無色透明エラーコード
欠伸を噛み殺したところで少し休もうかと類が声を上げた。
正直ばれないとたかをくくっていた。彼の意識は数時間前に司が意気揚々と掲げた新しい脚本に向かっていたはずで、現状テーブルを挟んで繰り広げられる会議はそろそろ混沌を極めている。いくつかの演出プランを挙げながらも司の突っ込み及びえむの擬音を器用にさばき、その上で欠伸ひとつ見逃さない彼の視野は一体、と寧々は決まりが悪い。
「長時間の打ち合わせほど効率の悪いこともないからね、一度休憩を入れようか」
「そうだな。というか脚本を見せるだけのつもりがなんでこんなに白熱してるんだ」
「鉄は熱いうちにと言うだろう。十五分くらいでいいかい?」
成り行きで会議室と化した控室の時計を見やって、今日はこのまま打ち合わせにしてしまおうか、と類が投げかけたところでえむが唐突に右手を挙げた。勢いとキレと垂直とを誇ったきれいな挙手である。
「はい、えむくん」
「休憩もうちょっとほしいです!」
寧々は瞬いた。珍しい。むしろ一刻も早く打ち合わせを再開したがるような彼女が。
類はけれど、すぐさま腑に落ちたような顔をしてわかったそうしようと微笑んだ。さらに十五分延長されることとなった休憩に、やったあとえむが椅子を引っくり返さんばかりの勢いで立ち上がる。
「司くん司くん! 入り口のとこで演奏やってたんだよ! 着ぐるみさんがなんかすごいの、シャカシャカーって! 見た!?」
「まてまて聞くか引っ張るかどっちかにしろ、というか俺これ選択肢ないな!?」
「見に行こうよー!」
「だから選択肢!」
なるほど、と寧々は得心がいく。近場でパフォーマンスとくれば彼女がじっとしているはずがない。様子からして類も件のパフォーマンスを知っていたのだろう。タイムスケジュールごと把握している可能性すらある。
「寧々ちゃんも行くよね! 類くんは!?」
「え」
「悪いね、えむくん。寧々と確認しておきたいことがあるんだ、司くんと偵察頼んだよ」
「お前に至ってはわざとだな? わざと俺の意思なかったことにしてるな?」
「そっかあ。じゃあわかった、行ってくる!」
「俺の声は出てないのか!?」
「聞こえてるよ、司くん」
聞こえてはいるが肝心の突撃弾丸少女に届いているかとなると話は別だ。楽器もすごいんだよと上機嫌なえむに引きずられ、というより引きずられている体で、司はなんだかんだえむについていく。妹がいると聞くからその性分か。あるいは彼自身も純粋に興味をそそられているのか。いずれにせよ素直でない。
騒々しいふたりを見送って、控室に残ったのは寧々と類とその間に横たわる微妙な沈黙だった。なにかよくわかならいが確認事項があるという。本当に演出の話だといい。
「さて」
類が芝居がかった声で仕切り直す。
「ゆうべは何時に寝たのかな」
ストレートに嫌なボールがきた。
なにが確認だ、と寧々は口を曲げる。
「類には関係ない」
「あるとも、大いにね。寝不足の時の集中力がいかに役に立たないか寧々だってわかってるだろう」
「……集中してないのは、認める」
「夜更かしは?」
表情は柔らかいくせにその双眸には圧が見える。嘘も誤魔化しも天の邪鬼もおおかた無益となると知らしめる煩わしい圧だ。
認める、と寧々はしぶしぶ顎を引いた。
「まったく、いつまでも部屋の明かりが消えないから妙だと思ったんだ。またゲームか何かかい」
「やめ時見失って。ていうか深夜に女子高生の部屋チェックしてるってどうなの」
「人聞きが悪いな、忘れてるかもしれないけど君の家と僕の家って隣なんだ」
「なんで隣なわけ?」
「その話は長くなると思うけど」
粗末な八つ当たりである。寧々だってもちろん反省はしている。というか、夜ふかしなど基本的に翌日の後悔と反省と憂鬱しか生まない。それと寝不足による酸欠が少々。ゲームオーバーになったところで諦めて寝ればよかった、と寧々は朝からゆうべの自分を呪っている。
「それで? 実際どうなんだい」
「リッカーがうざすぎる」
「いやバイオハザードの話じゃなくて」
まだゲーム脳だ、と類が指摘する。否定はしないが瞼の裏でプレイ画面が再生されなくなっただけましだ。
「ゲームにのめり込んで、結局何時に寝たのかな」
「三時」
「寧々?」
「……半」
「なるほど」
何がなるほどだ。三十分くらい誤魔化したところで大差ないだろうに。
ばつの悪い寧々は彼の視線から逃げるように目を逸らして、そうやって真正面から向き合わない態度がひどく子供じみていることもわかっていた。彼はいつだって余裕ぶって大人ぶって寧々の世話を焼こうとする。ふわついた天才などと遠巻きにされやすいが近くにいればなんてことない、ただのふわついたお節介だ。
不公平だ。
少し彼のほうが年嵩で、少し彼のほうが優秀なだけなのに。
「類には、関係ない」
何ひとつ成長のない台詞を噛み締める。たしかに欠伸を見つかったけれど集中しきれていなかったけれど、休憩を設けてまで問い詰められるほどの迷惑はかけていないはずだった。
「何をそんなに意地になってるんだい? 別に怒りやしないさ」
「な、にそれ、もともと類に怒られる筋合いなんてないから。いつからわたしの保護者になったわけ?」
「保護者? 寧々こそ何か勘違いしてるな」
「だからそういうとこ、自分は全部把握してるみたいな、寛大ぶって気にかけてやってるみたいな、そういうの」
声から棘が抜けない。よくない流れだ、とわかってはいるがここで踏みとどまれるほど器用であれば最初からこんな事態になっていない。適度にゲームを切り上げてさっさと寝ている。
寝不足の脳味噌が感情の処理にまごついているのがわかる。なぜ、と寧々はもどかしい。なぜこんなにも苛立っているのだろう。
「そういうの、ほんといらない」
ひどい言葉を吐いている。彼を拒む言葉が自身の喉さえ押し潰すようで、じんわりとした圧迫感に寧々は奥歯を噛み締めた。
わずかな物音がする。類が立ち上がった音だった。知らずうつむいていた目線は膝頭ばかり睨みつけて、それでも類がこの場から立ち去る真似などしないことを寧々は知っている。そういう男だ。いっそ不機嫌にでもなって何も言わずに出て行ってくれたらいいものを。
「寧々」
狭い視界がふいに翳った。驚いて顔を上げると類の腕である。テーブルに手をついた彼が妙に平坦な声で、それなら、と言った。
「それなら何がほしいんだい」
寧々はたじろいだ。なんだその声は。
そろりと類の顔を窺う。柔和な発声と表情は一見いつもと変わらぬ優男風情のそれで、そのくせ温度が感じられないという絵に描いたような虚無を体現していた。はっきり言って不気味だ。というよりふつうに怖い。
「る」
「どうやら僕を買い被ってるようだ」
「類?」
「残念ながら君が思うほど僕は大人じゃない、寧々と同じようにね」
まだまだ未熟な子どもだ。身勝手なほどに。彼はすらすらと彼に似つかわしくない台詞を吐く。その口から未熟だとか子供だとか言われても正直皮肉にしか聞こえない。
けれど。
「寛大ぶっているのは無条件に君を心配できる幼馴染という立場を利用するため。心配だって僕の自己満足なんだ、たとえ君が寝不足のせいで苛立っていてもね」
「なにそれ、寝不足じゃなくて類が——」
「それを優しさと呼ぶかは置いといて、これらの厄介な感情を僕は今のところ幼馴染だからという理由で割り切っている。要するに寧々、君はそれをいらないと言ったわけだけど」
「ちょっとまって、何の話」
「その意味がきちんとわかるかい?」
神代類という人間が辺り構わずのべつ幕無しに弁舌を振るう瞬間を寧々はよく知っている。大抵が彼の知的好奇心をくすぐる事案だったり屁理屈を並べ立てる時だったりカモノハシだったりするけれど、つまるところ彼の琴線に何かが思いきり触れたときだ。
寧々の発言、というより失言は、どうやらそれほどに重大な意味を持つらしかった。
「わ、わたし、そんなつもりで言ったんじゃない」
寝不足の頭が酸素を欲している。緊張しているのだ、と寧々は一拍遅れて自覚した。見たこともない感情を顕にする類に、見知らぬだれかのような幼馴染に、寧々は緊張している。
「類が、当たり前みたいに口出ししてくるからちょっとむかついただけ。わたしは類より年下で類みたいに頭もよくないし、類ほど余裕ひけらかして生きるとかできないし」
「それは褒めてるのかな」
「褒めてない。けどひとつでも同じだったら、類のお節介も優しさだって素直に思えるのにって悔しかっただけ。ていうかただの八つ当たり、だから別に」
べつに、と寧々は手のひらを握りしめた。
「心配も自己満足も、すきにしたら」
結局こうして類に甘えている。八つ当たりだと言う声など自分でもわかるほど味気がなく、彼のお節介を素直に受け止めきれないそれもただの言い訳だ。彼と対等にいられぬ子供じみた自分への言い訳。そうとわかっていながら類が待ってくれることも知っていて、幼馴染という蓑に隠れて彼の優しさを利用しているのは他ならぬ寧々のほうだ。
「わかった、それなら好きにするとしよう」
「……なんか類、こわい」
「そうかい? だとしたら少し進歩だ」
類の手が、ふいに寧々の視界を遮る前髪を払った。
先触れのない接触だった。
さらりと、そのまま指先に絡めるように髪に触れられて、寧々は知らず身を固くしていた。もったいつけるような手つきはどこか芝居がかって見えて、ただでさえ鈍っている脳髄からまともな判断力を奪っていく。こういうところだ。こういうところなのだ。毒づく胸中とは裏腹に寧々の息は詰まって声すら成せずにいた。呼吸が。うまくいかない。
その指先も纏う体温もくすぐったいほどに優しい。
けれどその優しさの危ういことも、頭の奥のほうでは理解している。
「君が望むならいくらでも優しい幼馴染の顔をしているよ」
彼のしなやかな指先が耳殻を掠める。
ひ、と寧々は肩を強張らせた。
望むのなら。
いずれその指先が、じかに触れるということか。
「——なんてね」
ぱ、と一転して軽やかな所作で類が両手を広げた。降参のポーズ。あるいは無罪を主張する。
「睡眠時間を見誤った君を脅すのはこれくらいにしておこう。少し寝たらどうだい、寧々」
「は……?」
「わざわざ説教をするためだけに休憩を取ったとでも? 少し目を閉じてるだけでもずいぶん違うはずだよ」
完全に意表をつかれた体の寧々は彼の脈絡にまるきりついていけない。横になりたければ何か見繕ってこようか突っ伏すなら枕代わりに司くんの鞄があるし、などとすらすら続ける類には先刻までのいかにも面倒臭そうな男の影は一切見えず、いっそ夢であれ、と寧々は数分前までの記憶と感情を持て余していた。
「ああ、時間なら心配いらない、えむくんが言っていたバンドだけどあと三十分はやってる。ちなみにすごい着ぐるみというのはDJ」
「興味ないし」
「そうかい? まあまた見る機会もあるだろうしね」
天才という人種の厄介なところにこの切り替えの早さがある。自ら地雷としたお節介を何事もなかったかのように焼き、涼しい顔をしてひとり勝手に普段通りの距離に戻ってゆく。
「僕のことならお構いなく。ネネロボの調整でもしてるよ」
このあたりは完全に自惚れている。
「……妙な機能つけたら怒る」
「さてどうかな、戻ってきたえむくんがネネロボにスクラッチさせたがるとも限らない」
「ネネロボの方向性……」
「盛り上がるんじゃないかな」
「意味違くない?」
朗らかに笑った類が工具を取りにゆく。せめてスクラッチ機能の可能性だけでも潰してから去ってほしい。
残された寧々は脱力するように深く長く息を吐き出した。ただでさえ寝不足で擦り切れそうだった気力を一息に消耗した気がする。そのままずるずるとテーブルに突っ伏して、一瞬のうちに起きたあれこれを振り切るように目を瞑る。ゆらめく意識の中ぼんやりと思い返すのは類の指先ばかりで、果たして今日は眠れるのだろうか、と寧々は頭が痛い。
(2020/10/25)
具体的なゲームタイトル出す予定なかったんですがリッカーあたりの掛け合い書きたいがためにバイオの名前が出ました。もともとガルパの民なのでうっすら仄めかされてるバンドはハロハピです。