据わらぬ机上に白旗
さすがにガムは駄目だろう、と鞄に戻した指先が奇跡的にソフトキャンディを探り当てて、これならまあ、と轟はそれを隣に差し出した。突如現れたソフトキャンディとその持ち主を交互に見つめて、八百万はぱちりと瞬く。
「……何ですの?」
「食え」
「はあ」
歯切れの悪い八百万にそれでも無理矢理ソフトキャンディを押し付けて、轟は食っとけ、ともう一度念を押した。彼女は相変わらず腑に落ちない顔をしているが律儀にありがとうございますと言ってひとつつまむ。
思えば今日の演習では無線機に始まり避雷針やらパラボラアンテナやら手の込んだものをがんがん創っていた。その時は文系理系の枠をぶん投げた彼女の知識量に改めて恐れ入ったものだが、そこにエネルギーの消費が付随することは当然である。もっと早く気づくべきだった。
「言われてみたら顔も白い」
「何も言ってませんわ」
「おまえなんであんな張り切ってたんだ?」
「会話のキャッチボールってご存知ですか、轟さん」
ソフトキャンディを咀嚼しながら八百万が眉を顰める。ある程度は、と素直に応じるとそうですわねその程度、と呆れられた。口数は多いほうではないが思ったことを好き放題発言している自覚はある。周りはそれを天然と呼ぶし、彼女からは何度か脈絡という概念について説教された。脈絡くらい知っている。けれどそうやって真摯に轟の欠点を説く彼女が可愛くて、轟はいつも甘んじて説教を受けている。
「何故って、耳郎さんも上鳴さんもとても強力な個性を持っていますもの」
「おまえのも大概チートだけどな」
「皆さんの個性をどう活かせるか、そのために何が必要か、それを考えることが最近楽しくて」
「俺は?」
「ニチノール合金」
だよな、と轟は返却されたソフトキャンディを鞄にしまう。攻撃に特化した個性にかまけて力押しばかりだった自分と対象的に、思考力と発想力とで難題を突破した彼女にはあのとき素直に感嘆した。八百万百という人間はたしかに優秀な個性を持っているけれど、それを優秀と言わしめる彼女自身がすごいのだ。
同時に思い出す光景は件のニチノール合金を胸元からドルドルとやっている姿である。いくら優秀と言えどあればかりはいただけない。
「聞いていいか」
「ええ、どうぞ」
「パラボラアンテナとか、ああいうでかいの、どっから創るんだ」
「どこからって……、ああ、お見せしましょうか」
「いやいい。忘れろ」
実践なんてされたら堪らない。真面目で聡明ですこぶる頭の良い彼女だが如何せんこういうところがある。素直が祟って峰田の策にまんまと乗せられるし、無頓着が一周回って下世話な意味で無防備になる。しっかり者の部類ではあるが少々危なっかしい、と考えているとそのまま口に出ていた。如何せん自分はこういうところがある。
「おまえ本当危なっかしいぞ」
「はい?」
「いや、なんかこう、目が離せないっていうか」
おい轟この野郎、と上鳴の声が聞こえたがこのやろうまで辿り着く前に途切れた。首を巡らせると容赦なく机に沈められた金髪が見えて、彼を押さえつける耳郎は無粋な男に制裁を与えたわりには険しい目で轟を見ている。
まあいいか、と視線を戻した先、けれど彼女まで剣呑な目をしていた。
「……俺またなんか変なこと言ったか」
「またって……いえ、何でもありませんわ。ご心配ありがとうございます」
「けどって続くか?」
「ええ続きます。危なっかしいのは轟さんのほうです」
思いがけない切り返しである。視界の隅で大きくうなずく耳郎はやはり目が怖い。にらむな、と言いたいところだがそれよりも言いたいことは彼女への、それは男に対して下す評価ではない、という件であった。
「不本意だ」
「その言葉そのままお返ししますわ」
はあと八百万が溜息をつく。その所作ですら上品に見えるのだから育つ環境というものは大きい。
「わかんねえ。俺ってそんな危なっかしく見えるか」
「女性にそのような言葉をほいほい投げかけていてはすぐに勘違いされますわよ。特に轟さんがこういった性質だと知らない方は」
「俺っていつおまえにすけこましのレッテル貼られたんだ」
それこそ不本意極まりない。
そこまでは言っていません、と八百万がフォローを入れるがそこまではというところに本音が出ている。むしろはっきり否定されるよりも現実味があって深く抉られた気分である。
「誰かれ構わず言ってるつもりはねえよ」
「それに私にだって矜恃はあります。危なっかしいだなんて屈辱ですわ」
「あれ、ああ、そういう話になるのか。いや、それとこれとは」
「当然——轟さんに比べたらまだまだ未熟ですけれど」
轟は二度ほど目を瞬かせた。未熟、という言葉を口のなかで転がす。どうしたって彼女にふさわしい言葉ではない。
「そんなこと思ったこともねえ。むしろいざって時におまえほど頼りになるやつもいないと思う」
「光栄ですわ」
「けどって続く気がする」
「続きます。それは危なっかしいという発言とは矛盾するのでは?」
八百万の言葉はいつだって的確である。論理的で客観的で、たまにネガティブだけれど、正しい。たとえば付き合いの短い轟にクラスの委員長として票を投じさせるほどに。
けれど今回は、的確だが正しくはなかった。轟の中でもそのふたつは矛盾していない。彼女が頼りになることも危なっかしいことも轟にとっては本当のことだった。
「矛盾はしてるんだろうな。けどどっちも本当なんだから仕方ねえ」
「ざっくりと片付けてくれますわね」
「不満そうだな」
「……轟さんの感情論がよくわかりません」
「感情論ってほどのものでもねえよ」
もっと単純である。そのふたつが両立する感情はたしかに存在していて、博識なくせに気付かぬ彼女は自分が言うのも何だが鈍い。そういうところがまた面白くて放っておけないのだと思わず破顔すると、それをどう捉えたか、八百万はむっと口を尖らせてそっぽを向いてしまった。かわいい。
「もういいです。話す気はないのですね」
「いや、悪い、そういう意味で笑ったんじゃない。拗ねるなよ」
「拗ねてませんわ! からかわないでください」
「八百万」
彼女は尚もつんとむこうを向いている。あらら痴話喧嘩、と葉隠の声が聞こえたがすぐさま尾白にたしなめられていた。彼女の耳にはどう届いているのだろう。
「八百万、こっち向けって」
「このままでもお喋りはできます」
「じゃあ全部話したらこっち向いてくれるか」
「内容によりますわ」
「おまえが好きだ」
するりと出てきた言葉にまず轟が反省したことは、顔を見て言えばよかった、という旨であった。彼女がどんな顔をするのか見たかった。けれど後悔するまでもなく、八百万は弾かれたように轟を振り向き、ばっちり目が合った途端に真っ赤になって再びむこうを向いてしまった。期待通りではあるが勿体なくもあって轟は席から立ち上がる。
ところで教室内では一瞬の静寂を挟んで様々な事故が発生していた。手近なところで峰田が声もなく震えていたし、葉隠がひゅうと声を上げて尾白をどついている。空気椅子だというのに椅子ごとひっくり返った緑谷を飯田が起こし、その傍らで麗日が驚愕の眼差しを、蛙吹が生温い眼差しをこちらに向けていた。蛙吹のそれはさすがに居心地が悪い。
そして耳郎である。おい待て落ち着け、と叫ぶ上鳴がいきりたつ耳郎を羽交い締めにしていた。
「離せ放電バカ、あいつあの子の純情をコケにしやがって」
「いやしてないしてない! 多感で天然な少年の告白に聞こえたって俺には!」
「殴る! グーで殴る!」
「個性使えよー! そこは! っていうかむりむり轟に勝てるわけねーじゃん!」
「じゃああんたを殴る!!」
「なんで!?」
ごす、と鈍い音が聞こえた。ぐうで鳩尾は痛い。轟は心底上鳴に同情する。
目標をこちらへと変えた耳郎を切島が取り押さえ、グロッキーな上鳴を障子が保護している。全員の注目がなんとなくそちらへシフトすると同時に八百万の注意もそちらへ向いた。耳郎さん、と友人を案じて立ち上がる彼女の肩を掴む。
「話終わってないぞ、八百万。こっち向け」
「かっ、からかわないでくださいと、先ほど!」
「からかってねえ」
「おい轟テメー! 何こっちのドタバタなかったことにしてんだ!」
芦戸の歓声に瀬呂の野次、復旧した峰田の悲痛な叫びまで重なっていよいよ向こうの喧騒は収集がつかない。極めつけにうるせえと爆豪の怒声まで響いた。
「八百万」
「あ、の、待ってくださ……、一分でいいですわ、私、こんな顔——」
「おまえの顔が見たい」
髪の合間から覗く耳が赤い。ちらと見える首だってうっすら色づき、彼女はいったいどんな表情で轟の言葉を噛み締めているのだろう。おそらく羞恥にほおを染め、切れ長の瞳だってすこしくらい潤んでいてもいい。少々手荒に八百万を振り向かせると、案の定、むしろ期待以上の表情がそこにあった。
両手で口許を押さえ、混乱を極めて真っ赤になった彼女は轟の顔をおずおず窺う。その眦はやはり心もとなく、轟はがつんと後頭部を殴られた気分だった。文句なしに美味そうだ。
「ま、まってくださいと、私あれほど」
「ああ、いや、びっくりした」
「こちらの台詞です! 私何度もお話したかと思いますわ、脈絡というものを——」
「おまえが好きだ」
「聞いてませんわね」
もちろん聞いてはいた。けれど轟は彼女の溜息ではなく彼女の声が向けられている事実に満足がるばかりで、結果的にはやはり聞いていないようなものだった。
緩む目元がどうにもならない。八百万、と彼女の名前を舌に乗せる、その声は無粋なチャイムに掻き消された。教室のむこうに響く足音、席に着けと飯田の声、ほうぼうで散らかっていた事故や喧騒もなんとなく回収されて、お節介なクラスメイトがちらちらと此方に視線を向けながら席に戻る。
ああ。残念だ、時間切れだ。
我に帰った八百万が、授業が始まりますとなけなしの平常心を掲げて轟を押し返す。ずいぶん弱々しい力だった。そそくさと踵を返す彼女の手を取って、おい、と轟はその腕を引き寄せる。なかったことになどしてたまるものか。
「逃げるなよ」
「にっ」
また後でと。言うつもりであった。
勝手にこぼれた言葉に八百万がはくりと空気を食む。さすがに間違えたと反省する轟に、けれど彼女は屹と眦を決して再び口を開いた。
「逃げたりしませんわ!」
望むところと言わんばかりである。
染まった頬、心もとない目元、それでも彼女の瞳は芯をなくさずうつくしい。彼女の気迫に一瞬のまれた轟は、そうか、とたまらず笑い出した。いよいよ席に戻る背中に伝えたいことはたくさんあったけれど、どうせまた脈絡について怒られるに違いない。ほかほかと温い体温に甘んじて席に戻り、逃げぬという彼女の心に思いを馳せた。
(2018/09/08)