ミスター・スカイ・ハイ
 のどかな日差しに反して吹き抜けた風は少し冷たく、冷えてきたな、と類は他人事のように青い空を仰ぐ。  空が高い。グラウンドのほうから腑抜けたホイッスルが聞こえて、途端に笑い声の混じった歓声が弾けた。ざわめきと野次。再び締まらぬホイッスル。授業中の校舎内は息をひそめたようで、校庭に響く声と体育館にくぐもるボールの音ばかりが入れ替わりに空気を震わせる。  屋上を占拠してどれくらい経っただろう。  じかに座り込んでいるせいで若干腰が痛い。そういえば何度かチャイムを聞いたような、と手中のドライバを置いて校庭を窺うとクラスも種目も変わっていた。知らぬ間に時間割を跨いでいたらしい。 (六限か)  ドローンの試運転の時間を計算する。捨てよう、と再び腰を下ろしたところで重たい扉の開く音がした。  類は首を巡らせる。教師とは似つかぬ遠慮がちな足音。撤退の必要なしと判断した類の視線の先、果たしてそこに立っていたのは呆れ混じりに類を見つめる幼馴染であった。    意外だ。六限はすでに始まっている。 「おや、めずらしい客だ」 「何ふつうにぶっ続けで授業さぼってるわけ?」 「寧々だってここにいるじゃないか」  そっちこそさぼりでは、と言外に告げると寧々は涼しい顔で、自習、と突き返した。 「いっしょにしないで」 「心外だな。僕もある意味自習だよ、というかそれ結局さぼりだよね」  授業中に教室を抜け出したという点では大差ない。  寧々は少し苦い顔をして、だれも勉強なんかしてない、と呟いた。授業という縛りを捨てた教室の様相など推して知るべし、要するに休み時間さながらの空気に耐えかねて抜けてきたのだろう。抜けてきたというより逃げてきたか。 「ふむ。司くんやえむくんに揉まれて多少は人嫌いも治ったかと思ったけど、どうやら相変わらずだ」 「べつに人嫌いじゃない。人混みが嫌いなだけ」 「もしかして教室を人混みと思っているのかい」 「たまに」 「たまにか」  斬新な発想である。  寧々は興味なさげに類の手元を見やって、自習、と問うた。自習、と類はドライバを掲げる。 「世界史よりよっぽど有意義だろう。というか僕が五限もふけてたなんてよく知ってるね」 「外周のとき見えた」 「なるほど」  そういえば五限では持久走を見かけた。今はバレーボール。露骨に声と存在のでかい生徒がいて、司だな、と類は見当をつける。 「連れ戻しにきたのなら暗記科目のくだらなさを心ゆくまで説明するけど」 「いらない。二コマ分も何してるのか気になっただけ」 「ああ、ドローンの調整だよ、新しい動きを実装したんだけど調子が悪くてね。今日えむくんに見せる約束なんだ」 「ふうん。そっちは?」  寧々が類の手元を指した。先ほど分解に取り掛かったばかりのプロジェクタである。 「今朝手に入れたんだ、壊れてるけどたぶん治せる」 「……何に使うわけ」 「その顔は悪用と決めつけてるね。ネネロボに投影機能を実装したら面白いと思わないかい?」  類はそのまま、今思いつく限りの演出とそれに付随する司への無茶振りをプレゼンするつもりだった。呆れ顔の寧々を横目に。むしろその温度差を期待して。  けれど彼女は口元を綻ばせた。  おや、と類は意外がる。 「まさか君がそんなにネネロボのバージョンアップに乗り気だとは」 「は? ちがうし」  辛辣な口振りと裏腹にその表情は柔らかい。司やえむに感化されて多少ましになったとは言え、もとより変化の乏しい表情が緩むことは珍しかった。 「類、たのしそう」 「僕が?」  寧々が頷く。彼女の微細な感情の変化を汲んだつもりが逆に汲まれてもいたらしい。  けれどたしかに、と類は記憶を辿る。ずいぶん久しい感覚だ。新しいアイデアに鮮やかなイメージ、思いついたこととやりたいこと、それらすべてを共有し投影できる同胞がいる。長いことひとりで完結していたたくさんのイメージが。 「——そうだね、たしかに」  そうだ。たしかにこの感情はたのしいと呼ぶ。 「類が素直だとこわい」 「ずいぶんだね。天の邪鬼なら君に勝てる気がしないけど」 「本当はずっとだれかとショーやりたかったくせに」 「その言葉そのまま返すよ」  いらない、と軽口を叩く彼女の声もどこか晴れやかだ。  グラウンドのほうから長ったらしい大声が聞こえる。フェンスに寄って校庭を見やる寧々はすでに呆れ顔で、司くんだろうね、と類は見ずとも確信していた。さすがと言うべきか発声と滑舌だけはしっかりしている。 「そういえば司くんに初めて声をかけられたのはここだったな」 「正直声かけた司も引き受けた類もどうかしてる」 「そういう君だって——いや、堂々巡りになるな、やめよう。そもそもからして僕らは全員まともじゃない」 「聞きたくないけどそれわたしも入ってる?」 「ステージに上がる人間なんてみんなそうさ」  正気じゃない。類は鷹揚に笑った。  たった数時間、たった数十分のステージだ。その一瞬のために練習と失敗と葛藤とを繰り返して、時に挫折して、嫌になって、それでも舞台上の景色に魅せられた愛すべき変人たち。  褒め言葉だ、と類は主張する。どうだか、と寧々はすげない。 「最初は断るつもりだったんだ、僕の場合まともな人間は最終的に離れてくからね。時間の無駄だ」 「つまり司がまともじゃなかったから?」 「いいや。ここから寧々が見えたから」  寧々が訝しげに振り返った。眉を顰めるようにして類の言葉を推し測っている。工具を屋上に転がしながら、そんなに怪訝がらなくとも、と類は苦笑する。 「いい機会だと思ったんだよ」 「機会?」 「そう。こんなことを言うと君の負担になるかもしれないけど、僕はもう一度、いや何度だって、君にあの場所に立ってほしいんだ」  それはひとつ類の傲慢であり、もうひとつ彼女の思いを知るがゆえの願いでもあった。いつかの失敗から不安と焦燥を持て余し、躊躇と葛藤を繰り返しながらもトラウマと向き合えず、それでもステージに焦がれ続けた彼女の。 「寧々の歌が聞きたかった」  彼女は瞬きもせずに類を見つめている。いささか感傷的になりすぎたか、と類は自嘲する。  自覚しながら別段反省もしていなかった。すべて本当なのだから仕方ない、とむしろ開き直っている。寧々がどう受け止めるか、どう切り返すか、出方を窺っていた矢先に彼女がずるい、と言うので類は拍子抜けした。  ずるいとは。 「寧々?」 「類ばっかりずるい。わたしだけ心配されてるみたい」  寧々は歩み寄るなり屹然と類を見下ろした。お世辞にも豊かとは言えぬ表情のおかげで少々物騒ですらある。  彼女の言葉が汲み取れない。話が読めない、と類は両手を広げて降参する。 「わたしだって心配してたのに。なに自分ばっかり保護者ぶってるわけ?」 「保護者って言われるとなかなか複雑だけど」 「類は——」  言いさした寧々が視線を浮かせて言葉を探す。他人に感情を曝け出すことを得意としない彼女が、歯がゆそうにしながらも不器用に言葉を手繰り寄せる。 「類はすごいのに、すごいことを考えてくれるのに、いつもだれにも理解してもらえなくて、いつの間にか類がそのことを諦めちゃって」 「ああ……、割り切ったと言ってほしいな」 「同じでしょ。だって類はだれかとステージを作りたかったのに」  ひとりなんかではなくて。  寧々の声は不思議なほど透明で、たどたどしい言葉とは裏腹にその感情を切実に映し出す。寂しいと。まるでいつかの類のかわりに。 「ひとりぼっちの、錬金術師なんて」 「寧々」 「わたし、もうあんなの見たくない」  彼女のほうがよほど傷ついた顔をしている。  類はようやく理解した。今でこそ賑やかしい面々が類のそばにいるけれど、かつての類にとって同志と呼べるのは彼女だけだった。同じものを好きと言って共有できる、常識外れな類を遠ざけずにいてくれる、そんな彼女を類なりに大事にしてきた。人より不器用に過ぎる彼女のことをずっと案じていた。  けれど、そうだ、きっと彼女も同じだった。  人よりも器用に過ぎる類のことを。 「——保護者ね」 「は?」  そのとき突如グラウンドから声が飛んできた。こらそこのサボり魔ども、と腹からしっかり発声されたそれはあまりに聞き覚えがある。 「類も寧々もまだいるんだろう、言っておくが最初から気づいてるからな! いい加減授業に戻らんか!」 「うわ」  ばれてるし、と寧々が露骨に面倒臭そうな顔をする。  学生の本分がどうだとか両立できてこその何だとか、司は引き続き声を張っていたが類はあまり聞いていなかった。我らが座長の演説を騒音あるいはただの迷惑と判断した寧々が、しつこいな、とフェンスに向かうべく踵を返す。  気づいたらその腕を引いていた。 「ちょ……っ」  華奢な体はいともたやすくバランスを崩す。  倒れ込んできた痩躯を類は両腕で受け止めた。何なの、と混乱を極める寧々はそれでもどうにか類に苦情をつけ、緩む気配のない腕の中で居心地悪そうに身じろぐ。 「ちょっと、類、離して」  抱き留めた体は思っていたよりもずっと小さい。彼女の抗議を聞き流しながら類はステージ上の背中に思いを馳せていた。この薄い背中で、細い肩で、どれほどの不安と葛藤に耐えてきたのだろう。乗り越えた先に彼女の望む景色はあっただろうか。  司の声は止まない。ほっといていいの、と問う寧々を、類は知らず強く抱きしめていた。 「あ、あの、類」  戸惑う寧々の声が間近に響く。  類は答えなかった。黙したまま、そこに根差す感情をひとり辿る。庇護欲。友愛。親情と独善。幼馴染の少女に抱く感情の中に、ふと見知らぬものを見つけた。  執着だ。  そんなものあったのか、と類は他人事のように感心する。 「寧々」  ようやく発した声は想像以上に低かった。  寧々が身を硬くする。ただならぬ情動を本能的に察したのだろう。はなして、と訴える声は先のそれよりもずっと細く、類は彼女の様子を吟味してから結局腕を緩めた。  寧々を解放する。  おそるおそる類の顔を窺う寧々に、冷えてきたね、と類は普段と変わらぬトーンで笑った。 「さてと。司くーん、その無駄にでかい声落としたらどうだい、充分聞こえてるし授業の迷惑だ」 「さんざん無視を決めておいて第一声がそれか! 大体そんなとこで何してる」 「それ聞くの野暮じゃないかい」 「なっ」  何をしていた、と司が声を荒らげるので類は声を立てて笑った。何を想像したのだ。  類の様子に毒気を抜かれたらしい、寧々は教室に戻ると告げてぎこちなく立ち上がった。うるさい、とわざわざ司に釘を刺してから踵を返す。 「——類」 「うん?」  当然ながら類は戻るつもりはない。屋上に居座ったままドライバを拾い直した類に、寧々が扉に手をかけたまま躊躇いがちに口を開いた。 「ドローンと、ネネロボ」 「うん」 「……その、たのしみにしてる」  数秒ほど反応を忘れた。  出遅れた類と一刻も早く立ち去ろうとする寧々である。結果的に任せたまえという台詞は行き場をなくして、あとに残ったのは閉じた扉の残響だけだった。  参った。  類はうしろに倒れ込んでひとしきり笑った。 「おいなんだ、まだいるつもりか類」 「いやもうほんとうるさいよ司くん」  ずいぶん視界が開けたらしい。先よりずっと空が広く見える。  司が尚もでかい声で類に突っかかる。はいはいと適当に受け流しながら類は深く呼吸をした。自分で聞く声はあまりに晴れやかで、いい気分だ、と類はすこぶる機嫌がいい。
(2020/10/11)

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