ハッピーエンドの服用
 アボットの生ぬるい視線が居たたまれない。  その居心地の悪さに配慮したか、単に地雷と判断したか、あるいはジェーンが調子付くと危惧したか、彼は特に言及はせず一言、送ろうと言ってジェーンから車のキーを受け取った。片足の自由がきかぬジェーンを後部座席に押し込み、リズボンは助手席に乗り込んでひとつ息をつく。どこに向かう、と問うアボットにリズボンが応じるより早く、ジェーンが長期滞在で取っているモーテルを指示する。  リズボンはじっとりと彼の顔を睨んだ。 「君、宿ないだろ。僕が見繕ってあげるよ」 「感激。誰のせいだと思ってるわけ」 「だからお詫びのしるしに。とっておきの伝手がある」  信じろというほうが無理な話である。けれどどうでもいいから早く車を出したげなアボットに気が引けてリズボンは反論を飲み込んだ。沈黙のままシートに座り直してシートベルトをする。アボットが同情するように横目でリズボンを見たが、結局何も言わずにエンジンをかけた。  リズボンのDC行きの取り止めについてジェーンが勝手にぺらぺらと喋り出す。初期の印象を裏切り実のところ融通のきく上司は、難色を示すこともなくそうかと静かに応じた。そんな予感はしていた、とリズボンを見るので、リズボンは思わずあさってのほうを向いてしまう。  厄介な男に捕まったものである。  やがてジェーンの話がパイクのクラシック映画好きについて言及しかけた時、リズボンとアボットにとってはようやくと言えたが、アボットがブレーキを踏んだ。 「ここでいいか?」 「ああ、ありがとう。リズボン、悪いんだけど手を貸して」  助手席を降りて後部座席からジェーンを引っ張り出す。アボットは野暮なことは訊かず、また職場で、とわざわざリズボンに挨拶して車を出した。  彼の車を見送り、緊張感のない顔でひらひら手を振っているジェーンを見上げる。視線に気づいた彼がどうかしたのとすっとぼけるのでリズボンは目を眇めた。 「とっておきの伝手って」 「目の前にいるじゃないか」  案の定である。  リズボンは落胆した。 「アボットに待っててもらうべきだった」 「何を?」 「ケンケンでしか歩けないあなたを部屋に送るまで」 「その場合彼の待ちぼうけになると思うけどね。君を部屋に入れたらたぶん帰せない」  びっくりするほどの直球できたものだからリズボンはその通りびっくりしてしまった。彼がその手の欲望をあけすけにすることが意外すぎる。何よりそれが自分に向けられているだなんて。 「……それを私に言っておいて部屋に入れるわけ? それとも空いてる部屋が?」 「部屋はひとつ。僕の本音を言っただけだよ、実際部屋に上がった君がどうするかは君次第」 「ずるい人」 「どのみち他に当てはないだろ。僕は君といたいし、話したいこともある。たくさんね」  そう言われてしまえばほだされる他なかった。前半の触れづらい案件は置いておくとして、後半の彼の願望はリズボンの認めづらい願望でもあるのだ。今はもう少し彼のそばにいたい。 「……いいわ。当てにさせてもらう」 「よかった。損はさせないよ。ああ、そういう意味じゃなくて」 「お願い、黙って」  これ以上意味深な言葉を聞いてはいけない気がする。  懇願した通り、いささか大袈裟な表情ではあったが口を閉ざしたジェーンが、ではご案内、と言ってうやうやしくリズボンを誘導した。リズボンは溜め息を飲み込んで案内されるがままジェーンの部屋へ向かう。  CBIの屋根裏を寝床にしていた頃から彼の空間は殺風景であった。どこか温かみに欠けている。妙なところで妙なこだわりは見せるくせに、そもそも生活というものに対して執着がないようにも見えた。それが果たして彼の本質によるものなのか、あるいはすべてを失くしたときに捨てたか諦めたか、リズボンはその復讐を遂げた彼の殺風景な居住空間を前にしてまだ判断がつかない。わからないが、たぶん、彼は温かみを求めている。 「コーヒーでも?」 「ええ、いただくわ。あなたの部屋にコーヒーが置いてあるなんて驚きだけど」 「うーん、まあ、来客用に」 「来客? 今みたいに女性を連れ込むわけ?」  コーヒーの件も女性の件もまるでしっくりこない。リズボンは軽口を叩きながら笑ってしまって、あなたが、と付け足したあとにこれではまるで皮肉のようではないか、と我に返った。声にその響きがなかったことを願い、けれど本気でそういうつもりがなかったのだから大丈夫だろうと普段通りを決めた矢先、ジェーンがにこやかに振り向いた。 「それ嫉妬?」 「本気で言ってるならあなたの腕も落ちたものね」 「いやあ、絶好調。それに君だって僕が本気で女性を連れ込むだなんて思ってないだろ」  知ったものか、とリズボンは白ける。彼の私生活ほど読めないものはない。 「知らないわよ、あなたの女性遍歴なんて」 「君が把握してる件で全部だと思うよ」 「だとしたら悲惨すぎる」 「そう、悲惨なんだ」  君に言われたくないけど、と切り返されてぐうの音も出なかった。たしかに期間の短い付き合いのほうが多いし、比較的持った相手についてもろくな別れ方をした覚えがない。そのうち数件は目の前の憎たらしくもいとおしい男が原因である。 「……結局あなたのことなんて少しも理解できてなかった」 「それは君の思い込みだけど、じゃあ、最初からやる?」 「最初?」  そう、と頷いたジェーンがわざとらしい笑顔を張りつける。ああ始まった、リズボンは頭が痛くなった。長年の経験からこの笑みが彼の胡散臭い企みの合図であることを知っている。躍起になって止めたところでこちらが消耗するだけだということも。 「ご機嫌よう——いや、はじめましてにしようか。やあ、はじめまして、僕の名前はパトリック・ジェーン」 「はいはい」 「レッド・ジョン事件の担当捜査官はどちらかな。愛する妻と娘を殺されたんだ」  その時、それを涙と理解したのはおそらくジェーンのほうが早かった。  自身の涙に動揺するリズボンをジェーンは穏やかに見つめている。女の涙を前に慌てもしないなんてどういう了見だ、と彼の無神経が腹立たしく、かつての傷を余裕ぶって口にする上っ面が腹立たしく、まんまと掻き乱されている自分が腹立たしい。落ち着かぬ感情の中、それでも涙を曝け出すことへの羞恥が勝って顔を背けたリズボンを、ジェーンか体ごと抱き寄せた。まったくもって腹立たしい。 「こうやって泣く君が僕を理解してないって?」 「あなたってほんとうにムカつく」 「どうもありがとう」  どさくさに紛れて髪にキスをする彼の脇腹をよっぽどつねってやりたかったが、その意思を無視してリズボンの手は勝手にジェーンの背に縋りついていた。彼とのハグだなんて、たとえば、何かしらのカモフラージュであったり、別れを予感させるものであったり、要するにろくでもない事態とセットのことが多い。そんな自分たちがこんな小っ恥ずかしいハグをするだなんて、とリズボンは気が滅入る。 「今回だって相当悲惨だわ」  お互い、と愚痴る。  ジェーンは緩やかにわらった。 「でもきっと最後だ」  お互い。  彼の声はいつも通り自信に満ちていた。憎たらしくてなんていとおしい。  決めつけないで、と撥ねつけることがリズボンの定石であったが、今日ばかりは、記憶よりもどこか力強く包み込む体温がそれを許してくれなかった。
(2016/05/14)

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