かたらずの雄弁
 早朝のアラームを止めたのは福門だった。  相澤のスマートフォンである。カーテンの隙間から差し込む陽光に呻きながら、もそもそと音源を引き寄せる彼女はどうやら彼女自身のスマートフォンを想定していたらしい。やかましいバイブ音を止めた端末がいまいち手に馴染まず、あれ、とふやけた声で呟いた。続くようにして今度は彼女のスマートフォンが鳴り出す。 「あれ? 着信? おまえアラームなんか使うっけ? 止めちゃったけど」 「いいからそっち止めろ」  福門からスマートフォンを受け取りながら、無視を決められる一方の彼女の端末を押しやる。朝から騒々しい。  そもそも着信なら音が鳴る。時間になれば否が応でも目が覚める職業病のおかげで滅多に使わぬアラーム機能について、使い方知ってたんだな、と欠伸交じりに軽口を叩く彼女もおそらく、着信を一方的に切ったという可能性を早々に捨てている。 「で、なんでアラーム」 「しらん」  心当たりがない。  残っていた通知からアラーム画面を開いてようやくその正体が判明した。鬱陶しい絵文字とともにアラームを設定したのは間違いなく同僚たるナントカひざしという男であろう。 「マイクの仕業だ」 「なにそれうける、嫌がらせにしちゃ地味じゃない?」 「嫌がらせっつーか」  浅葱色の頭を眺める。天気とトップニュースをざっくり確認している彼女はすでに他人事で、なるほど他人事か、と相澤は面白くない。 「俺も忘れてた」 「へえ、なんか用事とか? 珍しいな」 「賭けるか?」 「なにが」 「今日中にあてたら指輪でもくれてやる」 「え、まじ?」  情緒ねえなと笑う彼女がうんと伸びをして、いよいよ起きるかと思いきや再びベッドに突っ伏した。彼女の手中でスマートフォンが鳴る。容赦のないスヌーズ機能に彼女が呻き声を上げる。遅刻するぞと言い置いて、相澤はさっさとベッドから抜け出した。 ***  古紙回収、と歯ブラシをくわえながら福門がもごもご訴える。  相棒はちょうど情報番組から情報番組へとチャンネルを流していたところで、無視を決め込もうかとも思ったがそもそも今日中に云々と命題を投げかけたのは相澤のほうである。仕方なくリモコンを置いて振り向いた先、彼女は根拠もないだろうに得意げな顔をしていた。面倒くさい。 「おまえゴミ出しくらいでアラームかけんのか」 「やりそうじゃん。私はやらないけど」 「マイクの仕業だって言っただろ」 「同棲でもしてた?」 「せめて同居にしろ」  六点、と一方的に突っ込みの採点をして気を済ませた彼女がすたすたと去っていく。突っ込む案件はいくらでもあったが面倒になって相澤は諦めた。  ニュースではちんけな犯罪者が往生際悪く逃走している旨がフリップつきで解説されている。昨日から現在に至るまでの逃走ルートは福門の職場近くで、彼女が珍しくアラームなどかけていたのはこの件による。アラームそのものはマイクのおかげで無意味に終わったが不憫な教師陣は朝から会議とのことで、ご苦労なことだ、と相澤はゆうべ同情しつつも最終的には他人事にした。 「だいたい会議って言ってもさあ」  口を漱いだ福門が欠伸をしながら戻ってくる。 「今さらじゃない? 対敵したとこでやること変わんないし」 「メディア対策」 「おまえに言われるとなんか腹立つな」  キャスターが逃走犯の名前と個性を声高に発信していたが彼女は無頓着で、今日寒そう、と左上の天気予報が切り替わるのを待っている。天気よりもその隣の時計を見たほうがいい。 「おまえ時間は」 「うわ、やばっ」  言えよ、と難癖をつける福門がばたばたと家を出る準備に戻っていく。騒がしい。  騒音を背後に相澤はザッピングに戻って情報を漁る。件の逃走犯についてはそれほど優先度の高くない扱いのようで、ほとんどのチャンネルでは別のトップニュースの特集か、すでに出回っている情報からコメンテーターたちが無意味な推論を繰り広げているだけだった。  相澤はのそりと立ち上がる。  特番の予約、と投げかけられたアラームの答えを違うとあしらって、相澤は彼女の髪をくんと引いた。 「ん? なに? いってきますのちゅう?」 「いらん」  いらないのかよ、と笑う福門は欠片も緊張していない。彼女は彼女で取るに足らぬ敵と判断しているのだろう、相澤も同じ認識ではあるがここまで油断しきるのもどうだ。 「気をつけろよ」 「やーさしー。珍しいじゃん、むしろフラグになってない?」 「やかましい」  無駄に終わった心配を相澤はすでに後悔している。  一方の福門は心配すんなとやはり緊張感のない声で応じて、白けている相澤にふむとしかつめらしい顔をした。一度油断かなにか祟って怪我でもしたらいい。 「DVDの返却日」 「違う」  けれど病院に駆けつける羽目になることを思うとあまりに不合理だ。  大丈夫だって気をつける、と彼女の言葉は当然のように説得力がなく、もういい遅刻するぞと相澤は匙を投げた。 ***  アラーム見たか、と昼休みに絡んできたのは案の定マイクで、どうせ忘れてると思ったんだよいいって礼なんて友達だろ云々と勝手に盛り上がっている。あしらい損ねた相澤は賑やかしい同僚をひとしきり無視しなければならなかった。  空になった栄養ゼリーの残骸をゴミ箱に放り込む。大々的に祝っちゃってもいいぜと声を高らかにするマイクを黙らせたところでスマートフォンが鳴った。  メッセージが一件。  たんじょうび、と単語が送られてきて、既読だけつけて無視をすると付け足すようにマイクの、と二件目のメッセージが飛んできた。ちがう、と簡素な返信。 「で? 今日はモチロン定時だろ? あのイレイザーヘッドがどんなロマンチックなプランをお考えで?」 「うるさい。ない」 「クール! そんなこったろうと思ったぜ、なんなら俺が一肌脱いでやろうか、誰も彼もがグッとくるようなシナリオを」 「いらん、つーかたぶんあいつ残業だ」  デミット、と叫ぶマイクの声の下でスマートフォンが再び鳴り出した。今度は着信である。流してもよかったが件の逃走犯を罵倒する同僚のほうが明らかに面倒で、相澤は電話だと一言告げて席を立った。  使用されていない来客スペースで着信に応じる。念のため耳から少し離しておくと、案の定彼女の声が爆音で届いた。 「はぴばー!」 「違うっつってんだろ」  けらけら響く笑い声を一通り待ってから、相澤は改めて端末を耳にあてる。 「で、何の用だ」 「声聞きたいかなって」 「切るぞ」 「おまえほんとせっかちすぎない?」  電話口の向こうでがさがさと書類の音がする。早死にするぞとうそぶく彼女がなかなか本題に入らないので、用件、と相澤は手短に催促した。 「あ、そうそう、プリントが何枚か見当たんなくてさあ」 「テーブルにファイル置きっぱなしだった」 「絶対それじゃん」  声かけろよ、と彼女は文句を垂れるが気付いたのが出際だったのだから仕方がない。後でメッセージを送ろうと思って忘れていた件は黙っておくことにした。  ふいに送話口が塞がれる音がして、その向こうで福門の声がくぐもって聞こえる。スマートフォンを押さえながら同僚となにか交わしているのだろう、声のトーンからして立て込んでいるらしい。案の定である。 「おまえどうせ残業だろ、急ぎなら届けるぞ」 「え、なに、やさしい。いいよ、データあるし」 「昼飯ちゃんと食え」 「ママかよ」  件の逃走犯はまだ捕まっていない。職業柄ばたついて食いっぱぐれることなどざらにあるが、あとで食べると主張する彼女もおそらく昼食の時間を取り損ねている。  福門がおもむろに沈黙して、ノート提出、とそろそろネタ切れらしい回答を寄越した。 「違う」 「だよなー」  立て込んでいる時に長電話など無駄以外の何物でもない。まったくわからんと匙を投げる彼女に飯食えとだけ念を押して、相澤は電話を切った。 ***  人騒がせな逃走犯は結局捕まったらしい。  相澤はその件をニュースで知った。福門からの連絡はなく、連絡も寄越せぬほどの状態を思うと帰りも遅くなるだろう、と当たりをつけていると案の定彼女の帰宅は日付を跨いだ。  玄関先まで出迎えた相澤に、福門が靴を脱ぎながらへらりと笑う。 「——結婚記念日」  正解、と相澤は手中の指輪を弾いた。 「終わったけどな」 「ほんとだよ、さっさと言えよ」  放られた指輪をキャッチした福門が、改めてそれを手のひらに転がして、あれ、と声を取りこぼした。一週間ほど前になくしたと散々騒いでいた代物である。 「なにこれ、隠してたの? 性格わっる」 「なくすほうが悪い」 「つーかどこにあったんだよ」 「洗濯機」  まじか、と笑う福門に反省の色はない。  相澤は息をついて彼女の頬に触れた。誤魔化すつもりか、あるいは無自覚か、笑うばかりの彼女はおそらくその表情が破綻しかけていることに気付いていない。取り繕われた笑顔のさなか、残念ながら目元に滲む疲弊の色だけが拭いきれぬまま。  顔、と相澤は指摘する。 「……あー、だめそう?」 「だめだな」  福門は中途半端な表情のまま口を閉ざして、だよな、と頭を掻く。懲りずに冗談を重ねてくるかと思ったが一日分の疲労は思ったよりも手強いらしい、早々に観念した福門がくたりと相澤の肩に頭を預けてきた。 「……あえて触れない優しさとかさ」 「しらん」 「冷てえな、お疲れの一言くらいあってもよくない?」 「だったら素直に疲れたって言え」 「つかれたよ」  めちゃくちゃ走ったよ、と彼女が愚痴る。  早朝の会議は結果として彼女の憂慮をそのまま反映した形であろう。対敵したところでやることは変わらない。学校という大きな看板を背負った手前、教師陣も安全面やら体裁やらに揉まれた中での活動となったに違いない、思えば逮捕の報道もずいぶん遅い時間帯だった。  やれやれと息を吐いて、相澤は福門の頭に頬を寄せる。 「お疲れ」  少し間を置いてから、うん、と彼女が無防備な声で応じた。 「今日忘れてごめん」 「昨日だろ」 「マイクにお礼言っといて」 「絶対にいやだ」 「——指輪」  ありがとう、と彼女の声から力が抜ける。  相澤はなにも言わずに待った。寄りかかる彼女の沈黙をも受け止めて、ひとり妙な感慨に耽りながら浅葱色の髪に指先を絡める。湿気た空気を嫌って無理にでも冗談を捻り出していた頃を思うとずいぶん成長した。笑ってなくていいと何度聞かせたことだろう、それはそれで難しいのだという顰め面も当初は新鮮だった。彼女の言い分もわかるが相澤だって譲歩するつもりはない。  弱音も愚痴も不合理も、笑っていないところだって受け止めると決めたのだ。  これくらいは寄りかかってもらわないと困る。  やがて肩口に懐いていた福門がもぞりと顔を上げた。  視線をやると充電を終えたらしい、疲弊の色は残れど精彩を取り戻した瞳が相澤を捉えて、それで、といたずらに煌めく。 「ただいまのちゅう?」  相澤は口端を歪ませた。  それを笑ったと表するのか相澤にも判断がつかない。けれど小難しい表情筋などどうせ大層な問題ではないのだろう。引き取るように福門が笑って、仕方ねえな、と頬にキスをした。
(2019/12/8)
出番19発行、相ジョアンソロジー『結婚しようぜ!!』に僭越ながら寄稿させていただいた作品でした。ネタの構成がなんだかすごく自分っぽいなと思います。プロット書けよ。

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