行く手に紗幕
おっかねえ、と取り留めのない談笑が熊谷の頭上を通り過ぎて、彼らの話題の矛先と思われる人物へと視線を巡らせると那須はまだ出水と話し込んでいた。
個人ランク戦フロアの手前、エレベータホールの片隅。手持ち無沙汰な熊谷は誰か顔見知りでも通らぬかと長椅子に腰掛けて、仁礼に押し付けられたブラックコーヒーを少しずつ減らしながら消極的に時間を潰している。本当なら炭酸が飲みたい。ボタンを押し間違えた当人はつい先刻まで隣で実のない話をだらだら繰り広げていたが、防衛任務があるとのことで去っていった。暇だ。
本日の戦果、個人ポイントはトータルで若干のマイナス。那須は好調に稼いでいた。たしかにうちの隊長はおっかない、と熊谷は熱心な射撃談義の声を遠くに聞きながらぼんやりする。
(弾バカ談義ね)
あの容姿であのバトルセンスである。容赦のない射撃というかたまに爆撃みたいなことになっているが、熊谷は時折、トリオンキューブを纏って駆け回る頼もしい隊長とベッドで微笑む美しい友人が結びつかなくなるときがある。
「あれ、くまじゃん」
エレベータが止まって、だれか来いと念じた熊谷の前に現れたのは、けれど太刀川であった。
うわ、と熊谷は顔を顰める。
「太刀川さんじゃないですか」
「そうです太刀川さんです。ヤな顔すんなよ」
太刀川は笑いながら自販機の前に立つ。コーヒーとか珍しいな、と完全に他人事にして炭酸を選ぶ彼に、仁礼光の後処理なのだと熊谷は愚痴った。
「ていうかこんな時間にどうしたんです? ソロ戦?」
「そうそう、誰も相手してくんなくてさー。くまどう? 暇?」
「暇じゃないです、玲待ってるんです」
帰ります、と不毛な挑戦を受け流す。ただでさえ負け越しているというのに。
ふうんと太刀川が自販機からロビーへと視線を巡らせた。弾バカ談義か、と彼が溢すので、ですね、と熊谷は苦いコーヒーを含む。思うところは誰しも同じか。
太刀川に気付いた出水が隊長じゃんと大きく手を振る。隣で那須がたおやかに会釈をして、そのまま熊谷に申し訳なさそうな笑顔を寄越した。もうちょっと待ってて。かわいいからゆるす、と熊谷は気にしないでというジェスチャをする。
「ほら、長引きそうじゃん。相手しろよー」
「やですって。あたし今日かなりポイント持ってかれてるんですよ、勘弁してください」
「だからってあの二人眺めてても楽しかないだろ」
「あー、目の保養?」
「そうかあ?」
炭酸飲料に口をつけた太刀川が辛、と舌を出した。パッケージに強炭酸という文字を見つけたが熊谷は黙っておく。
「俺のほうがいい男だろ」
「玲のほうが断然かわいいです」
「そっちか。たしかになあ」
すまん出水、と意味もなく出汁にされた後輩に太刀川が届かぬ謝罪を呟く。ごめん出水、と熊谷も胸の内で友人に謝っておいた。いい男ではあるが那須と並んで霞まぬ十七歳は奈良坂くらいだ。いや辻もいけるか。
「つーかくまだってかわいいじゃん」
「うわあ……」
「うわあって」
太刀川が片手を広げて苦笑する。ほんとだぞ、と本気らしい調子で言うので熊谷はむしろ身構えてしまった。
「そんなこと言われても勝負しないですからね」
「違うっつーの、あれ、言われない? モテんだろ、くま」
「モテると思います? この身長で」
「加古だってでかい」
「誰と並べてるんですか」
比較対象がおかしい。
熊谷の謙遜を、正直謙遜どころの話ではないが、本気で理解できないという顔をする太刀川が熊谷には理解できない。身長どうこうを抜きにしても華麗なる蝶のエンブレムなど到底似合わぬ自信のある熊谷である。やめてください、と熊谷は若干引いていた。
「加古さんは別です、別っていうかもう別次元? あたしなんか全然」
「おまえ鈍いもんなー」
「太刀川さんに言われたくない……」
「失礼なやつだな」
太刀川はへらへら笑いながら俺はいいんだよとうそぶく。かわいいのになあ、くま。軽やかに繰り返される言葉に迷いはないけれど重心もなく、気楽なはずの応酬がじんわりと熊谷の胸の内を曇らせた。なんだろう、と熊谷は得体のしれぬ感情を探る。なにか、ものすごく嫌な感じが。
「もったいねーなー、くまー。青春しろって青春。あ、いっそ俺と付き合うとか」
「ないです」
「ないかあ」
さりげなく那須に視線を向けると二人はまだ盛り上がっている。太刀川が時間潰しの相手をしてくれていることはわかっているがさすがに居心地が悪く、熊谷は結局、誰かこないかな、と先と同じことを考えていた。
ふられたと太刀川は笑っている。微塵も思っていないくせに。熊谷は辟易した。
「太刀川さんだってバトルしようぜで青春終わったじゃないですか」
「おい終わったことにすんな」
「あれ? 太刀川さんっていくつでしたっけ」
「はーたーち」
太刀川がわざとらしく口を曲げる。髭のおかげで若干の違和感はあるが、一応まだ青春いけますね、と適当な相槌を打つと適当にするなと指摘された。ばれた。
「あー、でもそう考えるとまずいのか、女子高生相手ってアウト? 犯罪?」
「ぎりアウトっぽいです、太刀川さんだと」
「え? 髭? 髭が悪いの?」
「見た目的にやばそう」
「そういうとこにぐっときたりとか」
「ないです」
「ないかあ」
のらくら笑う太刀川を見上げながら、ろくに減ってもいないコーヒーに口をつけようとして結局やめた。苦い。高校生という肩書きもブラックコーヒーを飲み切れぬ味覚も、なにか無性にむなしく思えて熊谷は小さく息を吐いた。
熊谷の溜息をどう捉えたか。自信持てよおまえかわいいって、と太刀川がざくざく余計なところを突いてくる。軽やかで優しくてある種とても残酷な。
やめてください、と発した声は思った以上に強張っていた。
「やめてください、かわいいとか、そういう風に言うの」
「なんでだ、本気で言ってるんだぞ」
「あの、気を遣ってもらってるのはありがとうございます、でもなんか」
なにか。
名前すらわからぬ感情がゆらりと胸の奥でくすぶる。社交辞令とわかりきった優しさに勝手に意地になって、そうしてその感情を取り繕うことすらできぬ自分の未熟さがひどく苦い。自分の器はこんなに 小さかっただろうか、と熊谷は気が滅入る。
「本気とか、言われれば言われるほど不毛な気分になるっていうか」
「不毛?」
「なんていうか、こう、子供扱いだなって……」
奇妙な沈黙が流れた。
ここまで喋り続けていたはずの太刀川がふっつり口を閉ざす。さすがに引いたかと熊谷はぼんやり不安を覚えて、けれど相手がこの程度で普段の調子を崩すような男ではないことも知っている。どういう沈黙だ、と表情によっては冗談にするつもりで彼を見上げると、思いがけず強い視線とかち合った。
「——太刀川さん?」
目がこわい。
年長という立場から常にそこにあったはずの余裕がどこにも見えず、見慣れぬ彼の表情に熊谷は慄いた。初めて見る顔だった。怒っているようにも見えない、自分の発言は一体彼の何に触れたのだろう、と熊谷はコーヒーをそろりと握り締める。
感情の読めぬ格子状の双眸。太刀川はゆっくりと瞬きをした。
「おまえさあ」
「はい?」
「……いや、あー、なんだ、意味わかってないよな、うん」
はあ、と息を吐いた太刀川が改めて視線を寄越して、身構える熊谷ににやりと笑った。
いつも通りの太刀川である。少なくとも熊谷にはそう見えた。果たして本心かフェイクか、彼の手の内など知りようもない熊谷の一瞬の躊躇を突くようにして、太刀川がずいと顔を寄せた。
「いいか、フェアじゃないからな、ちゃんと聞いとけよ」
「うわ、ちょっ、近……っ」
「思ってたより脈あるっぽいし、この際犯罪がどうこう言ってる場合じゃないわ」
「いや犯罪はマズイんじゃ」
「くま」
彼はまるで大人みたいな声で熊谷を呼ばう。ああ違う大人なのだ、と気づいた途端に耳のあたりがかっと熱を持った。抗議の言葉を見失った熊谷は成すすべなく口を閉ざす。これはたしかにまずい。犯罪どうこうではなく自分が。
「覚えとけよ、つーか見くびるな」
「な、ん」
「おまえが思ってる以上に俺は本気で口説いてるからな」
ごん、と後頭部から派手な音が鳴った。
身を引かせたあまり背後の壁に頭を打ちつけた音である。激痛の走る頭を押さえながら、痛いやら恥ずかしいやらでいっそしねる、と熊谷は撃沈した。
一方の太刀川は他人事のように笑っている。誰のせいだ。
「おっまえほんとかわいいな」
「やめてください」
「俺としてはもうひと押しって感じなんだけどなー、あっちも解散っぽいし」
近すぎる太刀川から視線を外すと、長らく話し込んでいた二人がようやく足をこちらに向けていた。時間切れだなと太刀川が身を離して、その動作のついでに熊谷の手からブラックコーヒーを掠め取る。あ、と追いすがった手には、かわりに大して減ってもいない炭酸飲料が渡された。
「まあそんな感じなんで。よろしく」
「いやよろしくって……」
どうしろと言うのだ。
完全に取り残された体の熊谷をよそに、太刀川は当然のようにコーヒーに口をつけながら射手二人を出迎える。
「うわあ、太刀川さんまだいたんですか」
「おー、くまの相手してたんだよ、おまえら話長すぎ」
「くまちゃんごめんね、お待たせ」
「え、あ、全然。出水になにか吹き込まれてない? 大丈夫?」
「おーし表出ろくま、白黒はっきりつけようや」
「帰るっての」
絡む出水をあしらってエレベータのボタンを押す。いろいろ聞けた、と満足げな那須が熊谷の手中の炭酸飲料を見やって、けれど何も言わず、何も言わないのか、と熊谷は妙にいたたまれない。
またなくま、と太刀川が笑う。その瞳にともる色までは見えなかった。見えなかったけれどろくなものではないことは確かで、余裕ぶった笑みのまま那須に手を振る太刀川がいっそう挑発的に思えてならない。出水は出水でご愁傷さまと余計な口を利いて、まるきり自覚の追いつかぬ熊谷は欲していたはずの炭酸にも到底口をつける気が起きなかった。
(2019/07/06)
以下蛇足
・たちかわさん来たあたりで空気読んで話を長引かせるなすさん
・くまやべえなと思いつつ役得なので便乗する出水
・思いがけず太刀川さんが本腰入れ始めたのでセコム発動(出水:ウチの隊長が蜂の巣にされる)