アイロニック・スマイリー
ランチに誘ったのはブースのほうだったがすっかり食欲が失せてしまった。主人のいないオフィスでソファに寝そべり、ブースは今しがた目にした光景を思い返さないよう細心の注意を払いながら目を閉じる。数分前まではたしかに空腹を持て余していたはずなのに。
しばらくしてヒールの音が聞こえてきた。オフィスで吐きそうになっている件をカミールから聞いているのか、オフィスに戻ってきたばかりの彼女がブース、とこちらの存在を確かめる。ブースはドアの方向に向けて手をひらひらと振った。
「いるよ、ここだ」
「大丈夫?」
「誘っておいて何だが食欲がない」
カミールから聞いた、とブレナンは抱えていたファイルをデスクに置いて作業衣を脱ぐ。何かあったの、と心配そうな顔をするので詳細までは聞いていないらしい。カミールの慈悲か。
「カムに用があったんだ」
「知ってる。そのついでに私をランチに誘ったんでしょ」
「そうさ、それで——ついで? ついでなんかじゃないぞ、どのみち君を誘うつもりだった」
慌てて体を起こしたブースの勢いとは裏腹に彼女は肩を竦めただけである。この温度差。もう少し頓着してくれてもいい。
「いいけど話逸れてない?」
「よくない」
「じゃあついでじゃなく私をランチに誘ったあなたがどうして吐きそうになってるの」
ブースは説明に入る前に一呼吸置いた。胃のあたりからせりあがってくる、得も言われぬ不快感を押し戻すために必要な時間であった。ブレナンが余計に心配そうな顔をしたのでブースはわざとおどけるように、身振りをくわえる。吐きそう。
「——カムが脳みそをスライスしてた」
「ああ」
ああとはなんだ。
「何だそれは」
「相槌。あなたもよく使うでしょ」
「脳みそをスライスしてた話に相槌?」
「ブース、ここは研究所よ。それも法医学の」
もちろんわかってはいるがそういう問題ではない。ブースだってFBI捜査官という立場上、おぞましい現場だってぐちゃぐちゃの死体だって幾度も目の当たりにしてきた。けれど慣れるものではないし、何より、友人兼元カノがエプロン姿で脳みそをスライスする光景となるとまた話が変わってくる。
「コーヒーも飲めそうにない?」
「すごいな、死体をいじくり回しても君は腹が減る」
「いじくり回してるんじゃなくて調査。カミールだって仕事よ」
仕事として割り切れるからすごいと言っているのだ。彼女らにも人並みの感情や感受性があることはブースもよく理解しているが、それを切り離して作業できるあたり科学者という人種は理解できない。時おり極上の笑顔で興味深いとか言って死体に触れたりもするので本当に理解できない。というかしたくない。
「君たちはイカれてる。褒め言葉だ」
「行くの、行かないの」
「行くよ」
ブースは膝を叩いてソファから立ち上がった。ブレナンが本意を確かめるように眉を顰めたので、心配ないと言っておどける。気分はいくらかましになっていたし、何よりこれしきのことで彼女とのランチをふいにするのも馬鹿らしい。
「ああ、それと、ボーンズ」
「なに?」
「皮肉が過ぎた。すまない」
「皮肉って?」
「君たちはイカれてなんかない」
仕事だ、と彼女の言葉を繰り返す。しかつめらしい顔をするブースに、ブレナンは息を吐くように笑いかけた。
「怒ってないわ。それにそんなことわかってる」
「君たちは天才だ。最高」
「知ってる」
あなたも最高よ、ブース。頬に触れる手のひらにブースの表情がゆるむ。尾を引く不快感の処理にしばらく手こずっていたが、八つ当たりなどよりずっと簡単で優しい手立てがあったことにブースは今さらながら気が付いた。
彼女が笑ってさえくれれば。
「——キスしても?」
「許可いるの?」
「一応きみの職場だ」
「じゃあ私がする」
みじかくキスをしたブレナンが、ランチの時間がなくなると悪戯ぽく笑ってオフィスを出ていく。だと思ったよ、とブースは軽やかな足取りで彼女のあとを追った。
(2015/06/06)