カシミア
ただいま、という言葉が知らず口をついて出た。
おかえり、とそれに応じる声。ミクリは当たり前のように笑ってナギを出迎える。
妙な気分だ、とナギは眉を顰めた。
「妙な気分だ、という顔をしてるけど」
「妙な気分なだけだ」
ただいまなどと。
よもやこの言葉に意味を見出す日が来ようとは思いもしなかった。かつての別れを決めたのはナギだったが、後悔したことはないしおそらく今後もすることはない。自分にとって必要な過程だったのだとそのあたりの区切りはとうについている。けれど今こうして彼の存在に安堵しているあたり、ほんのすこし、けれど確かに、それに近しい思いはあったのだろう。
こんな時間が恋しかったのだと。
ナギは蹲りそうになった。自覚のない未練を突き付けられたかのようだ。というか実際そうだ。どうかしたのかい、とミクリが心配してくるので、着替えてくると言い置いてナギはその場から逃げた。
着替えを済ませてリビングに戻ると、紅茶でいいかい、とすでにカップをふたつ手にしたミクリが訊ねてきた。
「選択肢あるのか、それは」
「きみの選択肢って大抵ふたつだからね、淹れておいたほうが早い」
「コーヒーか紅茶かという話か?」
「コーヒーかなんでもいい」
「なんでもいい」
「決まりだ」
カップを受け取ろうとしたが断られた。食い下がるのも面倒なので一足先に二人掛けのソファに落ち着いて、コーヒーしかない時はどうするんだ、と適当な疑問をぶつける。
「別に飲むし嫌いではないよ。というかきみがコーヒー淹れたときは飲んでるだろう」
「たまに渋い顔をしてるから苦手なのかと思ってたんだ」
「きみが淹れるコーヒーって濃くてね。苦手かと疑ってくれてたのならあれは嫌がらせかい?」
テーブルにカップを置いたミクリが当然のように隣に座ってくる。無自覚だった、と肩を竦めると知ってるよとミクリが笑った。
カップを手に取るとアップルの甘い香りが鼻腔をくすぐる。果たしてこの家にアップルジャムなどあっただろうか。考えるだけ無駄なことは明白で、紅茶の件と同様この男が持ち込んだに違いなかった。
「しかし、あの二人はなんだかんだ言って似てるな」
「うん?」
他にも侵食されているかもしれない、と心当たりを探していたナギは、ミクリの言葉が弟子たちを指すとわかるまでに少しかかった。なぜ、と聞き返すと彼が苦笑する。
「いや、実は今日、ここにくる前にルビーからその件で相談されていたんだ。ずいぶん落ち込んでいてね」
「ルビーが?」
「ああ、サファイアを怖がらせてしまったと。どんな迫り方したんだろうな、あいつ」
「そういう話なのか」
ナギは笑いながらカップに口をつける。お互いに相手を傷つけたと傷つき、それぞれの師を頼ってきっと今ごろ寝付けずにいる。たしかに似ているのだろう、とその感情は同情に近い。若さゆえの大胆さも、相手を思うがゆえの臆病風も。
「……だけど、おまえがいてくれて助かった。私だけだったらフォローしきれたかどうか」
「おや、謙遜するね」
「本当にそう思ってるよ」
たとえば紅茶だ。心が落ち着くと言ってカップを差し出す、ナギはその手の気遣いが得意でない。その点ミクリはよく気の回る男で、ああいった局面で細かな気遣いができるところは素直に羨ましい。さもこの家の人間のように振る舞っていたのはともかく。
「しかし、そうだな、きみが困っていたのは可笑しかった」
「ああ、前言撤回する、全然助かってない。むしろわざと助けなかっただろう、おまえ」
「きみが何と答えるのか気になってね」
「悪趣味なやつだな」
ナギは毒づく。実際ミクリが横で面白がっているという事態がさらにナギの気を滅入らせたのだ。
「だけどきみの貴重な意見も聞けたわけだし」
「もう忘れた」
「勿体ないな。私はきちんと覚えてるよ」
今すぐ忘れろ、とナギはカップをテーブルに置いた。困惑に困惑が重なってろくなことを口にした覚えがない。というかこの件に関してはもう触れないでほしいというのが本音だった。
しかし相手がこの男ではそうもいかない。
「最初こそ葛藤もあるがそのうち自分からも——」
「うわああ!!」
だからって暗唱するやつがあるか。
運よく自由になっていた手で慌ててミクリの口を抑えながら、ナギは羞恥で頭が沸騰するかと思った。そうだそういえばそんなことを言った気がする、と一気に自分の台詞が蘇ってくる。
ミクリはナギの手を掴んで声を立てて笑った。間違いなく面白がっている。
「経験談ということでいいのかな」
「あれは言葉のあやだ。忘れろ」
「葛藤があったのかい、きみも?」
「だから!」
こちらの言い分もお構いなしに掘り下げてくる彼に、さしものナギも苛立ってきた。あれはサファイアを宥めるべく選んだ言葉だ。傍らで見ていただけの男にとやかく言われる筋合いはない。
いい加減にしろと撥ねつけかけたそのとき、ふいに彼のまっすぐな瞳とぶつかった。意表をつかれるほど真摯な眼差しだ。ナギは驚いて言葉を飲み込んでしまう。
「ミクリ?」
「私と触れることに不安があった?」
「だれだってそうだろう」
「最初に付き合っていたときだろう? 私はきみを大切にしてきたつもりだったが、どこかで怖がらせてしまっていたのかな」
「ああ……それは違う、そうじゃない」
なるほどしつこかった理由はそれか。得心がいくと同時に少し可笑しくもあって、ナギはにわかに目元をやわらげた。
「怖いというのも少し違うんだよ。ただその表現がいちばん近いだけで、もっと複雑で漠然とした感覚だな。男にはわからないと思う」
「そういうものか」
「うん。女にはいろいろあるんだ」
「その言い方はずるいな」
苦笑をにじませるミクリに、ナギは含むように笑った。ずるい、と言いながらもそれ以上詮索してこないあたり彼なりのわきまえが見える。
「だけど、そうか、そこにも齟齬が生じるのか。そのこともサファイアに話してやればよかった」
「ナギ」
「うん?」
掴まれたままになっていた手が解放され、声につられてミクリを見上げると両手で頬を押さえられた。そのままぐいと引き寄せられて慌ててソファに手をつく。身を乗り出すような体勢を取らされ、ナギは至近距離の男を探るように見つめた。
「ミクリ?」
「今はどうなんだい?」
「え」
つい先程までまともな顔をしていたミクリが、この瞬間、きれいに微笑んでみせた。この男の完璧な笑顔ほど胡散臭いものもない。やられた、とナギは顔を顰める。はめられた。
「まだ不安が?」
「……あると言ったらどうするつもりなんだ」
「言うわけないとわかってるから聞いてるんじゃないか」
「むしろ不安しかない」
「それは心外だな」
心外そうな様子など微塵もない。彼とは言葉の擦り合わせが必要だな、とナギは辟易している。
「自分からも触れたいと思うようになるときみは言ったよ」
「答え出てるじゃないか。もういいだろうこの話」
「ナギの口から聞きたい」
「な」
頬がかっと熱くなる。おそらくそれを間近で確認したであろうミクリが口許を歪めた。
これでは彼の思うつぼだ。冷静に理性的に立ち回ることが唯一の打開策だろうが、そう易々と上手を行ける相手ではないことも知っている。となれば先手必勝か。ナギは若干捨て鉢だった。
「——わかった」
ぐいと仰のいて、触れる。耐えきれずに一瞬で離れたが、ミクリのほうは完全に不意をつかれたようだった。棒でも飲んだかのような顔。ざまをみろ、とナギは内心で吐き捨てる。
「伝えたぞ」
口で。
ぎりぎりの虚栄心で告げるとミクリの顔にじわりと笑みが滲んだ。しまったこれはこれで地雷か、と身を引くがもう遅い。
「及第点だ。あともう一歩ほしいな、ナギ」
「なにを……っ」
引いた体に合わせて体重をかけられては一溜りもない。まんまと押し倒されてミクリを睨み上げたがそれもすぐにぶれた。
吐息と文句とをいっぺんに塞がれる。彼の言うあと一歩、はなぜか彼がくれた。先の問答を思い返すと不安のひとつも感じていない現状がその答えを裏付けていて、ナギは抗うのも馬鹿馬鹿しくなって目を閉じる。