予定調和のスケルツォ
顔を合わせるなり彼女は結婚するんだとうそぶいた。ろくでもない挨拶だった。
とばっちりを食ったのは彼女の同僚で、見知らぬ他の面々も福門をあしらう彼とのやりとりを慣れた様子で眺めて笑っていた。職場の仲間、とざっくり紹介されたその空間で彼女はいつも通りに笑っていて、思えば彼女の職場での交友関係など今まで考えたこともなかった相澤である。かつて事務所が近かっただけの自分相手にすらあの調子なのだから、目下繰り広げられる光景は彼女の性格上当然と言えば当然と言えた。
二次会に誘われた彼女はそれをわざわざ断って相澤の腕を取る。せっかくだからと訳の分からぬ理屈をこじつけて同僚たちに手を振って、よし行こうと勝手に歩き出した。飲むなどと一言も言っていない。
「おい」
「いやあ、まさか飲み屋街でおまえに会うとは。ていうか何してんの? 飲んでたの? こんな時間に帰るとか健全すぎない?」
「残業だ残業、おまえらいい身分だな」
「そっちが仕事しすぎなんだって、息抜けよなー」
けらけら笑う彼女は絡んでいた腕をようやく解放し、どこ行く、と勝手に話を進める。飲みたければ二次会に戻ればいい。本来の自分であればとうに口にしている台詞も一応頭にはあったが、当然のように隣を歩く彼女に妙な執着を覚えてその言葉を飲み込んだ。執着、と扱いづらい感情を口の中に転がして顔を顰める。この時点で嫌な予感はしていた。
「おまえ職場でもあんな調子なのか、さすがだな」
「何それ皮肉? 教師ってほんと生真面目なやつばっかだよな、からかう相手多くて大変だよ」
「生真面目相手に結婚だの何だの抜かすな、相手が不憫だ」
「妬くなって」
大丈夫だよみんな慣れてるし、などと何気なく付け足された台詞はおそらくフォローのつもりだったのだろう。あるいはそんな役割すら持たぬほど些細な言葉だったのかもしれない。けれど残念ながら相澤には真逆の意味を生んだ。いびつな感情をつつかれて知らず笑いそうになる。
「よく言う」
軽やかに笑う彼女がひどく癪に障った。さらりと口にされた大丈夫という言葉は相澤にとっては何の根拠もなかったし、みんなという複数形も、慣れていると他人事のように言う楽観性も、ただでさえ残業明けで滅入っている神経を逆撫でるものでしかなかった。加えて先に見せられた同僚たちとのやりとりがさらに苛立ちを煽る。手に余らせていた執着の感情にとうとう名前をつけて、もういい、と相澤は福門の腕を取った。
「ん? どうした?」
彼女は無防備に相澤を見上げる。そこに映るのは腐れ縁から始まる気の置けない同業者で、その距離に甘えて好き放題抜かす彼女の腕を力任せに引いた。うわ、と足をもつれさせる彼女を引きずりながら騒がしい店の脇を抜ける。裏手に入ったところでいよいよ彼女がつまずいて、足を止めると華奢な体が盛大にぶつかった。
「あぶな、なんだよ急に」
「おまえ大概にしろよ」
「え、なになに、本当にやきもち?」
うける、と人通りのない路地裏に連れ込まれて尚笑い出す福門である。掴まれたままの腕を示して、強いなイレイザー、と彼女は気軽な力でほどこうとする。相澤は離さなかった。思っていたよりもずっと細い腕を握りしめて、悪いかと唸った。
「悪いか」
「は?」
「笑いたきゃ笑え、俺だって願い下げだ」
まったくもって合理性の欠片もない、ひとつの感情をとっても冗談だとうそぶく彼女と冗談じゃないとあしらう自分である。いつも福門はつれないと笑って相澤はうるさいと顔を顰める、そこから互いに何かを期待したことなど一度もなかった。なかったはずだった。
胸糞が悪くてたまらない。軽々しく口にされた台詞も彼女の笑い方も、自分でない誰かに向けられることがこんなにも面白くないだなんて。
「なんだよイレイザー、すごいな、本気っぽい」
「まだ言うか」
「いや、ていうか、ここで冗談だなんて言われたら私どんな顔すればいいんだよ」
どの口が言う。
身から出た錆だとか自分を棚に上げてとか自業自得だとか、言ってやりたいことを考えた結果ありすぎて面倒になった。言語化することも不毛な会話を続けることも億劫になって、この期に及んでまだ冗談の可能性を見出そうと笑みを崩さぬ彼女の頬を掬い上げる。
「——イレ」
「黙ってろ」
彼女の双眸が大きく瞠られる。顔を合わせるたび楽しげに細められる目元、その瞳は騒々しい口先を裏切ってやけに美しい。身を引かせた彼女をそのまま建物の壁に押し付けて、相澤は自分を呼ぶ声ごとやかましい口を塞いだ。
ふ、と驚きに漏れた声が口腔に消える。頬を押さえる相澤の腕に彼女の手が縋り、引き剥がそうと抵抗を見せたが大層な意味を持たずに終わった。くちびるを食むとぎゅうと指先に力がこもる。眼下で震えた睫毛がひどく頼りなく見えて、これ以上は危ういと響く警鐘を聞いて相澤はようやく顔を離した。
「……ッふ、ま、じか、イレイザー」
「お前が蒔いた種だろ」
「いや普通芽吹くとか思わないって」
「俺だって不本意だ、お前の冗談ごときでこんな体たらく」
「ひっでえ言いぐさ」
ごときって、と普段と変わらぬ応酬を交わす一方で彼女は彼女なりに混乱しているらしかった。腕に縋ったままの指に笑いきれていない目元、うろと泳いで噛み合わぬ視線がそれを裏付けている。他人のテリトリーには一切の躊躇もなく踏み込むくせに踏み込まれることは苦手なのだ。実に身勝手極まりない女である。
「これ以上おまえの冗談に付き合ってやるつもりはないからな」
「あれで付き合ってくれてたことに感動したよ、私は」
「こういう時くらい無駄口減らせ」
今いちど頬を引き寄せると彼女はうわと色気のない声を上げて相澤を押し返した。待て待てと腕を突っ張る彼女は笑ってはいるがやはり余裕のない様子で、これまでの距離を投げ捨てようとする相澤に往生際悪く半疑の目を向ける。
「……本気かよ」
「本気だよ」
いい加減観念しろ。無駄な時間を嫌う相澤の目がよほど剣呑だったか、こわ、と福門は引き攣った声で呟いた。押し返す腕が緩む。力を抜いたのか力が抜けたのか知りようもないが、言われるがまま観念したらしい彼女は相澤を見上げてじんわり苦笑した。初めて見る笑いかただった。
「いいの、今の雄英にとってスキャンダルなんてとんだ痛手じゃん」
「おまえ俺の知名度の低さ知ってるだろ、というかそう簡単に撮られてたまるか」
「ふうん? それじゃいざとなったら私の出番だな」
冗談ならお手の物だとのたまう彼女が、けれどそれはそれで勿体ないなとしかつめらしい顔をして言う。必要ないといちいち口にするのも面倒で、どうせ本音など出てきやしない互いのくちびるをようやく重ねた。
(2018/08/02)