はやれやれと重心の危うい痩躯を支える。 「ほらもうこれだよ、男も引くくらいの泥酔ならいいけどさあ」 「は? 逆でしょ?」 「わかってないなー、そういうとこだって、今の歌姫隙だらけでやばいよ」  正直言って危なっかしい。ただの酔っぱらいならまだしも日頃の毅然とした面影が残っているあたり余計に始末に負えないのだ。強情で口が悪くて感情的だがぶれぬ庵歌姫という原型を保ちながら、少々甘い呂律で身勝手な持論および気分で自由に振る舞う彼女がここにいる。これはなんというか本当によくない。一種のテロだ。 「ちょうどよく酔うのやめてほしい」 「なに、アンタの前だけとでも言ってほしいわけ?」 「言ってくれんの?」 「アンタの前だけよ」  がつんと弩級の衝撃が頭にぶつかった。  ほろ酔いの口で言っていい台詞ではない。声や呂律に滲む甘さがいまだ脳髄に余韻を残して、うわ、と五条はうっかりその場に屈み込みそうになった。テロだ。 「うっわ! もうまじ! 覚えとけよ!」 「近所迷惑」  声落とせ、とたちの悪い酔っぱらいはどこまでも他人事である。  するりと五条の手から抜けた歌姫が再びゆるゆる歩き出した。その腕を引っ掴んでやろうかとも思ったが酔っぱらいにがっついてもな、と虚しくなってやむなくほろ酔いのペースに歩調を合わせる。懊悩する五条をよそに気分のよさそうな足取りである。一駅長えな、と不憫な独り言は遠くの踏切の音に掻き消されて終わった。
(2021/04/29)

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