慈悲なき血温
いつか見ていたしあわせな夢は、今、ただ残酷な夢だった。
馴染んだ声に呼ばれてクロウの意識が浮上する。目元を覆う腕を退け、眩しさを警戒しながら瞼をもたげたもののその甲斐なく視界は光にぼやけ、目をすがめたところで不意にその光が翳った。
眼前に現れたひとつの影が室内灯を遮る。視界が楽になったことも相まって、クロウは力を抜くようにわらった。
「……やあ、侑子。おはよう」
「いいご身分ね。こんなところで寝ないでちょうだい」
寝起きの相手にも容赦のない物言いである。彼女の肩からこぼれた黒髪にそろりと触れながら、クロウは横着してまだソファから身を起こさない。
「起きて早々きみの顔が見られるなんてね。夢でも侑子にあったよ」
「光栄ね。それにしてはずいぶん寝づらそうだったけど」
「うん」
生返事をしながら指先に髪を絡める。歯切れの悪さを怪訝がった侑子が柳眉を寄せた。どうかしたの、と目線を合わせる。
クロウはわらったまま目を伏せた。彼女はやさしい。
「きみは私を恨んでいるかな」
二呼吸分、侑子は何も言わなかった。クロウは視界を閉ざしたまま沈黙を甘受する。
やがて彼女の息をつく音が空気を揺らした。神妙とも思えた沈黙は思いのほかあっさり破られ、クロウはゆるりと視線を上げる。
「恨んでほしいの?」
「……そうだなあ……」
今度はクロウが息をつく。長く、くすぶる何かを吐き出すように。
彼女が自分に何も求めていないことは知っている。
やり直すことも、償うことも、どうせできやしないのだ。クロウがそうやって諦観していることを、彼女は知っている。
「恨みやしないわよ。どうせ貴方が誰よりも貴方を恨んでいるのに」
「ああ、それは、そう……だけど、侑子が思ってるほど、私は私を恨みきれていないよ」
名残惜しくも髪から離れ、伸ばした手で彼女の頬に触れる。彼女の頬は白くて、あまりに白いから、いつだってこうして体温を確かめた。
「歪んだ願いが、歪んだ風に叶ってしまって、だからまたきみにこうして触れられる。きみの傍にいられる」
「……歪んだ愛もあったものね」
「本当に」
クロウは息を吐くように笑った。
「なのに、いずれ私はきみを置いていく」
離れたくないと願って、そのくせ離れていくのは自分で、彼女はずっと縛られたままで。
捻れた世界も、ことわりも、本当はどうだってよかった。捻れた彼女の時間だけでいい、せめてどうにかしてやれたら。
「人間なんて勝手な生き物よ」
身勝手を嘆く心境を汲んだかのように、侑子が溜め息まじりにクロウをあやす。
「貴方なんて人一倍好き勝手やってきたじゃない。今さらどうとも思いやしないわ」
「……辛辣だなあ」
「これまでどれだけ振り回されたと思ってるのよ。仕方ないから今回だって振り回されてあげるけど」
あくまで不遜な言い方をする侑子に、それが彼女なりの優しさだと知るクロウは苦笑した。彼女も自分も、自分らが引き起こしたことがこんな上辺だけでやり過ごせるものではないとわかっている。わかっているけれど、こうでもしていないと、あまりに悲しい。
「その辛気臭い顔だけはどうにかしてほしいわね」
「……言うと思ったよ」
頬から耳を辿り、後頭部に手を回して引き寄せる。
深い罪の分愛せてやれたらよかった。世界を教えたはずの自分が彼女の世界を閉ざすだなんて、なんという笑いぐさだろう。けれどそれすら罪悪感に染まりきらないものだから、どうしようもない男だと無性に泣きたかった。