in the Clear
 葉を打つ雨の音。遠くでマッスグマが吠えていて、纏わりつく雨音も相まってその声もどこか重だるく聞こえた。このあたりはあまり晴れないと聞く。マッスグマも気が滅入るだろうな、とソニアは同情する。  ぱたぱたと頭上で雨をはじく葉身は思っていたよりも頑丈で、土壇場で駆け込んだ先にしては上々と言えた。まったくの被害なしとは言えないが雨宿りには申し分ない。あえて不満を上げるとすれば葉の位置があまり高くなく、屈んでいなくてはならないのが少々つらい。  低く飛ぶキャモメが頭上の葉を掠めていく。  雨にもかかわらず器用に飛びゆくポケモンがにわかに空気を震わせて、葉からすべり落ちた雨雫が手元に落下した。早々に存在意義をなくしたマップの裏面、時間つぶしに引いていた線を台無しにされて、あ、とソニアは声を上げる。  途端に草むらの影にいたカクレオンがぎくりと身を震わせる。  スケッチの対象は音もなく姿を消していった。 「……うーん」  腹のギザギザ模様だけが宙に浮いている。  あれだけでもスケッチすべきか、とソニアは手元の中途半端なスケッチを見下ろした。全身のどこよりも目立ちそうな部分が残るとは難儀なものだ。スマホロトムの調子も悪く手持ち無沙汰な身だ、腰は相変わらずつらいが結局ほかにやることもなく、ギザギザを描きながら個体差や雌雄差について考えを巡らせていると、突如ギザギザが草むらに引っ込んでしまった。  かわりのように傘を手にした幼馴染が草むらから姿を見せる。野生のジグザグマも顔負けの堂々たる登場である。 「快適そうだな、ソニア」 「ダンデくんこそいい傘じゃん」  皮肉にも動じぬダンデがにかりと歯を見せた。幼い頃から雨にも負けず風にも負けず土地勘にさえ負けず駆け回っていた姿を知るだけに、当然のように手にしている傘が絶望的に似合わない。 「あーあ、スケッチの途中だったのに」 「スケッチ? なにもいないぞ」 「いたっていうかいなかったっていうかいたけどいなかったっていうか」 「禅問答か?」 「ダンデくんのせいで逃げた」 「なるほど」  ダンデは悪びれる様子もなく、呑気だな、と苦笑する。 「雨宿り中であっても観察を怠らない、むしろ研究熱心って言ってほしいくらいなんだけど」 「ものは言いようだ」 「研究熱心?」 「いや、雨宿り」  ダンデが傘を傾けて頭上の葉を見上げた。雨宿りという言葉に間違いはない。見立てだって悪くはない。いささか分の悪いソニアの頭の上、時おり風に揺れながらもたしかに雨を受け止める葉身を眺めながら、申し分ないな、と彼が呟くのでソニアは一転して得意になった。 「でしょ。いっしょに雨宿りしてく?」 「オレのことを通りすがりか何かだと思ってないか?」 「雨で往生してるソニア博士を迎えにきた」 「惜しいな。迷子のソニアを迎えにきたんだ」  往生してたのか、とダンデが素で訊いてくる。かねてより方向感覚をぶん投げているような彼の頭にも一応、往生などという概念が存在するのだな、とソニアは感慨深い。 「捉え方によるよね、この場合そっちがはぐれたって見方もあるし」 「たしかに迷いやすい地形だ」 「ダンデくんが言うと説得力が違う」 「おう、任せろ」 「なにを? 迷子を?」  彼が手にしている傘は彼らしく手軽かつ機能的な透明傘だが、そもそも傘を所持するどころか傘を差す習慣さえ怪しいダンデの性分を鑑みるに、おそらく天気研究所で借りてきたものであろう。傘など似合わぬ彼が。ソニアを迎えにくるために。 「おかげですぐにソニアを見つけられた」 「ありがとう。なんかすごく複雑だけど」 「こんなところで雨宿りとは意外だったがな」  ダンデが傘を差し出した。少々名残惜しくて草むらを見渡したがすでにカクレオンの気配はなく、結局ギザギザ模様だけのスケッチを諦めてソニアは彼の傘の下に飛び移る。  途中ふたつほど悲劇が起きた。ひとつは避けたはずの水たまりが思いのほか広かったこと、もうひとつは長らく屈んだままだった膝が痺れて思いきり重心がぶれたことだ。  当然のようによろけた。  なけなしの反射神経で伸ばした手を強く引かれて、気づくとソニアはダンデの腕の中にいた。 「大丈夫か?」 「面目ない……」 「昔はこのくらいどうってことなかったのにな」 「言っとくけど同じだけ年とってんだからね」  他人事にするな、とソニアは逞しい腕を叩いて抗議する。そうは言っても危うげなく他人を受け止めた腕といい体幹といい、今現在においても彼が水溜りにはまる恐れなどないことは明白で、ソニアは馬鹿らしくなってダンデの腕から抜け出した。抜け出そうとした。  できなかった。  ソニアを抱きとめた左腕にぐ、と力がこもって、どういうわけか眼前の男はソニアを離さない。 「……ダンデくん?」 「サンキューな、オレが引き取るからあとは大丈夫だ」  傘を傾けたダンデがソニアの後方に向かって声をかける。  葉の擦れる音がした。え、と目を瞬かせるソニアの背後から、のんびりとしたトロピウスの声が届く。 「え、嘘」  ソニアは窮屈な体勢で首を捩る。振り向くと先刻までの雨宿りの葉の主が、ゆったりとソニアを見下ろしていた。 「うわ、ごめん、わたしてっきり昼寝してるものだと思ってた」 「オレが見つけたときには起きてたぞ」 「まじか」  のそりと身を起こしたトロピウスが葉を大きく震わせて、雨の中気持ちよさそうに首を伸ばした。長らく同じ姿勢を余儀なくされた生物の動作である。わたしのせいか、と呟くと、だろうな、とダンデが笑って、悠長に雨宿りをしていた手前さすがに分の悪いソニアである。  トロピウスは気に留める様子もなくのそのそ去ってゆく。 「トロピウスめちゃくちゃ優しいじゃん……」 「オレだって優しい」 「なんで張り合ってんの?」  ダンデの腕は一向に緩まない。なんでだろうな、とソニアの疑問をきれいに流して彼は一方的に会話を切り上げる。傘の下の沈黙。頭上ではぱたぱたと雨が不規則に傘地を叩き続け、時おり露先から落ちる雨滴を眺めながらソニアはダンデの言動に思いを馳せていた。離さぬ理由も張り合う理由も彼は語らないけれど、彼らしからぬ沈黙を思えば大方の想像はつく。 「……もしかして心配かけた?」 「すごくな」 「ついでに妬いてる?」 「ちょっとだけだ」  ちょっとか、とソニアは笑いながら身を預ける。少々読み外した。 「心配かけてごめん」 「びっくりしたんだ、研究所についたら肝心のソニアがいない」 「ごめんって。傘研究所で借りたの?」 「ああ、ツリーハウスすごかったぞ」 「違うな、それヒワマキまで行っちゃってるな」  彼の底力を舐めていた。結局お互い迷子ではないか、とダンデに回収された体のソニアは腑に落ちない。  本来であれば。研究所について、後からダンデが来ないことに気づいて、草むらを探すより先にヒワマキシティに目星をつけて、惜しいけどなんで街についちゃうかな、と呆れるのが自分の役目であったはずなのに。 「あ、そうか」 「うん?」  ダンデの迷子などとうに慣れている。  けれど逆はどうだ。 「焦ったんだ、ダンデくん」 「焦ったぞ、自分の迷子に慌てればいいのかソニアの迷子に慌てればいいのか全然わからないんだ」 「そういう次元? ていうかダンデくんが迷子で慌ててるとこなんて見たことないけど」 「ソニアだって呑気だっただろう」  たしかに、とソニアは納得してしまう。探す立場と打って変わって探される立場となると気楽なものだ。 「ダンデくんが見つけてくれるって信じてたから」 「さすがのオレでも建前と社交辞令くらいは知ってるぜ」 「かわいくないなあ、ソニアさん渾身のボケを。あと言っとくけど建前じゃなくて皮肉だから」 「ボケだったのか」 「皮肉だってば」  基本的にこの幼馴染はポジティブと天然が行きすぎてキャッチボールのセンスがない。会話のキャッチボール。  話逸れてないか、とダンデが他人事のように問うので、逸れてるよ、とソニアは不毛な応酬を諦める。 「少しはいい薬になるかなって思っただけ。でも考えてみたらわたしはダンデくんの迷子に慣れてるけどダンデくんはわたしの迷子に慣れてないし、わたしもわたしの迷子に慣れてないし、わたしが思ってる以上に心配かけたかなあとか」 「ああ」 「ちょっと反省した」  ちょっとか、とダンデが笑う。片手には傘、片手にはソニアと不自由な体勢にありながら、彼の重心は揺らがない。包み込む腕はしっかりとソニアを支え、心配とか焦燥感とか、そんなものとはいかにも無縁そうなくせに、とソニアは不思議だった。 「迷子なんて慣れてるくせに」 「ソニアは慣れてないからな。雨もひどいしどこかで凍えてるかもしれない。鳥ポケモンに襲われてるかもしれない。川に落ちたかもしれない」 「迷子こじらせても川には落ちないと思う」 「かと思えばトロピウスの下で落書きだ」 「ごめんってば」  落書きって言うな、とつま先でダンデの足を小突く。いつもであればすまんと笑うはずの彼が今はただソニアを抱き締めるだけだ。  雨足が弱まる様子はない。去っていったトロピウスの影は消え、カクレオンの気配もとうになく、ソニアはふいに一人雨ざらしになっていたかもしれない自分に思いを馳せた。きっと心許なかっただろう。トロピウスが寄り添ってくれてよかった。カクレオンが姿を見せてくれてよかった。 「……ダンデくんが見つけてくれてよかったあ」  ふうと息を吐く。思っていたよりも心配をかけた、けれどたぶん、ソニアだって思っていたよりも心細かった。  ダンデが傘を揺らして、そうだな、とソニアの安堵に寄り添う。 「迷子なら任せてくれ」 「さっき聞いたって」 「怪我もないんだな」 「ないよ」 「心配したんだ」 「……うん」  けれど、彼には悪いけれど、悪い時間ではなかった。トロピウスの葉の下で聞いた雨のおと。草葉のみずみずしい色彩。飛びゆくキャモメのシルエットと、そろりと溶け込むカクレオン。  知らぬ土地での迷子も捨てたものではない。  くわえて彼の心配である。大げさなそれが可笑しいようでくすぐったいようで、どの口が言うんだかと笑い飛ばす、その時間はもう少しあとに取っておこう、とソニアはダンデに身を任せる。
(2020/10/04)
119番道路にて。

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