あやつなぎ
早朝の空気をくすぐるようなココガラの声が、ベッドに沈むソニアの意識をゆるやかに起床へと導いた。
窓から差し込む朝日が瞼越しに眩しい。とんとんと玄関からノックの音が聞こえて、ソニアはむずがるように身じろいで枕に顔を埋める。だれだ、いや、新聞か、と来客のあたりをつけつつも到底起きる方向に意思が働かぬソニアの耳に、やがてドアの開く音がした。新聞配達のキャモメの声。ご苦労さま、と労う彼の声。
隣で眠っていたはずのダンデはとうに起きていたらしい。
どうりでベッドが広いはずだ。
かさりと新聞をテーブルに置く音がした。忙しさにかまけて散らかったままのテーブルである。片付けなくては、いやその前に起きなくては、と往生際悪く枕に執着するソニアの耳に、続いてカーテンの音がした。
シャ、と軽やかな音とともに朝日がやわらぐ。
ふつう逆では、と不審がるソニアの隣に、起きたはずのダンデが潜り込んできた。
「んー、ダンデくん早起き……」
「早くないぞ、十時だ」
「じゅうじ」
「オフだ、まだ寝るだろ」
「寝るけど」
十時、とソニアは時刻を吟味する。ここから二度寝となるとおそらく起きるのは昼を過ぎる。背後でもぞもぞソニアを抱き寄せている男も寝る方向であろう、せっかくのオフをふいにすると思うとそれはそれで惜しい。
けれど。
「買い物いきたいなあとか」
「今度な」
「花に水あげてないなあとか」
「あげだぞ」
「このまま寝て終わりそうだなあとか」
「休みだ、休んで何が悪い」
そういう彼のほうが普段ろくに休んでいない。心身ともにタフを自称するダンデは体をいたわることを無下にしがちで、となればこのまま惰眠を貪るほうが彼の体のためにもなる、とソニアは手軽な口実を見出した。ひとには休め無理をするなと口やかましいくせに。
当のダンデはソニアを抱きしめた体勢で落ち着いている。背中越しの体温がぬくい。
「……もしかしてこの体勢で二度寝する?」
「そのつもりだが」
「ダンデくん熱くて寝苦しいんだよね」
「それはオレの筋肉の話か? オレか?」
「どっちも」
「なら我慢してくれ」
「ぐえ」
がっちり抱き込まれてソニアは潰れた声を上げる。足を絡められて、そこで初めて自分の足が冷えていたことに気付いた。
「花咲いてた?」
「もう少しだな」
どさくさに紛れて服の裾から潜り込んでくる手を押さえて、もう少しかあ、とソニアは欠伸をする。じかに触れる彼の手が温かい。うごめく手の甲を抓るとダンデはだめか、などとぼやいてあっさり撤退して、ソニアからうつった欠伸を噛み締めた。
***
あと少しと言えばあと少しのような気もする。
元気そうに背を伸ばすばかりでその蕾はいっかな開かない。
がさりと新聞を捲りながら、ソニアはテーブルの真ん中で長いこともったいぶる花を眺める。このまま咲かぬうちに枯れるのでは、という予感もあるにはあるが到底枯れるとは思えぬほど花自身は元気である。なぜ咲かない。
「どうだ、あと少しだろう」
「おはよ。ダンデくんいつもそう言うじゃん」
おはよう、と起き抜けのダンデがソニアの頭にキスをする。コーヒーいれようか、と提案するとオレがいれると断られた。ソニアのは濃い、と朗らかに笑う。
「思ったより寝てしまった、ソニアのほうが早かったな」
「ダンデくん熱くて寝苦しいんだよね」
「どこかで聞いた気がする」
「うーん、二時間くらい前かな」
新聞のスペースを確保するために多少片付けたが、控えめに言ってもテーブルの上はまだ散らかっている。手を伸ばして数日寝かされた郵便物や冊子をどかして、ソニアは申し訳程度に彼のためのスペースを作った。
「ダンデくんにひとつ謝らなくちゃいけないことが」
「どうした、改まって」
「先週喧嘩したじゃん、シンオウの研究所からの返信捨てたとか捨ててないとかで」
「喧嘩というよりソニアが怒ってただけだ」
「うそだ、ダンデくんだって苛々してたもんね」
届いているはずの郵便物がなくて、ダンデに訊いてみるとダイレクトメールと一緒に捨てたかもしれない、と呑気な答えがあって、困る、とソニアが声を上げて険悪な空気を呼んだ。喧嘩とも呼べぬ、たしかにダンデは終始冷静だった。けれど人間とは得てして言葉よりも声のほうに感情が反映されるもので、そのときの彼の声には辟易の色があった。呆れてもいた。正直ダンデにしては珍しい、彼は彼で疲れていたのだろう。
「あったのか?」
「ありました」
先ほど発掘した。積まれていた資料の間に挟まっていたのだ。思えばソニアも疲れていた。
「オレは探し直そうと散々言った」
「わかってます、感情的になって撥ね付けたのはわたしのほうです」
「ソニアは学者のくせに感情的だ」
「めちゃくちゃ反省してます」
そこがソニアのいいとこだけどな、とダンデが鷹揚に笑う。コーヒーをふたつ持って戻ってきた彼に、甘い、と指をつきつけると彼は涼しい顔をしてソニアにマグを手渡した。
「どろどろに甘やかしてオレの元から逃げられなくする作戦だ」
「作戦思いっきり口に出てるけど大丈夫?」
「コーヒーになにか入ってたりしてな」
「お砂糖がいいなあ」
マグに口をつける。たしかに彼のいれるコーヒーのほうが美味しい。
真向かいに座ったダンデが咲かぬ花を一瞥した。マグを傾けながら、咲きそうなんだがな、とつぶやく。
「ていうかほんとに咲くのかな」
「咲くさ。もう少しだ」
「どこかで聞いた気がする」
「二時間くらい前じゃないか」
ダンデが物欲しげにソニアの手元を見つめている。新聞である。彼の視線から取り上げるように新聞を引き寄せて、まだだめ、とソニアはダンデを牽制した。
***
午後の配達、ペリッパーが届けたのは研究所宛の荷物だった。
配送ミスはともかくソニア宛であることに変わりはない。少し迷ってから結局荷物を受け取って、大きく羽を広げるペリッパーにまたよろしく、と声をかけてソニアは部屋に戻る。
穏やかな昼下がりのソファ。絶好の条件のもとダンデが撃沈している。
遅い昼食の後にようやく回ってきた新聞を顔にかぶって、ダンデはどうやら午睡の誘惑に負けたらしい。顔は見えないが十中八九寝ている。仰向けになって眠る彼の腹の上ではさらにワンパチが寝ていて、なぜ揃いも揃って寝づらそうな体勢で、とソニアは呆れる。
「こら、ワンパチ」
ワンパチはぴすぴすと鼻息で応じる。ダンデの腹筋を軽んじるつもりはないが十四キロはなかなか重たい。というか太ったよな、とソニアは丸くなった相棒のサイズ感を神妙に見下ろして、そうこうしているうちにワンパチがぴくりと耳を立てて起き上がった。
「うぐ」
腹に前足が食い込んだダンデが新聞の下で呻き声を上げる。やめてあげな、とソニアはワンパチを抱えようとして、けれどワンパチはその手をすり抜けるように窓に駆けていってしまって、浮いたソニアの手をかわりにダンデが捕らえた。
ワンパチを捕まえるつもりがダンデに捕まっていた。そのまま容赦なく腕を引かれて、ポケモン馬鹿の評価をかわせばおそらく筋肉バカにぶち当たる彼の力になど抗いようもなく、ソニアはあえなくダンデの上に倒れ込む。
「ちょ……っと! 危ないんですけど!」
「起きたらソニアがいたんだ。つい」
「何その登山家みたいなやつ」
抱き込むようにダンデの腕が背中に回される。喋りづらそうな新聞を見かねてどかしてやると、ダンデは眩しそうに目を細めておはようと笑った。
「ペリッパーとなにか揉めてたな」
「揉めてない。研究所宛の荷物こっちに持ってきちゃって」
「荷物?」
「そう、シンオウの研究所から」
シンオウ、とダンデが繰り返す。やり場のない新聞を持て余しながら、ソニアは彼の上で落ち着く体勢を探していた。
「今朝見つけたと言っていた郵便もシンオウからだったな、懇意にしてる研究者でもいるのか?」
「あー、そんなかんじ」
「微妙なかんじだ」
「うーん」
結局体をすべて預ける形になった。彼よりもソファの上のほうが居心地がいいことは明白で、そもそも数分前にワンパチを諫めた手前ここで寛ぐのもな、と思いつつソニアは何も言わない。もちろんダンデも何も言わない。
「むこうの研究所に花咲かないの相談してみたんだよね、こっち寒いし、土とか水の質とかいろいろあるじゃん、参考になるかなって思って」
「熱心だな」
「研究者としてはね。でもなんか、そういうので育ててるんじゃないしなあって思って、結局開けてない」
「なるほど」
かりかりと窓を掻く音がする。外のホシガリスにつられたワンパチであろう、こら、と遠くから声をかけると呼ばれたと勘違いした相棒が喜々として返事をした。そうじゃない。
「資料とかサンプルとかいろいろ送ってくれたみたい。あとでお礼のメールしとこ」
「いいのか? 厚意に甘えたほうが早く咲きそうだ」
「いいの。そういうつもりなら研究所で育てるし」
荷物はテーブルに放置されている。専門は違えどソニアとて研究者の端くれだ、咲かないという問題に対して答えを模索したがる探究心ももちろんある。この手にかかれば花くらい、と息巻いたところで白衣を纏わぬソニアは気づいたのだ。咲くことが正解ではない。咲かぬ答えにだってどうせ意味はない。
取るに足らぬことだ。
じれったい花をめぐる彼との時間が好きだ。
「あれはダンデくんと育ててる花だから」
咲かぬ花を彼も楽しんでいる節がある。
そうか、とダンデが目元を和らげた。
こぼれた髪を彼の指先が掬い上げて、大きな手に似合わぬ繊細な手つきでソニアの耳にかけ直す。そのまま頭を引き寄せられてキスをした。聞いてんの、と笑って、それでも彼の手がソニアを解放しないのでもう一度。
戻ってきたワンパチがソニアの手から新聞を奪い取る。音が気に入ったらしい、キスに興じる隣でがさがさと新聞と戯れ合う音はあまりに不似合いで、口づけのさなかにも関わらずソニアはたまらず噴き出した。
「あーあ、ぐしゃぐしゃじゃん、ダンデくん読んだの?」
「一面だけな。ソニアに聞くからいいさ」
「なにそれ。たいした記事なかったよ」
「平和ってことだ」
「ポジティブ」
なによりだ、とガラルの象徴であり英雄であった男が他人事のように笑う。
ソニアは彼の胸板に頬杖をついた。花は咲かないし新聞は皺だらけ、貴重な休日はきっと何もしないまま終わって、けれどダンデはずいぶん満足そうで、たしかに、とソニアはつられるように破顔した。たしかに平和だ。小さな世界のささやかな平和を彼が堪能している、それで充分だった。
(2020/02/02)
lovin'(ミセス)ききながらダラダラ書いたダラダラした話。どうせなので花も育ててもらったらびっくりするくらい咲かなくてびっくりしました。