目途なきミスディール
がんがんと荒っぽいノックがあり、続いてジェーン、と彼女の荒っぽい声が響く。ジェーンは顔に伏せていた本をどけて、のろのろとマットレスから起き上がると分厚い扉の錠を外した。がらりと扉を開けるとそこには愛らしいしかめ面が。
「何の用? 僕忙しいんだよね」
「寝起きに見えるけど」
「寝不足だっていうのに事件解決に駆り出されて」
「寝不足になるまでのめり込まないでって何度言ったらわかるの」
錠をかけ直してマットレスに戻り、彼女の苦言を受け流しながらジェーンは再び寝そべる。あからさまに寝る体勢のジェーンにちょっと、とリズボンが声を上げたので、ジェーンは彼女の呆れ顔を見上げる前に視界を本で遮った。
「また事件? だったら先行ってて」
「違う。あなたの様子を見に」
「様子?」
本を浮かせて彼女の表情を確認すると、リズボンはわかりやすくばつの悪そうな顔をしていた。彼女は嘘が下手なくせに素直にもなれないというきわめて不器用な性格をしていて、それを見抜かれるとわかっている上でそれでも素直にならないところがいじらしくてジェーンは気に入っている。本人がそれを気に入らないと思っているところも含めて気に入っている。
ともあれ今回も彼女の言葉が本心でないことを見抜いたジェーンは、例によって遠慮なく嘘だね、とストレートに指摘した。リズボンの口が曲がる。
「顔に書いてあるよ。君って長いこと僕といるくせにまるで上達しないね、ハッタリの演技も」
「余計なお世話よ。あなただって私といるのにその性悪な根性ちっともましにならない」
「僕の性格は複雑で根深い。それで本当の目的は?」
実際のところリズボンが自分に及ぼす影響については彼女が自覚している以上であるが、それについて話すつもりはないし何より話が逸れる。適当に濁して本題を促すと、リズボンはへの字に曲げた口をしぶしぶ開いた。
「……お礼を言いに」
「お礼? 君が僕に? へえ」
「それやめて。言いたくなくなる」
「いやあ、言ってよ。でもなんでまた」
面白がる口振りを隠しもせずに促すとリズボンの眉間の皺が深くなった。なにせ彼女がジェーンに感謝するだなんて、それこそ、ジェーンが彼女に謝罪することと同じほどに珍しい。
「力を貸してくれた」
「いつものことだ」
「そうだけど。私が力を貸してと言ったからでしょ。本当ならここで寝てるかレッド・ジョンの捜査に没頭してた」
なるほど、とジェーンは胸の内で納得する。つまりジェーンの時間を割いたことへの後ろめたさだろうが、彼女はジェーンが相手となると感謝の態度に意地っ張りが目立つ。停職中の彼女をチーム全員の首をかけて救った時もそうだった。
「いつも言ってるだろ。君のためならいくらでも手を貸す」
「……あなたってよくわからない」
「そうかな、単純なことだよ。それに君だって同じだ、僕のためならどんな責任も負うつもりでいる」
ただでさえ大きな瞳がまた少し大きくなった。だってそんなの、とリズボンはその表情のまま言葉を紡ぐ。だってそんなの当然じゃない。彼女をボスたらしめる責任感は時折すこしもどかしい。
「私はあなたの上司でパートナーよ。覚悟の上であなたの力を借りてる」
「ふうん? うっかり殺人犯を死なせたりしても?」
「言いたくないけど、そうよ」
彼女の肯定には迷いがない。認めたくないことも事実だろうし、その言葉が本音であることも事実なのだ。リズボンは文句を言いつつ最後にはジェーンのやり方を尊重してくれるし、その上で、逮捕という正しい結末を迎えそこねたとき、彼女は必ずジェーンを叱ってくれる。
「じゃあ僕にのめり込むなとか言うのも仕事のうち? 小煩いから業務から外してくれない」
「はあ? あなた私が仕事であなたのこと心配してると思ってるわけ?」
「だってさっき上司でパートナーって」
「あなたが責任の話を持ち出すからでしょ」
たしかに、とジェーンは頷く。自分で言うのも何だが自分たちの関係性は少々ややこしいのだ。
「つまり僕への心配は仕事じゃない」
「あなた私のこと何だと思ってるのよ」
「いや、まあ、そうだったら君の負担も減るだろうにって思っただけ。ほら、僕って手がかかるし」
「自分で言ってれば世話ないわね」
今度は呆れられた。ジェーンの暴走について彼女の態度はおおむね呆れるか叱るかのどちらかで、最近は諦観の傾向すら見える。そのくせ根を詰めすぎだの外の空気も吸えだのそういうことばかり口煩くなるのがやかましく、またジェーンにとっては重要でもあった。
「手のかかる弟を三人も世話してきたのよ。一人増えたところでたいして変わらない」
「じゃ僕も君の弟ってこと? 勘弁してよ」
「それこっちの台詞」
ジェーンの減らず口にリズボンの憎まれ口。流れるような応酬も楽しんでいるというより習慣に近い。
「……弟ねえ」
「文句あるの」
「あるよ、大アリ。思わせぶりもいいところだ」
「意味わからないんだけど」
それは僕のほう、と文句を垂れると本当に不可解そうな顔をされた。わからないものか、とジェーンは一種の衝撃すら覚えかけて、いやしかし相手が彼女では、とかろうじて溜飲を下げる。
「まあいいや。君の言い分も一応聞くよ」
「いちいち腹立つわね。あなたを叱るのも許してあげるのも、上司だからなんてものじゃ説明つかないでしょ。それだけ」
「君って仕事できるくせになんでそうすっとぼけてるわけ?」
「なんですって!」
律儀に噛みつくリズボンに肩を竦めて、鈍いってこと、と油をそそぐ。人の気も知らないでとこれまでの気苦労を言い募る彼女に素知らぬ顔をして、ジェーンは興味ないねと再び本をかぶった。
「ほんっとむかつく!」
「何を今さら」
長年の経験から糠に釘を察したリズボンが、釘を打ち続けるか投げ出すかで逡巡したのち、結局釘を握りこんでついでに言葉も無理やり飲み込んだ。あまり重心はなかったがありがとうという本来の用件も一応済ませている彼女は、とにかくそれだけ、と吐き捨てて踵を返す。一連の気配を見ずとも捉えたジェーンは、本の下から彼女の背中にゆったりとおやすみを投げかけた。
「かわいい弟におやすみのキスは?」
「夢でも見てなさい」
「うなされそう」
「おやすみ!」
がらがらと訪問時と同様荒っぽい音を立ててリズボンが退室する。ジェーンは本の下で噛み締めるようにわらって、それではいい夢をみよう、と満足がって目を閉じた。
(2015/07/26)