オーバー・レクチャー
CBIの登場に本能的に逃走を図った容疑者をひっ捕らえ、リズボンは部下二人と前述のお土産を連れて颯爽と戻ってきた。チョウに取調べを命じてヴァンペルトに調査状況を確認する彼女を眺めながら、ジェーンはカウチにもたれてラプサン・スーチョンを味わう。リグスビーは手間をかけやがってとこの後チョウにしぼられるであろう男に向けて愚痴を垂れながらネクタイを直している。
きなくさい振り込みの調査を引き続きヴァンペルトに任せ、リズボンは見慣れたしかめつらでジェーンのカウチに足を向けた。取り立ててぼろぼろというわけではないが体を張ったことくらいは見て取れる。待機していてよかった。
「お疲れ。アメフトでもやってきたの?」
「渾身のタックル見せてあげたかった」
「それけっこう見てる気がする」
それも間近で。
華奢な体から繰り出されるタックルは彼女が思っている以上に見応えがある。
「右手どうかしたの」
「どうもしてないわよ。何?」
「何って僕の台詞なんだけど……」
「それより被害者の母親からあやしげな留守電が入ってたって連絡きたんだけど」
「ああ、それ、僕」
がす、とカウチに衝撃があった。蹴るだけ蹴って当面の気を収めたらしい彼女は、右手への言及を綺麗に無視して去っていく。ジェーンは少し考えてから、のそりと立ち上がってヴァンペルトに声をかけた。
***
半開きになっているドアからひょっこり顔を覗かせるとリズボンはちょうど電話を置いたところだった。被害者の母親であろう。
「リズボン」
「何」
声が明らかに苛立っている。おっと不機嫌、とジェーンはおどけて後ろ手にオフィスのドアを閉めた。突き刺さる鋭い視線などとうに慣れたもので、別段気にかけることもなくデスクを回り込んで彼女の手を引く。渋られたのでもう一度、今度はやや強めに。
「ちょっと、何なの!」
「苛ついてるみたいだし休憩入れたほうがいいよ。眉間の皺とか残りそう」
「余計なお世話! そもそも誰のせいで」
「はいはい、ほらこっち、座って」
なかば強引にデスクチェアから立たせたリズボンを、ジェーンはゆったりとカウチへ誘導する。新調したばかりの頃は散々悪態をついていたくせに、最近では彼女自身も息抜きに横になるくらいには馴染んできた、アイボリーのカウチ。
しかめ面のまま結局カウチに腰を下ろしたリズボンの隣に腰掛け、ジェーンはヴァンペルトに出してもらった救急キットを開いた。
「右手だして」
「なっ……んの話」
「右手。また力任せに殴った? だからストレス溜め込まないほうがいいっていつも言ってるのに」
何か言い返そうと開いた口を、結局なにも言い返せぬまま、リズボンはぱくりと閉ざした。かわりに眉間の皺がさらに深くなる。その素直さでもって右手の負傷も素直に白状すればいいものを、とジェーンは彼女の右手をそっと取り上げる。
グーでいったことは間違いない。関節のあたりが腫れている。それと大雑把に拭ったであろう血のあとが。
「うわあ、もう、やだなあ。痛そう」
「それ殴られたほうに言ってる? いちいち腹立つわね」
「殴ったほうに言ってるよ。ていうか痛くないわけ」
「痛いわよ!」
「逆切れされてもさあ」
勢い余って引き抜かれた右手を改めて捕まえ、消毒液を染み込ませたガーゼを傷口にあてる。掴んだ腕がぴくりと震え、しみる、と訊くとしみないと意地っ張りだけが突っ返された。彼女はこういう時ばかり幼い子どものようになる。
「まさか放っておくつもりだった? 賢明とは言えないね」
「あとで手当てするつもりだったわよ。誰かさんのせいで忙しいの」
「それ皮肉?」
「心当たりないって言うならあなたをぶん殴る」
そっちのほうが皮肉っぽい、とジェーンは傷まわりの血と汚れをあらかた拭き取る。手当てをしている手で手当てをしてやっている人間を殴るだなんてどういう無茶だ。
包帯を取り出しながら、じゃあ次はよそ当たって、と言うとリズボンが押し黙った。自分の発言の本末転倒ぶりに気が付いたのかもしれない。なかなかのユーモアだった。
「あと、これを言うと君は怒るかもしれないけど」
「もう怒ってる」
「ほんとは気付いてほしかった?」
リズボンが見開いた瞳でジェーンを見た。驚愕よりも怒りのほうに近い。図星をつかれてかっとなった人間の反応である。彼女はほんとうに、かわいいほどにわかりやすい。
振り上げられた右手を、おっと、とジェーンは慌てて押さえこんだ。
「すごい。全身で図星だって言ってる」
「やめて、違うわ、違う」
「いいや違わない。だれかが怪我してることに気付いて心配してくれるのを待って後回しにした。でもそれが馬鹿げていることもわかってるから、電話のあとか、書類のあとには自分で手当てするつもりだった」
「お願い、黙って」
殴りそう、と彼女は懲りない。ジェーンは軽やかに笑って、殴るという右手に包帯を巻きつけていく。
「実に馬鹿げてるね。君は何もわかっちゃいない」
「ジェーン」
「僕が気付かないとでも? それに心配するに決まってる。みんなね」
テレサ・リズボンという人間は、他人の中に自分の価値を見出すことを深く求めていながら、一方でそのことに妙な諦観を抱いている。それは少なからず過去のつらい境遇が影響していて、残念ながらその歪みは修復されぬままここまできてしまった。
父親の暴力から弟たちを守り、自分の怪我などそっちのけだったかもしれない。かつての彼女に怪我の手当てをしてくれる人間はいたのだろうか。いてくれたら、と、これはジェーンのひとりよがりな願いであった。
「君が痛いって言えばヴァンペルトなんかすっとんでくるよ。リグスビーは狼狽えてあてにならないと思うけど」
「私が足くじいた時はみんな面白がってた」
「あれは君がひどくないだのくじいてないだの意地を張るから」
面白がっていたというのも少々語弊がある。ボスの意地っ張りに呆れ半分微笑ましがっていたという平和な話である。
「君は君を見くびってるよ、リズボン」
「何?」
「君は愛されてる」
巻きつけた包帯を切って固定する。完成、と顔を上げるとリズボンはかたまっていた。求めながらも求めていないふりをしていた言葉をすんなり渡され、表出すべき感情に困っている。
彼女はもっと誇るべきだ。かつてクビを覚悟で彼女をチームに戻したがったチーム全員の覚悟も、そこに確かに存在する敬愛や親愛も。
真に受けることへの自制心と羞恥と、それでも隠せぬ喜色とできょときょと動揺するリズボンに、ジェーンは一度きり無邪気に微笑んだ。
「あとさあ、今回この程度だからいいけど、僕だってしょっちゅう肝を冷やしてるのわかってる? 君って見かけによらず破天荒で」
「は?」
「爆弾止まらないとかで線ごと引っこ抜いたり」
「あれ私のせいじゃない!」
「そう? 大体いつも何か電話越しじゃない。撃たれたりさあ。ああいうのやめてくれない?」
心臓に悪い、と愚痴る。言いがかりだのなんだのとまくし立てるリズボンを楽しく眺めているとドアがノックされ、リズボンが応じるより先にヴァンペルトが顔を覗かせた。彼女のうしろにはリグスビーの姿まである。
「ボス! ああほらウェイン、やっぱりボスが怪我してたのよ」
「マジかよ、大丈夫ですかボス!」
「あ、ええ、たいしたことない……」
「てっきりジェーンさんが怪我したのかと、本当に大丈夫ですか?」
「グレース、それ僕の怪我ならどうでもいいって言ってる?」
ヴァンペルトに限ったことではないが、三人の有能なる仲間たちはリズボンを敬愛するあまり時折ジェーンの扱いがぞんざいに過ぎる。それはもうすがすがしいほどに。
その一端を担うリグスビーはいくらかやきもきしているようだった。怪我の原因がグーの当たりどころではなく突入時のハプニングと勘違いしているのかもしれない。
「ほんとに大丈夫よ。ちょっと腫れてるだけ」
「何かあったら言ってください。私でよければ手を貸します」
「俺もです。ジェーンの相手だって引き受けますよ」
「ひどいな、手当てしたの僕だよ。ていうかリズボンの怪我に気づいたの僕!」
「お前がいたらボスの右手悪化しそうだ」
いえてる、と便乗したリズボンは、ひどいと情けない声を出すジェーンを綺麗に無視してカウチから立ち上がる。心配してくれてありがとう、とかわいい部下たちに笑いかける彼女は、どことなく晴れやかでもあった。
「いいから仕事に戻って。ヴァンペルト、例の振り込みの入金元はわかったの?」
「はい。ただ被害者との接点か見つからなくて」
「被害者の手帳に手掛かりがあるかも。リグスビー、そっちを手伝って。私はチョウのほうを見てくる」
「了解」
きびきびと指示を出す彼女の背を眺めながら、ジェーンは満足がって一人笑った。やはりこうでなくては。ちょっとした怪我など無頓着なくらいが彼女らしい。
デスクに戻る二人を見送り、リズボンは人知れず満悦なジェーンを振り返った。あなたは、とチョウの取り調べの見学を訊かれる。
「これ片付けてから行くよ。ヴァンペルトに返さなきゃ」
「そう」
「ねえリズボン、ちなみに」
「黙ってて。わかってる」
遮る声はすでに居心地が悪そうだ。まったく彼女はほんとうに正直でほんとうに素直じゃない。ジェーンはこっそり微笑む。
「……ありがとう」
ふてぶてしいありがとうもあったものである。
ジェーンがしかつめらしい声でどういたしましてと言い切る前に、リズボンはくるりと踵を返してオフィスを出ていってしまう。ああまったく彼女は本当に。取り残されたジェーンはゆるやかに笑いながら、あとで言い直そう、と殴られそうな悪戯を考えていた。
(2015/11/16)