there, there
 歌姫は無事だと、硝子が五条に伝えたのはそれだけだった。 「かいつまみすぎじゃない? 合理的だけどさ」 「同行した監督補佐がこの惨状だよ、他に言えることなんてあるか?」  検死台に横たわる同胞を見下ろして五条は頭を掻く。顔くらいは合わせたことがあるがその情報はまるきり役に立たず、五条は硝子から名前を聞かされて初めて眼前の死体と生前の顔が一致した。見る影もなかった。同じ任務に当たったというもう一人の術師に至っては死体すらない。  歌姫は無事だった。  動ける、生きている、治療が間に合った、という点ではたしかに無事と言っていいだろう。けれどそれだけだ。他二名が死体となり自分だけが生還した事実を、いかにも背負い込みそうな彼女が消化しきれるかという点ではおそらく無事とは言い難い。浮かぬ顔をしている同僚もどうせそれくらいは気づいている。 「で、歌姫は?」 「宿舎で休んでるよ、学長が空き部屋を手配してくれた」 「ていうかこれで無事って言っちゃうの? 硝子ドライすぎじゃね?」 「先輩だってひどい有り様だったんだ。私は治療をした、あとは管轄外だ」  なにも話してくれなかったと、硝子は長い溜息を吐いた。  管轄、と五条は無機質な言葉を舌に転がす。他人の情緒など誰が預かれるというのだ。不毛かつ傲慢な見解。それでも五条は歌姫を放ってはおけない、放っておきたくもない、当然のように居座る彼女への情動のほうがよっぽど始末に負えない。 「めちゃくちゃ怒られそうなこと言っていい?」 「なんだ今さら」  硝子が無頓着に先を促す。  五条はかろうじて人とわかる同胞を見下ろした。 「歌姫じゃなくてよかった」  傲慢とでも欺瞞とでも言えばいい。それでも五条は目の前に横たわる人間が彼女でなかったことにただ安堵している。  硝子は少し黙したのちに、不本意だけど、と息を吐きながら応じた。 「私も同じだ」  硝子が自嘲する。先輩じゃなくてよかった、と目を伏せる。 ***  歌姫は案の定ひどい顔をしていた。  どうもあなたの可愛い後輩五条くんです慰めにきてあげたよどうせ泣いてんでしょ歌姫開けて、などと、扉越しに彼女を煽る言葉はいくらでも用意できたが結局やめた。彼女は一度強がると存外頑なだ。ここはストレートかつスマートに、歌姫いるの、起きてる、と年齢相応の声掛けをした。返事はなく、返事のかわりにじかに扉を開けにきた歌姫が、上述の通りひどい顔を覗かせた。 「顔色ヤッバ」 「うるさい」  その声だっていつもより格段に歯切れが悪い。彼女の顔は白く、悪態に付随するはずの表情も乏しく、気力も体力も消耗しきった剣呑な目元が顔色のひどさを際立たせている。しにそう、と顔色を指摘すると、死にかけたんだよさっさと帰れ、と彼女が踵を返した。  五条は遠慮なく室内に滑り込む。本来住人のいない部屋はひどく殺風景だった。 「何の用? 硝子からぜんぶ聞いてんでしょ、今アンタの相手してやる余裕ないんだけど」 「聞いた聞いた。歌姫参ってんだろうなって思って泣き顔見にきた」 「泣いてねえよ」 「泣いてないけど期待通りの顔してんじゃん、いやーさすが僕、ぜんぶお見通し」 「五条」  歌姫が頭を押さえて五条を遮る。重たい溜息。余裕がないと彼女が告げた通り、取り繕うことを忘れられた剥き出しの苛立ちだった。 「わかんないけど、アンタなりの気遣いなんだろうけど、アンタの言う通り今回ほんとに参ってんの。お願いだから放っといて」 「やだね」 「アンタまじで何しにきたわけ」  何って、と五条は笑う。何と返せば彼女は満足するのだろう。慰めにきた、励ましにきた、どう答えたところですべて突き返すくせに。 「同行したの一級術師だっけ? 歌姫のほうが無事なんてとんだ皮肉じゃん、ていうかよく生きてたね」 「話聞いてた? さっさと出てけ」 「あー、痛いとこ突くなって顔してる。どうせくだらないことうだうだ考えてんでしょ、なんで自分が生きてんのかとか本来自分が死ぬべきだったかとかくらーいこと」 「わかったような口を——」 「は? 図星じゃん。いかにもって感じ、弱っちい人間の思考パターン」  慄くように肩を震わせた歌姫が、その感情を偽るように五条を強く睨みつけた。傷付いた、揺らいだ、それらの不安定な感情を捩じ伏せるように。  ああ、と五条は一種の同情すら抱いた。彼女は愚かしいほどにまっすぐで頑なで、そして弱い。他人の死をそれと割り切れないほどに。人を、人の死を、自分のそれと秤にかけてしまうほどに。 「強がってんなよ、この世界にいて他人の死も受け止めきれない奴がさ」 「黙れ」 「放っといてなんて言える立場かっての、自分のこともわかってないで」  たとえばそれを優しさと呼ぶ人間がいる。  けれど五条には到底理解できない。 「歌姫は弱い」  自身の死をだれかと比較する。  それはあまりに傲慢で、残酷だ。 「——ふざけ」  ふざけるな、と歌姫が喉を震わせた。 「そうやって——そうやって格下の人間笑ってアンタはさぞかし満足でしょうね、何がお見通し? 最強様にこっちの気持ちがわかってたまるかっての、死ね五条悟」 「笑ってないけど」 「死ね!」  ここで歌姫の感情が切れた。  ぼろ、とこぼれ落ちる涙を五条は黙って見ていた。歌姫は悔しげに唇を噛んで顔を伏せてしまう。飽和した感情の行き場が見当たらず、しね、ともう一度くらい投げつけられるかと思ったが彼女も限界だったらしい。  その言葉に傷ついたのは歌姫のほうだ。  常に死と隣り合わせにいる彼女が、現実の重みを知る彼女が、どれほどの悪態を五条に吐こうとその言葉だけは口にしないことを、五条は知っている。 「——触るよ、歌姫」  返事を待たずに痩躯を引き寄せる。ゆらりと五条の腕に収まった歌姫は、肩を縮こませるようにして嗚咽を殺していた。 「歌姫の気持ちなんか知るわけないでしょ、わかるとも思ってないし、ぶっちゃけ関係ないし。ていうかわかってないの歌姫のほうだし」 「ほんともうアンタってきらい」 「実力も、運だってさあ、歌姫にはちゃんとあるわけじゃん、一級に及ばないからって何? 自分の力を実力以上に高く見積もって死ぬよりずっとましだよ」  結局のところ彼女がどの感情を持て余しているのか五条は知らない。同胞を死なせた無力感か、ひとり生還した後ろめたさか、力が足りぬ自分への後悔や罪悪感、悔しいことと悲しいこと、あるいはその全て。  どれだって真っ当な感情だ。当たり前の傷だ。なぜ彼女はそれすら自分に許さないのだろう。 「泣く資格ないとか思ってる? そんな立場じゃないとか? 歌姫が弱いのってこういうとこなんだよ、理屈で片付けて弱い感情見ないようにすんの」 「うるさい」 「歌姫の傷だろ。歌姫の感情で泣けばいいじゃん」  うるさい、と繰り返された声はひどく力なかった。  それきり五条を突き飛ばす気力もなくしたらしい、大人しくなった彼女の頭に頬を寄せて、わかってないのはどっちだ、と五条は息を吐く。無力感に晒され罪悪感に苛まれ、歌姫は今たしかにつらいだろう。けれどそれが何だと言うのだ。無残な死体、なにも残らぬ死に目、それを他人に押し付けてでも生きていてほしい、それほどの感情を彼女はどうせ知らない。知ろうともしないくせに。 「はー。ほんと不毛」 「……なに」 「僕も硝子もモラルとかどうでもいいんだよね、歌姫にはどうせわかんないけど」 「なんの話」 「不謹慎な話」  今だって彼女の声を心待ちにしている。いつもだろ、と不愛想で殺風景で愛してやまぬ憎まれ口を。  五条はけぶるように笑う。 「死んだのが歌姫じゃなくてよかった」  ふつりと口を閉ざして、歌姫はそれきり何も言わなかった。五条もおおむね言うことを言ってそれ以上口を開く必要性がない。  ある種ひどく残酷なその言葉を、けれど彼女は彼女なりに汲み取ろうとしてくれていた。日ごろ五条の身勝手を叱責あるいは罵倒する一方、今こうして突きつけられた五条のあけすけな執着を無下にすることもできない。そういうとこなんだよな、と五条は彼女の顔をぐいと上向かせる。 「ふ、ざけんな見んな」 「なんで?」 「……いい年して泣き顔晒すとか」  ぐず、と鼻を啜る歌姫がばつが悪そうに目を逸らす。  まるで聞かん気ばかりの子どもである。泣き顔よりもその振る舞いのほうよっぽど稀有というか貴重というか、おそらく怒られるだろうが男心に効果は覿面で、五条はうっかり撃沈しかけた。 「……大丈夫かわいい」 「頭大丈夫か?」  おおむね大丈夫ではない。  歌姫が居心地悪そうに身を捩るので五条はやむなく泣き顔を諦めて彼女を抱きしめ直した。離れたがる痩躯をやんわり抑え込む。この五条悟がわざわざ慰めにきてやったのだ。今すこし欲張ったっていい。 「いやー、ぶっちゃけ弱みにつけこんで手出しちゃおうかなとか思ってたんだけどさあ、泣いてる人間相手じゃさすがにあれじゃん」 「しらねえし聞きたくねえしいちいち口にすんな」 「硝子になに言われるかもわかんねーし、ていうかどっちかっていうと僕泣かせたいし」 「興味ないわ」  泣いた名残であろう、少々鼻にかかった声で歌姫は切れ味鋭い応酬をさくさく投げて寄越す。口先だけはだいぶ彼女らしくなってきた。いくら切り刻まれたところで痛くも痒くもない五条はむしろ鼻声かわいいなと沸いているくらいで、正直彼女の言い分もたいして聞いていない。 「だからいっぱい泣いていいよ、歌姫」 「泣くかバーカ」  かえれ、と歌姫が腕のなかで吐き捨てる。はいはいと五条は拙い悪態ごと抱きしめて、言葉とは裏腹にいっかな顔を上げぬ歌姫の頭上で息を吐く。泣きやんだらね、と成長のない応酬とともに釘を刺して、気取られぬよう意固地な頭に唇を寄せた。
(2020/02/11)

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